夢のあとさき

 かたりと音がした。気配の少なさに驚いてそちらを見やったダモンは息を飲む。
「まだ飲んでらっしゃるの、カレン様。体に障るわ。――あら、ダモン君が来てたのね」
 微笑む夜着姿のエイメがいた。さすがに上に一枚羽織ってはいたけれど、それが逸品だった。乳色から薔薇色へと裾濃に染められた総レース。白い夜着だけに艶めかしくてならない。思わず視線をそらしたダモンを二人が密やかに笑う。
「せっかく起きてきたんだったらお前も飲めよ。いける口なんだし」
「もう、カレン様ったら。飲みすぎは――」
「ってほど飲んでねぇよ、今日は」
 ふふん、と鼻で笑ったカレンに肩をすくめつつエイメは隣に腰を下ろした。こうしていると友人が並んで、と言うよりは仲のよい恋人同士にしか見えない。
「エイメは貴重な女友達なんだってーの」
 ダモンの表情を見てとったカレンが言えばエイメがくすくすと笑う。そんな姿もまた。ダモンは少しばかり落ち着かなくて腰を上げようとした。それを視線だけでカレンは縫い止めた。笑ったまま。何気なく。知らず気圧され、再び腰を落ち着けてようやくそうしたと気づく有様。ダモンは唖然としていた。何者だ、はじめてカレンをまじまじと見る。
「年季の差ってやつだな。私はニトロの師匠だぜ? 幾つだと思ってる。アリルカ独立戦争……いや、お前には氷帝戦役って言った方が通じるな。それを知ってる世代だぞ」
「え――」
「もう立派な昔話よね」
 エイメがしみじみと言うのにダモンはうなずいていた。そのせいか、と気づく。彼女は戦乱を知っている。魔術師というものがどんな生き方をするものなのかダモンは知らなかったけれど、血飛沫を彼女は知っている。それだけは飲み込んだ。
「それ、着てくれたんだな。よく似合ってるぜ」
 エイメに酒を注いでやりつつのカレンだった。くすぐったそうに微笑んでエイメはダモンに上着の袖を示す。
「編んでくださったの、カレン様なのよ」
「器用、なんですね……」
「子供の遊びだな。魔法の練習に、ガキのころにやるんだよ。どんな風に呪文を組み立てて発動させるか、結果がわかりやすいからな。今となっちゃ考えないで黙々とできるからな。気分転換にゃちょうどいい」
 こん、とカレンが酒を喉に放り込む。これほど強い酒だというのに酔った気配が微塵もなかった。ダモンはつられて口を湿したものの、湿すだけに留めておこうと肝に銘ずる。付き合っていたら酔い潰されそうだった。
「子供たちが喜ぶのよね。楽しいから」
 エイメが楽しそうにそう言った。その言葉の含みにダモンは気づく。思わず真正面からエイメを見てしまって、気恥ずかしくなっては目をそらす。
「あら、ごめんなさいね。こんな恰好のままじゃ、気になるかしら? ニトロ君たちは気にしないものだから、つい」
「あいつにとっちゃほんのガキのころから見慣れた姿だろうからな」
「それはお師匠様が悪くってよ。お風呂上がりにとんでもない格好でうろうろするんだもの、この人」
「してねぇよ!? 偶々だ、そういうのは!」
「偶々でも年頃の男の子の前であれはないわ」
 断言するエイメにカレンは忌々しげ。それでも目が笑っていた。ふと首をかしげたダモンの問いに気づいたのだろう、昔からこの調子でエイメはこの家に出入りしているのだ、と教えてくれた。
「ニトロ君が隣に行ってるじゃない? ちょうどいいから久しぶりに泊りに来てたのよ」
「ガキ抜きでのんびりしてたわけだ」
「そういうことを言うから、私がカレン様の恋人扱いされるんだわ」
 呆れた口調のエイメながら彼女は実に楽しそうだった。こうして生きていることが楽しい、そんな太陽にも似た朗らかな明るさ。眩しくてダモンは目をそらす。
「さっき気がついたみたいだけど。私はいまは魔法学院で教鞭を取ってるの。北にタウザント街というところがあるんだけれど、そこに学院はあってね。ほとんどそちらで寝起きしているわ」
 だから本当に久しぶりに友人の家に泊まりに来たのだ、とエイメは微笑む。カレンも旧交を温めるのが嬉しいらしい。目が和んでいた。邪魔をしていたのか、気づいてダモンはやはり席を立たねば。思ったけれど止めたのはカレンだったとも思い出す。
「いまは、ですか?」
 何か話題は。艶めかしいエイメから意識をそらしたくて必死になって絞り出した言葉。それこそがカレンの狙いだったとダモンはついぞ気がつかない。わかっているエイメは意地が悪い、と小さくカレンを睨んでいた。
「そうよ。何年か前までは傭兵だったの」
「え――」
「隊長をはじめとした幹部連の代替わりがあってね。ちょうどいいから私も引退して、子供たちを教えることにしたのよ」
 そちらではなかった。この、エイメが。傭兵だったとは。聞き間違いではないはずだ。じっと見つめれば、一瞬だけ鋭くなったエイメの眼差し。惑いのように消えて彼女は微笑む。
「ダモン君は言葉の調子から、ミルテシアの人よね? 私もミルテシア生まれなの。ミルテシアの魔術師は、大変よ」
「生計が立たないからな、あそこじゃ」
「ほんと、そうよ。食うに困るとはあのことね。だから傭兵隊に入ったの」
