夢のあとさき

 黒猫たちがあちらこちらと散っていく。住処に帰るものあり、酒場に行くものあり。楽しそうだ、ティアンは思う。軍事基地、などと聞いていたわりに普通の町だと辺りを見回す。もっとも屋根の形、壁の色、道行く人の服装。見るものすべてが珍しい。道路に至ってはいったいどうやって切り出したのか、きっちりと四角に切り出した石が敷き詰めてあり、両脇には溝まで掘ってある。雨が降ったときの排水用なのだろう。こんなものは王都のごく一部でしか見たことがない。しみじみと外国にいるのだ、ティアンは感慨深い。
「けっこう普通だろ?」
 マーテルが笑うのに思わず苦笑してしまうほど。いまだ残っているアイラと兄弟はティアンの心持ちを察したか、こちらも苦笑していた。
「さて、と。あなたの住むとこを見つけないとね。まだうちの徽章を付ける気にはならないんでしょ?」
 隊員になれば隊舎に入れるのだけれど。アイラは笑う。そんな心遣いが申し訳なくてティアンは黙って頭を下げる。気にするな、と肩を叩くマーテルがふと遠くを見やった。
「ん、あれ? あ、ニトロさんだ。紹介してやるよ、ニトロさーん!」
 向こうに歩いて行く人影だった。ティアンを楽しませようとするマーテルの気持ち。ありがたく彼も受け取る。
 金と言うよりは確かに白金、そんな独特の色合いの髪をしていた。短く切ったそれが浅黒い肌によく映えている。後ろ姿であっても見間違えることはないほど特徴的だった。マーテルの呼び声に気づいたのだろう彼が振り返り。
「おう、マーテルか。帰ってきたんだな?」
 友人、なのだろうマーテルの無事を祝う言葉。ティアンは遠くに聞く。知らず馬から滑り降り、ニトロを凝視していた。
「……ん? バスティ? いや、もうティアンでいいんだよな――」
 不意にティアンを認めて晴れやかになった顔。嘘だと思った。勘違いだと思った、ティアンは。髪の色が違うだけでよく似た他人だと、思いたかった。
 だがしかし、バスティの呼び名を知っている。ここでは誰も知らないはずのそれを。モルナリア伯爵だけが、自分をそう呼んだ。
「ニトロ――」
 彼なのだ、と思った。マーテルは言ったではないか。ニトロにならばできると。いったいそれがどんな現象なのかティアンにはわからない。けれど自分が操られたよう剣を取ったのは、わかっている。あれをニトロならばできる、マーテルは言った。
「ニトロ――! お前か!」
 自分を嵌めたのは。恨みもつらみもない、と思っていた。すれ違いざまに少しばかり親しくなった友人未満の男。この男のせいで自分は追われている。ダモンの行方はわからない。アイラの悲鳴じみた制止の声。ティアンは聞かない。引き抜いた剣もそのままにニトロに切りかかる。
「おい!? ちょっと待て、アイラ。お前なに吹き込みやがった!?」
 その剣が止められていた。眼前にあるこれはなんだろうとティアンは思う。まるでミルテシアの南の海。宝石のような緑めいた青い剣。瑞々しいそれにダモンの目を思う。いっそう頭に血が上った。
「ティアン、待て! 落ち着け!」
 マーテルがなんとか止めようとしているのだろう。なにか絡みついてくるようなものを感じたけれどティアンは意に介さない。それが魔法だとも気づいていない。ニトロの舌打ち。分が悪いとでも思ったか、一足で跳び退る。瞬間、距離を詰めた。
「ちっ」
 再度掲げる剣がわずかに間に合わない。そのはず。これで何か解決がつくわけではない。ぼんやりとティアンにもわかってはいる。それでも止まらない。その剣。
「――何!?」
 二人の間に飛び込んできた影。今度こそティアンは惑乱した。いままでの狂乱など可愛いものだと自覚してしまうほど。
「ダモン、なんで!? お前――!」
 寸前で、軌道を変えることに成功していなかったならばいったいどうなっていたことか。背筋が冷えて、頭も冷える。片膝をついたダモンは胸元からひどく血を流していた。
「ニトロは、悪くないんだ――」
 見上げてきた宝石の緑。剣を落としたティアンは手を差し伸べる。どこからともなくほっとした息の音。だがダモンはその手を拒む。
「君を、嵌めたのは。――僕だ。ティアン」
 ニトロではない。はっきりと見上げてきた緑の眼差し。ティアンは何を言っているのか、と呆然と彼を見つめ返すだけ。気づけば剣を拾い上げ。
「って、だから俺に切りかかるってのはどうなんだよ!?」
 ニトロに剣を向けていた。咄嗟に避けられたのは自分のせい。こんなに惑った剣では新兵も切れない。ぎゅっと柄を握りしめ、ニトロを睨む。ダモンのことは頭から除いた。覚悟でも決めてくれたか、ニトロもまた剣を構える。それについ笑みが浮かぶ。ありがたい、そんなことを思った。がつん、とした衝撃。剣と剣が混じり合い、ぶつかり合うその重たい音。しかしそれはニトロの剣とではなかった。どう見ても水にしか見えないものが目の前にある意味のわからなさ。
「おうおう。なんだ、喧嘩か? 倅のダチを傷つけられたとあっちゃあ、私もちっとばかし黙ってられねぇぜ?」
