アイラが帰ってしまえば二人きり。顔を見合わせるでもなく様子を窺い合う。互いにその中で思っていた、痩せたな、と。自分が知っていたころの相手とは違うと。半年以上と言うべきか、一年未満と言うべきか。離れて過ごした年月が相手を変えた。自分も変えた。知らなかった事実をいまのティアンは知りもした。 「……モルナリアを逃げてから、どうしてたんだ?」 ぼそりとした、喉に絡まったティアンの声。ダモンは唇だけで静かに微笑む。ひどく懐かしい仕種だったような気がした自分に驚く。 「ニトロが、言っていたとおり、かな。――カレン師に、半ば強引に店を持たせてもらった」 あれは、あるいは自分が逃げ出したりしないように、ということだったのかもしれない。どういうわけか助けると言ってくれているニトロとその師。逃げられては助けようがない、そんなニトロの渋い声が聞こえた気がした。 「香油の、店。小さな商いだけど」 楽しかった気がしなくもないダモンだった。ティアンが現れるまではこのままぬるま湯のよう、こうして生きて行くのかとも思っていた。生きている気は、あまりしなかったけれど。 それでいいとも言ったカレンだった。すぐに変われるものでもないのだから時間をかけてやれと言った彼女だった。物心ついたときには闇の手の一員。ならば同じ時間をかけて、こちらの世界に馴染めばいいだけのことだと。 できるような気もしていた。やっていいのかと迷ってもいた。この手は血に汚れている。それを恥じる気が微塵もない自分。エイメも、先ほどのアイラという女性も言う、仕事ならばそれが普通だと。それが普通なのかどうか、その判断がダモンにはできなかった。 「そうか」 小さくティアンが笑った。思わずダモンは彼を見やる。やはり痩せたと思った。温室で見ていた彼とは違う。どれほどつらい目にあったのか。そうしたのは自分。 「お前は、覚えてないかな。――前に、イーサウで店を持って、なんて話したよな。その夢が、叶ってるんだと思った」 叶っているのだろうか。言った自分が信じがたい、ティアンは横目でダモンを窺う。現象だけ見れば叶っている夢。けれどダモンは。 「――そんな顔、してたな」 「え?」 「温室で。知り合ったばっかの頃。唇だけで、ちょっとだけ、笑ってた。奇妙な笑い方をするやつだと思ってた」 かすかすぎてわかりにくいダモンの笑みだった、当時は。親しみを見せてくれるに従って少しずつ和らいでいったダモンの笑み。これが元々の彼の表情なのか、それとも戻ってしまったのか。 「僕は――。契約で、あそこにいたから。知り合いなんて、作るつもりはなかった」 「それでも」 「たぶんきっと、僕のせいだ」 「ダモン!」 「君は元々エッセル伯と因縁があった、それは、知っていたんだ、僕は。君が言うより先に、モルナリア伯が言うより先に」 愕然とした、ティアンは。そんなことまで知られていた。それ以上に、間違いなくダモンには自分が知らなかった顔が、暗殺者としてのそれがあったのだと。信じたくなくて目をそらしていた事実。本人から突きつけられた。 「モルナリアが、君の因縁を持ち出して、君を使うと言いだしたとき、僕のせいだと思った。僕が多少でも親しくしている、それが気に入らなかったモルナリアのしたことだ。だからそれは」 自分のせい。ダモンは繰り返す。否定できる要因が見つけられないティアンは黙るだけ。またかすかにダモンが笑った。 「君は、なにを?」 自分の話はここまでだ、もうすべてを話した、そんなダモンの態度。いまだ言っていないことがある気がしてならないティアンではあった、が、見当もつかない。諦めてぽつりと呟く。 「黒猫と、一緒だった。お前と、擦れ違いだったんだな。俺もあのとき隣町にいたのに」 「暴れ馬の?」 「あぁ、嫌な予感がして、すぐに町を出た。それで黒猫に拾われた」 「……よかった」 こぼれ出てしまった言葉にダモンが唇を噛む。驚いて言葉の真意をただそうとしたときにはもう、その笑みは消えていたが。 「それから?」 「いや、その……。そう、だな。王都まで隊商の護衛について行った。隊に入らないかって誘ってももらった」 「さっきのアイラさん? あの若さで隊長だなんて、すごいな。優秀な人なんだろう」 羨ましい、ふとダモンは思う。何を羨むのかもわからないままに。あるいはティアンとずっと共にいた、それが羨ましいのかもしれない。彼にだけは知られたくなくて眼差しを落とす。 「そうだな、いい隊長なんだと思う。俺は……ずっと一人でやってきたから、隊の生活ってもんが、よくはわからない。それでも居心地は、悪くなかったよ」 「万が一、そんなことが可能だとして。もしもすべてが片付いたなら、君は傭兵に?」 「それもいいかもしれないと思う程度には、いい隊だった」 自分たちは何を話しているのだろう。長閑に言葉を交わしているのが信じられない。では何をすればいいのか。殺し合いはカレンに禁じられた。