「なぜ……。いえ、他のことをしようとは、思いませんでしたか」
 エイメならばどんなことでもできたのではないだろうか。そんなことをダモンは思う。この美しく優雅な人が、魔術師で、しかも傭兵とは。信じがたかった。
「思わなかったわ。だって私には魔法の才があったもの。せっかくあるものを生かさない手はないわ。この道に行くと決めたんだもの、どんなことをしてでも食べて見せるわよ、それは」
 茶目っ気たっぷりに片目をつぶられただけにダモンにも察しがついた。本当に、言葉どおりだったのだろうと。泥水をすするような思いすら彼女はしているのだと。
「ミルテシアの魔術師はそれこそ傭兵隊にでも入らなきゃ食ってけねぇからな。苦労ばっかだったろうよ」
「そうでもないわよ。つらいことばっかりって言っていたらきりがないもの。――それに、隊にいたからこそ、カレン様に会えたものね」
 にこりと微笑んだエイメにカレンはくすぐったそうに身をよじった。それでカレンにも傭兵隊と縁があるのだと見当がつく。想像を絶する二人だった。
「エイメは信用できるからな、お前の素性もあらかた話してある」
 す、とカレンの声が真摯になった。愕然とするダモンにエイメは真っ直ぐと眼差しを向けた。信じてほしいとその目は言わない。裏切らない、そう告げていた。
「ざっと聞いただけよ? それでも闇の手絡みなのは驚いたわね」
「ご存じ……でしたか?」
「傭兵だもの。やり合ったことが何度もあるわよ」
 肩をすくめてエイメも酒を飲んだ。カレンのように、ではなかったけれどダモンのようでもない。飲み慣れた仕種にそれでも色気があった。
「なぁ、エイメ。お前は後ろ暗い仕事、したことあるか?」
「つまり暗殺? あるに決まってるじゃない」
 あっさりと言い放たれた言葉にダモンは驚く。考えたことがなかった。自分たち以外に暗殺を請け負うものがいるなど。そんな彼の表情に気づきもしない様子を作った二人はただ何気なく言葉を交わしていた。
「私はこんな見た目ですからね。どこぞの貴族の令嬢だの、高級娼婦だの。着飾って潜入するのはお手のものよ」
「高級娼婦なぁ……」
「決定的なことをする前に『仕事』は済ませますけどね、もちろん。だってそちらのお給金は頂戴していないから」
 悪戯っぽく言うエイメにそういう問題か、とカレンが呆れ口調。傭兵としてはそういう問題だ、と放言するエイメ。軽い眩暈をダモンは感じていた。
「それ、どう思ってるよ?」
「暗殺のこと? 別にどうも思っていないわ。仕事は仕事よ。戦場で殺すのがよくて寝室で殺すのがだめってことはないじゃない? だめなら全部だめであるべきよ」
 きっぱりとエイメは断言していた。ちらりとカレンがダモンを見やる。どうだ、とその目は問うていた。何も答えられずダモンは酒で口を湿す。
「個人的な考えを言わせてもらうなら。そうね……暗殺は、する方に責任があると言うより、頼む方に責任があると思うわ」
「ほう?」
「だってそうじゃない、カレン様? 誰かが目障りだ、邪魔だ。殺してしまいたい。よくあることよね? だったらご自分ですればいいのよ。それができない、したくないってお金で解決しようとするから、私たちみたいな稼業があるんだけれど」
「売り手があるから買い手があるのか、買い手があるから売り手があるのか。鶏卵だけどよ、こればっかりは買い手があるから売り手があるって言った方がいいだろうよ」
「ほんと、そのとおりよ。そんな人たちのために汚した手を私が悔やんでやる義理はないわね」
 そう、なのだろうか。ダモンにはわからない。考えたことがないのだから、わかりようもないことなのだと気づく。そしてエイメを見つめた。気恥ずかしい姿など気にならないくらい真っ直ぐと。
 エイメは生きていた。汚れた手を仕事と言い切り、悔いる義理はないとまで言い放ち。それでも大らかに生きていた。自分は。思わずダモンは両手を見ていた。
「若い人はいいわね、悩み事っていうのは後から思えば楽しいものよ。たくさん悩めばいいわ、きっと身になるから」
 ほんのりとした優しいエイメの声。うなずいてしまっては立ち行かなくなる、その恐怖。ダモンは息を飲む。はじめて、闇の手に縛られているのを感じた。
「ま、とりあえず動いてみるってのは悪くないさ。どうだ、店でも開いてみないか」
「ですが……僕には……」
「あぁ、手持ちもなんにもねぇだろうな、そりゃ」
「カレン様に甘えてしまったらいいのに」
 呟いたエイメにダモンは首を振る。そうするとわかっていたかのようカレンはにやりとしていた。
「そりゃ気兼ねがするってもんだろうさ。とはいえ、助けの手ってのはあって悪いこたぁねぇわな。利子無しの出世払いで貸してやろう、どうだ」
「そんな……そこまで甘えるのは」
「利子無しはな、倅がせっかく連れてきたお友達だからってやつだな。あいつの顔も立ててやってくれ」
 ぱちりとカレンが片目をつぶる。そして照れたのだろう、酒を煽った。カレン様ったら、小声でエイメが呆れ、そしてダモンを見ては困り顔で笑っていた。




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