夢のあとさき

 モルナリア伯爵領逃亡から半年が過ぎようとしていた。ティアンは旅の途次、それとなくモルナリア伯領のことを尋ねてまわる。
「さぁ、なんだかとんでもないことになってるって話は聞くけれど」
 たいしたことは知らないのだ、商人は眉を下げてそんなことを教えてくれた。ティアンは無言で目礼をし、引き返す。
 こんなことであっても話してもらえる、それがありがたい。見ず知らずの旅人においそれと情報などくれはしない。剣士として旅を繰り返していたティアンだからこそ、知っている。けれどいまは。
「ティアン! 集合かかったよー!」
 明るく呼びかけてくる、仲間の声。わかった、と手を振り返しティアンは唇を引き結ぶ。自分一人、安楽にいるような錯覚。
 あの日、ダモンが逃がしてくれた。ティアンは何を考えることもできずひたすらに隣の町にまずは逃げ込むことに成功していてた。
 隣町では近すぎる、それは考えないでもなかった。けれど右も左もわからないまま逃げるのは更に危険。なんとか情報を手に入れようとティアンは考えたのだが。
 ――言い訳、かな。
 いまでもたまにそう思う。近くに逃げ込んだのはたぶん、ダモンだ。彼が、心配だった。自分を逃がしてくれたダモン。何かがあったとき、助けに行かれる場所にいたい、そう思ったのかもしれない。たった一人、友人であった彼。逃げろ、そう言ったときのあの必死の表情がいまもまだ瞼にちらつく。
 それでも結局ティアンは逃げ出した、隣町も。逃げ込んだ翌日か、その翌日か。稀有な事件、ではなかった。けれど何か引っかかりがあったもの、馬の暴走事故。旅人が脚にかけられた死んだ、と噂で聞いた。それを聞くなりティアンは背筋に痺れを感じ、すぐさま出立を決意する。ここで死んではダモンも助けられない。
 ――いま、お前はどうしてるんだ?
 町を出てすぐ、幸運を見つけた。小さな町であっただけに町の中にまでは入れなかった傭兵隊。その名も「幸運の黒猫」隊。そのときにはまだ名前までは知らなかったものの、ティアンは旅の剣士を名乗って同行を請うた。
「ちょうどよかったわ。町で腹痛起こしたのがいてね。少しばかり剣を使えるのに不安があったのよ」
 隊長、と名乗ったのはアイラという少女めいた女。固く編んだ黒髪をぐるりと頭に巻きつけている。梳き流せばどれほど長いのだろう。傭兵らしくはない髪型だ、そんなことをティアンは思って眺めていた。それにまったく頓着しないアイラに、だからこそ好感を持つ。
「いや、俺は――」
「すぐに隊に入ってくれってわけじゃないわよ。客分として働いてくれればいい。給金は出すし、備品も使っていい。どう?」
 ありがたい話だった。客分で、と言ってくれたこともなおありがたい。自分は間違いなく追われる身だ。こんなことで迷惑をかけたくはない。
「隊商の護衛仕事だからね、こっちも警戒はさせてもらう。それでどう?」
「してほしい。できれば見張りまでつけてもらった方が気が休まる」
「そこまでするのは面倒だわ。――そうね、マーテル!」
 護衛仕事ならばよけいに流れの剣士など隊に入れてはまずいだろう、言ったティアンにアイラは破顔し、遠慮なく見張りを付けると笑った、魔法で。そして呼び出されたマーテルという若そうな魔術師がティアンに呪文をかける。なにも感じなかったが隊に不都合を働けばマーテルとアイラには感知できる呪文らしい。それにほっとしたティアンだった。
「ありがたいわね」
「いや、こちらこそ……」
「違うわ、魔法のこと。ミルテシアで拾った男が平気で魔法を受け入れてくれるっていうのは、やっぱり面倒がなくてありがたいもの」
 肩をすくめたアイラだった。その後ろでくっくと男が笑っている。どこの農民か、と思うような男だったがいつも隊長の側にいるとなれば副隊長なのだろう。と、思っていたティアンだったが、後から聞けば「いつもいる」のではなく「二人が交代でついている」らしい。
「マジか!? わかんなかったぜ!」
「大丈夫だ。普通は区別がつかないから。俺らでもたまに間違う」
 マーテルが笑う。魔術師が間違えるな、と笑う隊員たちの笑い声。いい隊だ、とティアンは思う。一人でやってきたけれど、隊に属するとはこれはこれで楽しいものだろうと思う。
 結果、半年にわたって黒猫隊に同行し続けている。おかげで情報も集めやすい、というわけだった。隊の威光を着ているようで申し訳なかったけれど、そこには目をつぶる。そうでもしないとダモンの安否など、掴めようもない。もっとも、一調香師がどうしているかなど、誰も語ってはくれなかったが。
「伯爵も、か……」
 あの時いったいなにが起こったのか。確かに政敵であったエッセル伯を自分は殺した。殺したのだろう、と思う。あまりにも現実感がなさ過ぎて、まるで夢のよう。ただ、幻ではない確信だけはある。
 それはまだよかった。エッセル伯が死んだ直後、モルナリア伯に乱心者呼ばわりされたことも理解はできる。嵌められたのだろう、たぶん。所詮は流れの剣士。生贄にされたのだと思えば理解はできる。諦め、とも言うけれど。
 それなのに当のモルナリア伯爵まで死んだ、と噂は言う。混乱が呼んだ噂話か、と思ったけれどどうやら真実らしい。すでに次代の伯爵が位を襲った、と聞く。