そもそも、本当にしたいのかどうかわからない。罵ればいいのか、ダモンを。甘受したいのか、ダモンは。互いに困惑が深まるだけ。 「ニトロは、ずいぶん、その。変わったと言うか」 初対面の時、わずかに親しみを感じたものだった。黒髪に青い目。ティアンも同じ色彩を持っている。言われ続けたものだった、半エルフのような忌まわしい見た目、と。ニトロも同じだと思っていたのに。 「目立つから外見を変えていた、とは言っていたけれど。中身もだいぶ違うよう、僕も思う」 「かなり傍若無人に見えた」 「そうだな、そう思う。不思議と、嫌味な男ではないけれど」 モルナリアでの態度をたしなめられた気がした。ニトロの屈託のなさを嫌っていた自分。あの翳りなく真っ直ぐな明るさが癇に障っていた。 「ニトロを知ってみれば、屈託だらけの人生だと、思うよ。よくあんなに真っ直ぐ生きている、そう思う」 羨んででもいるようなダモンの言葉にティアンは知らず彼を見ていた。言いたい言葉が喉までせり上がる。ついに、零れた。 「お前の友達は、俺だと思ってた」 無様だ、言ってしまってから青くなるティアン。それを仄かに微笑んだダモンが見つめていた。それと気づいて目をそらしたけれど。 「僕は、友情に値するような人間じゃない」 「それでも、そう思ってた。――お前にとっちゃ、ニトロの方が友達なんだろうけど」 言えば言うだけ無様をさらす。気がついていたのに言葉は止まらない。あるいは、止まらなかったからこそ、気がついた。ダモンの顔などとても見られなかった。恥ずかしくて、みっともなくて。こんな男が友人だなど、言いたくも言われたくもないだろう。 同時に、自分の現状を作ったのは紛れもなくダモンだと理解してしまってもいる。友人であったはずなのに。思いつつ、友人であったはずの男を殺したいと思う己を省みる。浮かんで消えた苦笑にティアン自身は気づかなかった。 「……楽しかったよ、温室は。友達というのは、ああいうものかと思った」 ティアンが持ったことのなかった友人。ダモンもまた。言葉の含みにダモンを見やれば、彼はどこかを見たまま微笑んでいた。 「だったら、なんで。俺をなんで嵌めたり!」 「契約だからだ。仕事だからだ」 「だからってな!」 「僕は、そういう生き方しか知らなかったんだ! いまでも知らないのかもしれない! 契約に縛られて、縛られていることさえ知らなかった! 契約が切れた瞬間、切れたんだって気がつく程度には、世間を知ってはいた。だから最後の瞬間だけは、君を守れた。逃げる時間を稼げた。僕にはそれしかできなかった!」 ダモンが言葉を切った途端、しんと静まり返る家の中。ティアンは荒いダモンの呼吸を聞いていた。激昂するような男だったとは、思ったこともない。はじめて生身のダモンを見た、そう思う。 「いまでも俺は、お前の友達なのか?」 「……違うに決まっている。僕は、君の仇敵だ。君の人生をだめにした、仇だ」 「……それも事実ってところが、面倒だな」 長い溜息。ティアンは否定をしない。ダモンがそれを認めては口許をほころばせる。そのとおりだと言わんばかりに。 「……もしも、君より先にニトロに会っていたら僕は」 なんだと言うのだろう。言葉を続けずダモンは立ち上がる。それきり彼は話を続けなかった。 そして表面上は平穏が訪れる。毎朝ダモンを店まで送っていき、ティアンは演習場へ。夕方になって訓練の終了と共にダモンを迎えに行き、隣家で夕食をご馳走になる。 「ちゃんと食えよ、ダモン。若いんだから肉食え肉」 それを言っているのがニトロだというのならばまだしもだ、とティアンは思う。言っているのはカレンなのだからどう反応したものか戸惑う。それにも慣れはじめていたが。 「師匠、それじゃ食べにくいですよ。ダモン、こっちの方が慣れた味かな。少し試してみたんだ。味見をしてくれないか」 そう言うのはニトロの兄弟子だというデニス。すでに独立をして学院で教鞭を取っていると言う。いまでも月の半分程はこの家で寝起きをしているらしい。 「ありがとう。でも」 「元々食が細ぇんだろ。師匠もデニスも気にし過ぎだ。それじゃかえって食いにくいわ」 「お前は大雑把すぎんだよ、馬鹿弟子。だいぶ痩せただろうが、ダモン?」 「それほどでも――」 「ほれみろ。ちなみにティアンの方も痩せたのか? 体格から見るにもうちっと肉があったはずだよな?」 たいしたことではないような話題。味の好みでも聞いているような態度。不意に悟る。心配されているのだと。 「猫と一緒に王都まで、行ったから。旅暮らしじゃ、ね」 敬語など必要ない、ざっくばらんに行こう、言われていた。おかげで奇妙な抑揚になってしまう。申し訳ないとデニスが眉を下げていた。中々言われた通りにはしにくいものだ、という常識が彼にはわかっているらしい。無言のやり取りに気づいたのだろうか、ちらりとダモンが笑った。すぐさま消えた彼の笑み。ティアンは探すようじっと見ていた、気づかないままに。 |