この国の重要人物であるはずのカレンの自宅はどこにでもある一軒家だった。小ぢんまりとした住み心地の良さそうな、とても魔術師が住んでいるようには思えない家。ティアンは諾々と彼らについて行く。 「ふん……。けっこう酷いな」 居間に据えられたダモンだった。あっという間に上半身を裸にされれば目立つ傷。ティアンは目をそらしかねて見ていた。同時に安堵してもいる。それほど酷い傷ではないと。出血は完全に止まっている。けれどカレンの言葉。 「僕なら――」 「傷を見てるのは私であってあんたじゃないだろう? いいから黙って手当てされとけ。な? おい、馬鹿弟子。そっちで痛覚遮断してくれ」 ダモンに優しい言葉をかけたかと思えばこれだった。アイラは慣れているのだろう、くすくすと笑っている。それを見つつティアンはぼんやりとしていた。薄膜がかかったかのよう、なにもかもが遠い。ダモンを切った瞬間からそうだ、とかすかに思う。 「その前に一つ、いいですか。師匠? そりゃよかった。――あのな、師匠。一々俺の前に飛び出してくんのはやめてください、過保護にもほどがある!」 ニトロがいかにも苦々しい、そんな口調で吐き出す。それを小さく笑ったダモンが見ていた。動くだろう心が動かない、ティアンはただ見ていた。 「あぁ、それな。まぁ、気持ちはわかる。私も若いころよく師匠にそうやって食ってかかったわ。あの野郎はいっつも適当にへらへら笑ってるだけだったけどよ。――ま、いまはその気持ちがわかる、かな。お前も弟子持ちゃわかるよ。つーことで諦めてさっさと仕事しな」 ふふん、と笑うのは照れてでもいるせいか。ダモンはカレンを見るともなしに見ている。ティアンから目をそらしたくてもそらせない、そのせいだった。待ち望んでいたはずの彼。ようやく切ってもらえた、そんなことを思う。 「……納得しがたいですけどね。まぁ、いいや。――アイラ、ティアンが暴れたらお前、抑えられるか?」 「え? できなくはないと思うけど。ずっとは無理。男の体力には敵わない」 「少しでいいぜ。その間に対処はできる」 なんのことだ、ティアンは気づけばニトロの腕を掴んでいた。それに彼が少しばかり驚いた顔をするのに溜飲が下がる。 「どういう――」 「あんたが暴れないようにこっちで精神いじくってんだよ」 「なに!?」 「いくら俺でもダモンの痛覚いじりながらあんたの抑制までは手がまわらねぇ。そういうこと」 手を離せ、と払われた。それにダモンがわずかに嫌そうな顔。何が起きているのかわからない。そうしているのは自分だ、ニトロが言った。 「事情もわかんないうちに暴れられんのはご免だ。で、自力で落ち着いてくれりゃ手間が省けるんだけど?」 師匠同様の鼻で笑う態度。カレンだとさほど気にならないのにやはりニトロは癇に障る。以前から好きではない態度だ、そう思っていたせいかもしれない。 「――そうやってお前は」 「あとで説明するから。とりあえずダモンの手当てをさせろ。けっこうな傷なんだから」 「血は――」 「止めてるのは師匠」 断言されてティアンは愕然とする。思わずダモンを見やれば目をそらされた。ニトロに眼差しを戻し、うなずく。途端に霧が晴れた心地。頭に上りかけた血は、アイラが掴んでくれた腕によって抑えられた。 「……すまん」 「色々とね、あると思うの。あなたも、ダモンさんも。おば様やニトロもそう。話を聞いてから怒るんでもいいと思うけど、どう?」 「できるよう、努力する」 それで充分だと思う。アイラが笑った。その間に魔術師たちはせっせと治療をはじめている、らしい。ティアンにはよくわからない。普通の手当てとは違うような気がしなくはないが、傷の手当てに違いはないとも思う。 「こりゃ、本格的に行ったな。縫うぜ、ダモン。できるだけ傷跡が残らないようにはするけど、ちょっとは残っちまうかも」 「気にしないでください、僕なら」 「残らない方がいいもんだからな。ニトロ、どうだ」 「もういいですよ、痛むか、ダモン?」 「……いや、全然。こんなことしなくても」 大丈夫なのに、言うダモンに師弟が微笑む。まるで言葉を封じるようだった。ティアンは気づけばアイラの手を掴んでいる。男の力で握りしめられたアイラは痛いだろうに。微笑んで側にいてくれた。 傷口を縫って行くカレンの手、時折顰められる顔。目で見えているより傷は深いのだとティアンは思う。当たり前だった。あのとき自分はニトロを確実に葬るつもりだったのだから。 「肩が一番酷いな」 ぱっくりと割れた傷口にカレンが顔を引き締める。それでも命にかかわるようなものではない、それをダモンは感じている。傷ならば何度も負っている。その経験が判断をさせた。 「よし、とりあえずこれでいい。あとは自分で面倒見れるな? ひとまずこれでも着ときな」 「師匠、それ。俺の服だと思うんですが」 「私もそう思うよ。何か問題があるか?」 にやりと笑うカレンにニトロが肩をすくめる。