 ふふん、と笑う、たぶん女性。片手で剣を止められていた。信じがたいものを見る目でティアンはそれを見ている。
「ティアン――」
 血を流したままのダモンが立ち上がり、その腕に手をかける。まじまじと彼を見つめ、首を振る。その手によってそっと剣が引かされた。
「申し訳ありません、カレン師」
 謝罪をするダモン。はじめて、ここに来てやっとティアンは思う。ダモンがここにいるのだと。探していたはずの彼。見つけたはずの彼。意味のわからないことをほざいた、友人。
「いいや? 気にすんな。それより、怪我は」
「思いっきりざっくり行ってるっぽいな」
 顔を顰めるニトロにダモンが微笑む。痛みには強いからたいしたことはない、そんなことを言いつつ。二人の間に何があったのだろう。半年以上もの間、二人はここにいたのだろうか。二人で、ここにいたのだろうか。
「で、アイラ。どういうことだよ?」
 渋い顔のニトロの手に剣はなかった。不思議だと思うともなくそれを見ていた。アイラが驚きを押し込めて事情を語っている。それにカレンと呼ばれた女とニトロが溜息を同時についた。
「とりあえずうちだな。あんたもだ。ちょっと来な」
 無頼な女に指先で招かれた。ティアンは首を振る。否ではない。何をしていいのかわからない。ダモンが、怪我をしている。自分の剣が彼を切った。けれど自分を嵌めたのは彼だと本人が言う。どうしていいのか。
「おば様、あたしも行く。いいでしょ」
「嬢ちゃんはだめだ。ガキに教えるとめんどくせぇ事情ってやつがこっちにもあるんでな。危ねぇことには巻き込みたくねぇし」
 首を振って拒絶するカレンにアイラが食ってかかっていた。ティアンの事情を知っているのは自分もだと。
「それに……カレン師。その、黒猫で情報収集をいたしました。多少のお力にはなれるかと」
「そうそう、それ! だからおば様」
「……わかった。アイラはいい。マーテル、お前はだめだ。どうしても噛みたかったらエイメの許可とってからにしろ」
「ご高配賜りまして――」
「いい、いい。じゃ、うち帰んぞ。おい馬鹿息子。そいつ運んでやんな。痛みは我慢できても結構な傷だろうが」
「へいへい。動くなよ、ダモン」
「大丈――。ニトロ!? なにをするんだ、君は! おろせ、大丈夫だ!」
「って言っておろしたら俺が師匠に折檻されんだろーが」
 そんなことで折檻などするものか。からりと笑う女をティアンは見ていた。もしや、と思う。マーテルが言っていた、塔の後継者だとか言う高名な魔術師とは彼女なのかと。
「すまん、ティアン。師匠に許可もらってすぐ戻るから。それまで隊長と一緒にいてくれ」
「いや……。なんで……そこまで」
「半年以上も一緒だったのよ? あたしたちはあなたに手を貸す。そう言ったじゃない。おば様たちには言い分があるんだろうけど、あなたにもあるでしょ。あなたの味方ができるのは誰? 黒猫よ」
 断言し、力強く微笑むアイラ。涙が出そうだった。わからないことばかりで、許容量一杯だ。自分とはこんなにも脆い男だったのかと情けない。
 兄弟がそれぞれぽん、とティアンの肩を叩いて去って行く。事態を収める方策を探してくれるのだろうとマーテルは息をつく。
「行くぜ」
 ダモンを抱き上げたニトロが言った。怪我の具合を案じるなど自分がしていいことではないけれど、ダモンを見つめれば視線を外される。小さく口の中で呟いた、ダモンの名を。
「まさか黒猫と一緒だったとはな」
 道理で探しても見つからないわけだ、ニトロが苦笑していた。愕然とダモンが彼を見上げる。探していたのかと問うような眼差しに彼はうなずく。これ以上見ていたくなくてティアンはニトロに問うていた。
「どうして、モルナリアにいた。その顔は、どういうことだ」
 きつい口調は意図してのものなのかどうか。自分でもわからない。ニトロがいなすよう笑うのだけが癇に障る。
「こっちにはこっちの用事があったんだ。こんな目立つ面ァさらして潜入ができるか」
「潜入だと!? なら――」
「君を嵌めたのは僕だと言ったはずだ。ニトロじゃない。僕だ」
 ニトロの腕の中から真っ直ぐに見つめてくるダモン。言葉がなかった。なぜ、と問いたい。それなのに、なにを疑問として問いたいのかが、わからない。前を歩くカレンが肩を震わせていた。笑ったのかもしれない。
「師匠、いいすか? ――んじゃ、事情だな。でもよ、それ話して納得すんのか? しないんじゃねぇの、あんた」
 鼻で笑うニトロに同意できるのが忌々しい。確かに彼の言う通りだった。いまなにを信じていいのか、わからない。
「なにが事実なんだ……俺には――」
「君を罠にかけたのは僕だ、それが事実だ。恨むなら、僕を。君の人生をめちゃくちゃにしたのは、僕だ」
 呟きに返ってくるダモンの答え。師弟が揃って溜息をついたのだけがティアンの視界に映る。アイラまでわざわざ振り返って溜息をついていた。




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