住む家に連れて行く、言ったニトロはひどく険悪な表情でティアンはわずかな怯みを感じる。だからこそ無言で立った。 「行くぜ、ダモン」 むつりとしたままのニトロに彼は黙って従う。それにも苛立つティアン。アイラが何気なく立ち上がっては側についてくれた。それにちらりと視線を向けたニトロは、けれど何も言わない。 「――待て、ニトロ。ここは」 住むところ、と言われて連れて行かれたのはなんのことはない、すぐ隣の家だった。玄関から出て二三歩だ。案内するもなにもなかった。それにダモンが動揺している。不思議だった。 「なんだ、あんたは俺とマーテルによけいな手間をかけさせるつもりか? 護衛対象が別のところにいられると面倒くせぇんだよ」 ふん、と鼻を鳴らしたニトロは小さく笑っている。言葉ほどダモンを責めてはいない。それが二人の間にある時間のようでティアンは目をそらす。 「とりあえずここで暮らしてくれ」 ダモンとのやり取りなどなかった顔をしたニトロだった。ティアンを真っ直ぐに見て彼は言う。それに黙ってうなずくティアンをダモンが唇を噛んで見やっていた。 「俺は隣で師匠と一緒に暮らしてる。飯は食いに来い。自分で作ってもいいけどな。仕事もやってていいぜ」 「けど、ニトロ。それでは――」 「四六時中一緒にいろなんて無茶は言わねぇよ。いたかったらそれでもいいけど」 「それは――」 言葉を飲んだダモンの真意が知りたいと思う、ティアンは。処置なし、とアイラが肩をすくめたのが視界の端に映ったけれど、呆れられる理由がわからない。 「ダモンはここで香油の店を持ってる。もうちっと繁華なところに店はあって、調香自体はこの家でやってる。そっち持って行って売ってるわけだ」 そうか、と思う。当時、冗談交じりに話していた夢、ダモンのそれは叶ったのだと思う。それにしては少しも幸せそうではないダモンだった。当然かとも思う。 「あんたはどうする?」 言われて戸惑うティアンにアイラが手を差し伸べてくれた。ほっと息をつくティアンをダモンが見ている。それに気づかないティアンにニトロは内心で溜息を。こんな自分にすら見てとれるのに、と思えば呆れて仕方なかった。 「うちで剣術師範でもやってちょうだい。どう?」 「それは、ありがたいが。いいのか、俺で?」 「半年以上一緒にいたのよ? 腕は知ってるし、猫の徽章はまだ持ちたくないんでしょ? だったら師範役で仕事してよ。手が足りないの」 「ありがたい――」 頭を下げたティアンをからりとアイラが笑っていた。仲間相手に何を大袈裟な、そんな明るい笑い声。渇いた心に染み込んで、はじめて渇ききっているのだと気づく。 「じゃあ、昼間はそんな感じだな。――とりあえず、ティアン」 「な、なんだ」 「警戒すんな、そんなに。――ダモンの店の行き帰りはあんたが護衛してくれ」 「ニトロ、必要ない。僕は」 「あんたが必要なくても、俺は、必要なんだ」 一言でダモンを黙らせニトロはティアンを見据える。真っ直ぐな深い青の目。温室で知り合ったときより遥かに真剣だ、そんなことを思う。 「あんたはダモンを殺したい。だろ? 自分の手で殺したいんだったらどこぞの暗殺者にやられちまうのはもったいないだろうが。守ってやれよ」 「ニトロ! なんてこと言うのよ、あなた! そんな言い方ないじゃない」 「別にいいんじゃね? こいつ、俺のこと嫌いだもん。だよな?」 へらりと笑うニトロ。藍の目が嘲笑うよう揺れる。青くなってニトロを見上げるダモンが癇に障って仕方ない。 「そうだな、嫌いだ。確かに」 そのせいなのかもしれない。たぶんきっとそう。けれどどこか、ニトロに言わされた、そんな気もする。それすら言い訳のような気も。ニトロが唇を歪めた。 「俺はあんたの言葉でふらふらするとこ、嫌いだな」 どういう意味だ。問いたかった言葉は機会を奪われ、ニトロはそのままダモンの肩を叩いて背を返した。ぽつん、と残されてしまった三人。咳払いをしてアイラが立つ。 「お茶でも淹れるわ。勝手知ったる他人の家ってところ。台所、いいかな、ダモンさん?」 「え、あ。あぁ、僕が――」 「気にしない、気にしない。ティアンには話したんだけど、あたし、黒猫隊って傭兵隊に育てられたの。子供のころは戦いに出て行くみんなを待ってた。――この家でね」 ぱちりと片目をつぶったアイラに二人揃って驚いた。思わず顔を見合わせ、同時にあらぬ方を見る。それが胸の奥を蝕む。 「ここでって、アイラ?」 「ほんとにこの家よ。当時の猫の支援部隊に書記の技を持った人がいたんだって言ったでしょ? その人の連れ合いとカレンおば様が仲良くって。ここで書記のレイ兄さんと小隊長のエディ兄さんと、一緒に暮らしてた。ま、エディ兄さんが帰ってくるとあたしはお隣のおば様んところに行くんだけど」 またも片目をつぶるアイラ。どういうことだかわかるだろう、そんな彼女の眩しいほどに明るい眼差し。なんとか二人の間を取り持とうとしてくれている、感じないはずはなかった、二人ともが。 「はい、お茶」 慣れた台所は懐かしい、そんなことを笑いながら言うアイラ。