ダモンも小さく笑って手渡された服に袖を通す。ニトロのそれはダモンにはいささか大きく、肩が落ちて袖が余る。気づけばティアンは目をそらしていた。 「ティアン、もう大丈夫? だったらおば様、お茶でも淹れるわ。怪我人さんは薬草茶がいいかな」 「薬草茶の面倒はこっちで見るさ。お前より俺のがましだ」 「酷い、ニトロ。あたしだって上手になったのに!」 言い合うアイラとニトロ。よい友人同士なのだろう、ティアンはぼんやりと思う。温室での自分たちもそうだったはずなのに、どうして。 そしてちょうど茶が入ったころ、客が増えた。一人はマーテル。もう一人は美しい女だった。ティアンは首をかしげたけれど他の全員にとっては既知らしい。アイラが慌てて茶を淹れ直す。 「遅くなっちゃったわ。ごめんなさい、カレン様。手は足りたかしら?」 「おうよ、問題ねぇな。馬鹿弟子もいたし」 「またそういうことを言って、カレン様ったら」 鈴のように笑う女にマーテルが困り顔、それから改めて自分の師のエイメだ、と紹介してくれた。これもまた魔術師か、ティアンはわけがわからなくなってきていた。こんなに大勢の魔術師など見た経験がないどころか想像したこともない。 「さて、と。黒猫の情報ってのを聞かせてもらえるか?」 エイメが来る、とカレンは予想していたらしい。途端に精悍になった彼女だった。ダモンはぎゅっと拳を握る。少しばかり傷が痛んだ。 「そうね、まずは客観的に集めた情報を」 アイラが見事に情報を統合して話してくれた。当事者であるはずのティアンまで改めて納得するほど。これが傭兵隊の隊長か、そんなことを思う。 「ふん、なるほどな。ニトロ、話してやんな」 「……話がややこしくなるだけのような気がしますけど。いいですけどね。――まずは俺がなんでモルナリアにいたか、だな」 改めて自分は魔術師だ、ニトロは言う。モルナリア伯爵の下にいたのは流出した魔道書を追うためだったと。そこであの事件に遭遇した。 「あんたに何があったのかは知らない。疑ってもいいけどよ、俺が知らないのは事実だ。で、屋敷が騒がしいな、と思ってたら――ダモンが伯爵をなぶり殺しにしてた」 「……は? エッセル伯を殺したのは、自分だ」 「違ぇよ、モルナリア伯爵だ」 ティアンは息を飲む。アイラも驚いていたらしい。さすがなのかどうか、マーテルは得心が行った様子でうなずく。 「あんたを逃がす時間を稼ぐためだった、らしいな。本人の弁では」 「だったら、さっきのはどういう意味なんだ、ダモン! 本当のことを――」 「あれが、本当だ。君を嵌めたのは」 「だからその意味を教えてくれって言ってるんだ!」 悲鳴じみたティアンの声。ダモンがそっとうつむく。励ますようニトロが傍らにいるのが気に入らない。ダモンは自分の友だった。ダモンが嵌めたのはこの自分。 「カレン師――」 「いいぜ、ここにいるのは全員秘密は守れる人間だ。アイラ、大丈夫だな?」 「それがティアンのためになるなら。――誤解しないで、ダモンさん。そんな意味じゃない、ティアンとはここまで来た、仲間みたいなもの。だからよ」 「徽章もやってないのに仲間扱いねぇ」 首をかしげて笑うカレンにアイラは唇を尖らせる。いままで見たためしのない彼女の表情。アイラにとってカレンはそれほど気安い、信用できる人物、そういうことなのだとティアンは思う。 「クレア母さんだってレイ兄さんを守ったわ。徽章もなかった兄さんを」 「ま、それを言われると弱いな。悪い、話がそれたな、ダモン。続けてくれ」 にやりと笑ったカレン。ダモンは励まされたのを感じていた。隣にいてくれるニトロよりよほど。覚悟を決める時間は与えた、無言で告げてくれるカレン。応えてダモンはうなずく。 「――僕は、闇の手と呼ばれる暗殺結社の人間だ。いや、だった」 「な……!」 「すみません、気分が悪いでしょう? その……?」 「あ、いえ。気分を害したならこちらこそ申し訳ない。改めて、黒猫のマーテルです。ティアンとはもう友人と言っていい仲だと思いますよ」 だから自分のことも信用して。そんなマーテルの笑顔。真っ直ぐすぎてダモンは目をそらす。ティアンもまた同じことをしていた。暗殺結社の一員。その言葉に打ちのめされそうなほど、同時に怒りに我を忘れそうなほど。握りしめた拳をアイラが心配そうに見ていた。 「驚いたのは、暗殺結社があるよってティアンに言ったことがあって。ちょうど闇の手の話題を上げたことがあったものだから」 「マーテルだったらそうだよな。結社って言ったら闇の手、だろ」 「ニトロさんでもそうでしょ?」 「ニトロさんはやめろよな、マーテル『師』」 「実力考えるとね」 くすくすと笑うマーテルの屈託のなさ。それにティアンは思い出す。モルナリアでのニトロの姿。屈託がない表情、態度。いまはそれがさほどではないと。あれは作られたものだったのだと改めて思った。そんなことでも考えていないと叫び出しそうなほど、ダモンの告白が衝撃だった。 |