「わからん」
 何があったのか。正直に言えば何があったのかはさして興味はない。いずれにせよ自分は追われているのだろうし、そこは事実がどうであれ変わらないだろう。本当に知りたいのはただ一つ。
「……ダモン」
 次代の伯爵に仕えているのだろうか。それならばそれで新伯爵もまた香りを好む、と聞こえてきそうなもののそれもない。あれほどの調香の腕だ、なにもせずに沈んでいった、とは考えにくい。
 あるいは伯爵家を退去したか。それもティアンは考えた。けれどダモンは言っていた。自分は伯爵家からは出られない、と。所詮は戯言、いつか店でも出して用心棒に。あの腕ならば叶わないはずはない夢、けれどダモンは決して叶わないと知っていた。
「お前、どうしてるんだ?」
 伯爵家で飼い殺しだろうか。闇に乗じて、救い出せるだろうか、いまならば。それをダモンは望むだろうか。
「馬鹿な夢ってやつだな」
 集合場所に向かいつつティアンは苦く笑う。そもそもダモンが救い出されたいと望んでいるのか、それすらもわからないというのに。
「おう、集まったな。でっきたぜぃー!」
 アイラに代わって言ったのはどちらだろう、とティアンはいまだに区別がつかない兄弟を見やる。タスとユーノ、という兄弟で、見るからに善人の顔。皺の寄った福々しさといい、屈託のない笑顔といい、傭兵には間違っても見えない。ましてどう見てもすでに前線に身を置く年齢ではない。
「先代からのお守役ってやつさ」
 仲の良くなったマーテルが教えてくれた。守役、の単語にティアンは笑ってしまう。まるで深窓の姫君ではないかと。
「なになに、なんですかい。嬢の噂話してやがりましたかい? うん?」
「してない、してない! タスさん、してないから!」
「ほっほう」
 がっしりとした腕がマーテルの首を背後から決めていた。どうやらこちらはタスらしい。やはりティアンには区別がつかない。
「隊長の噂話なんぞしてんじゃないですよ? で、ティアンに用事だ」
「え? あ、はい」
 ぽい、とマーテルを放り出し、タスは笑顔でティアンを誘う。げほげほと咳き込んでいるところを見ればかなり本格的に喉が決められていたらしいマーテルだったが、それでも顔には笑みがある。傭兵隊流の荒っぽい冗談がティアンには居心地がよい。
「もしかして、アイラ隊長の?」
 集合がかかったとはいえ、出発ではなく夕食のそれ。黒猫隊の食事は中々のものでティアンも楽しい。活気のある野営地の中タスが進んで行くのはアイラの天幕の元だった。
「あぁ、たまには食事に付き合えですとよ。ま、嬢に付き合ってってやっておくんなさいな」
 客分、との言葉を守ってくれているのだろう。半年過ぎてもこうして客扱いを崩さないでいてくれる。ティアンは黙って頭を下げた。それにタスが目を細めて微笑んでいたのにはついに気づかないまま。
「嬢、連れてきたぞ。ティアンさんだ」
 さすがに隊長の天幕だった。中々に立派なそれにティアンは思わず珍しそうに中を見回してしまう。何度来てもそうなのだから自分が恥ずかしくなる。が、やはり滅多に見るものではないだけに面白い。
「あぁ、ありがと。タス。ユーノは?」
「呼んでくるかい? じゃあ待ってな……ってもう来たか! さすがユーノ君、仕事が早いですなぁ」
「ん? なんか言ったかい、タス君や」
 ひょい、と天幕に入ってきたのはユーノ。それもタスが自分でタスだと言い、ユーノと呼んでいるから彼はユーノなのであって、ティアンにはどちらがどちらか、並べてもよくわからない。そんな彼の白黒とした目が面白かったのだろう、兄弟とアイラが揃って笑っている。
「たまには食事に付き合ってほしくってね。なにしろうちの連中は根っからの傭兵ばっかりだから。がさつでいけないのよ」
「とか言う嬢だってなぁ、タス君?」
「ですよなぁ、ユーノ君」
 喉の奥で笑う兄弟を戯れにアイラが打つ。護衛中には見せない表情だ、とティアンは思う。いまもまだ厳密に言えば仕事中、ではあるのだけれどそれだけくつろいでいるのだろう。隊商はすでに王都に入って商談中だ。黒猫隊は郊外で商売が完了するのを待っている。おかげでのんびりとしたものだった。隊商が戻ればまた忙しくなる。それまでのほんの短い休暇のようなものだった、この時間は。
「マーテルが話したんだって? 確かにこの兄弟はあたしのお目付け役よね」
 夕食が終わって茶を淹れてくれたのは兄弟のどちらか。さすがに休暇とは言え待機中と言うのが正確なところ。酒は暗黙の了解として慎む。
「お目付けってよりゃあ、可愛い娘が心配でついて歩いてるだけだがなぁ」
「老骨に鞭打ってなぁ。なのに嬢は冷たいったらありゃしねぇ」
「老骨ってほど年じゃないでしょ!」
 からからとアイラが笑った。娘、と聞いてティアンは驚く。けれど一瞬だった。その響きに実の娘という印象はない。そのとおりだ、とアイラがまたもからりと笑う。
「あたし、捨て子なの」
 にこりと微笑んでアイラは言った。




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