彼女にとっては子供時代の思い出なのだろう、この家は。そんな温かいところに自分が住むことになる。こんな気持ちのままに。ティアンは黙って首を振る。なぜかダモンも同じことをしていた。 「それにしても……あんなに不機嫌なニトロ、はじめて見たな」 くすりと笑ったアイラはそれでもなお楽しげ。不思議な話だと思う。いくら友人とは言え不機嫌にさらされて楽しかろうはずはないだろうに。 「違うの、ティアン」 疑問が顔に出たのだろう、アイラはティアンに向けて苦笑をした。それからことりと首をかしげてダモンを見つめる。 「ダモンさんは聞いてるでしょ、あいつの話」 「それは、その――」 「子供のころのこと」 漠然とした言葉にダモンはうなずいた。そんな話をするほど深いかかわりになっていたのか。ダモンの友人だと思っていたのは自分だったのに。ふとティアンは自分自身が訝しくなった。 「なんて聞いてる?」 「それは話すべきではないと思う」 アイラの言葉に毅然と背筋まで伸ばしたダモン。どれだけ深刻な話だったのか察し、それを話したニトロを思う。アイラが莞爾と笑んだ。 「大丈夫。言ってほしくないことだったらあいつはさっさと口止めしてきてる。されてないでしょ?」 「されては、いないけれど。それでも――」 「だったらあたしが話そうか? 別にどっちでもいいんだと思うけど。あいつはたぶん話せって言ってるんだと思うし」 「え――」 「だからあたしがついてくるの止めなかったんだよ、あいつ」 苦笑するアイラにティアンは小さく首を振る。何を言っているのか、わからない、というよりわかりたくない。思わず呟く。 「ニトロにとってアイラはいい友達なんだな。……アイラにとっても」 自分にはそうではない。そんな意志をこめて言ったのにアイラは苦笑して首を振った。ダモンが飲みさしの茶器を置いた音。ひどく響いた。 「あいつはあたしを友達だなんて思ってないよ」 「そうは見えなかった」 「見えなくてもね。仲は悪くないって言うか、いいと思う。逆に女として見てるのかって言えば魔法の一発や二発は飛んでくるんじゃないかなぁ」 そんなことを明るく言わないでほしい。ミルテシア人であるティアンは思う。簡単にお目にかかるはずもない魔術師を見過ぎた、そんな気がして仕方ない。 「ダモンさんはね、ようやくできたあいつの友達なんだと思うよ」 「それは僕が、彼の幼友達と同じ境遇だからだと思う」 「そんなこと言ってたよね」 「僕は、暗殺者だから。……だったから。アイラさんは、忌まわしく思うでしょう? 申し訳――」 「別に? あたしは傭兵だから。仕事だったら暗殺だってするし。仕事は仕事。それだけのことだから」 本職の、と言っていいのかどうかわからないが、ダモンはそれだけを目的とした結社の人間だったらしい。その彼に向かってアイラは屈託なく言い放つ。性根の据わった人間もいるものだ、とティアンは思う。自分の腰の落ち着かなさに苛立った。 「いまダモンさんも言ってたけど。ニトロは子供のころ魔法学院に通ってたの」 そこでできたはじめての友人が、闇の手の暗殺者だったとアイラは語った。友人は死に、自分は彼によって生かされた。アイラはそう聞いている、と淡々と話していた。 「そのせいなのかどうなのかは知らない。性格的に淡泊だっていうのはあるのかな。ニトロが友達って呼んでる人はあたしが知る限り、ダモンさんがはじめて」 「子供のころから、ずっと?」 「ずっとって言っても。あたしが拾われたときにはもうニトロはけっこうなお兄さんだったからね。その頃には友達もいたのかもしれないし、また何かがあっていまのあいつになったのかもしれないし。もっと酷かったのかもしれない。そこまではわからないよ?」 何か意味不明なことを聞いたような気がする。ティアンはダモンと視線を合わせたけれど、その瞬間にダモンは目をそらす。 「その、アイラと、ニトロは。俺とあいつは同じくらいに見えるけれど……」 若き傭兵隊長。アイラが自分よりいささか年下なのはおそらく確かだ。が、ニトロも含めて自分たちと大差があるとは思えない。ダモンの名を呼びかねたティアンにあっさりとアイラは言う。 「ダモンさんもね。マーテルもかなぁ。みんな二十代半ばから後半ってところでしょ?」 そうだ、とうなずいては二人揃った仕種だったと気づいて唇を噛むダモン、拳を握るティアン。アイラは内心で溜息をつく。さっさと逃げたニトロが恨めしかった。 「ニトロは三十代半ばっていうか、四十歳に近いほうだと思うよ? あいつ魔術師だしね」 それだけのことだ。同時に魔術師とはそのような種族だ。アイラに言われた気がした。思わずティアンは振り返る。ニトロが去って行った玄関を。なぜ見たのかはわからなかった。 「僕は、ニトロの……」 「友達だよ、ダモンさんは。本人があんなにきっぱり言ってたじゃない。少しでもあいつのことを友達だと思うんだったら、簡単に死ぬのなんの言わないでね、あたしからのお願い」 にこりと笑ったアイラにつられるようダモンが強張ったまま微笑った。ティアンはやはりその笑みから目をそらす。 |