夢のあとさき

 早いものだった。イーサウに到着してすでに数日が過ぎている。隣家、というのもカレンの持家らしく、好きに使っていいと言ってくれた。しばらくは落ち着かないだろうから、そう言ってニトロが共にいてくれるのもありがたい。
「へえ、お前の友達か。ちょっと意外だなぁ」
 そう言ってくすりと笑ったのは兄弟子、と紹介されたデニス。師弟三人並ぶと彼が一番年上に見えるのは面白いものだった。そのデニスも含めてわいわいと寝起きしていた。
「確かに君の言う通り、デニスさんの料理はとてもおいしいな」
「ニトロが? 私がうまいんじゃなくて、こいつが下手なだけだと思うけど」
「それ、師匠にも言っとくな?」
 にやりと笑ったニトロにデニスが渋い顔。少しばかり慌てているらしいその表情がダモンには新鮮でならない。
 彼一人のことではない。師弟三人と、エイメ。皆が皆、表情豊かで屈託がない。好き勝手を言っているようでいて、底にあるのは信頼。そうだろう、とダモンは思う。実感のない思いではあったけれど。だからこそ。
 ――師匠。そっち行きましたんで、後は頼みます。
 深夜だった。隣家のニトロから精神の接触を受けたカレンは酒杯を傾けつつ含み笑いをする。そろそろだろうと思ってはいた。
「意外と早かったかな?」
 どうだろうと思う。ダモンという青年がどのような人間かたいして知りもしない。ただ、とカレンは思う。ニトロが友と呼んだ男だと。
「ま、倅の手助けくらいはしてやりますかね」
 ふふん、と鼻で笑えば聞こえたのだろうニトロがぶつくさと文句を言う気配。それにもカレンは一人静かに笑う。そしてそっと扉が開かれた。
「あ――」
 ダモンだった。忍び込んだのだろう彼はばつの悪そうな顔をしている。暗殺者としても勘が鈍った、ダモンはそう背筋に痺れを感じていたのだけれど実際は違う。カレンが気配を殺していただけのこと。
「おう、どうしたよ?」
 にやりと笑って酒杯を掲げる。一緒に飲むか、と。ただそれだけの用事だろうと言わんばかりに。こんな深夜だというのに。ダモンは強張ったまま立ち尽くしていた。
「置手紙でも残して消えようかと思ってたって顔だな」
 息を飲むダモン。よくぞこれで結社にいられたものだとカレンは思う。ニトロからそれなりの地位にいたらしいと聞いた、と報告を受けているけれど、ならばダモンはすでにニトロたちに馴染みはじめている、その証なのかもしれない。
「僕は――」
「とりあえず座れよ。飲むか?」
「……はい」
 育ての親とも言うべき男が若いころに好んでいた強い酒。酒杯に少しだけ注いでやればダモンは心得たよう、手の中に包んで温める。立ち上る香りを吸い込んで唇を湿らせた。
「聞いて、いただけますか?」
「消える相談なら却下な? それ以外の相談事だったら乗るぜ」
 無頼めいた口調にダモンは小さく笑う。どうにも女性と深夜に二人きり、という気になりにくい人でかえって助かった。
「……ニトロは、とてもよくしてくれます。励まして、生きて行けばいい、そう言ってくれます」
 結社のダモンは死んだのだから、生き直せばいい。どうせ生まれ直したのだから、違う生き方ができるのではないか。そう言ってくれている。
「一度は、うなずきました。僕も、そうできればいい、そんな風に思わなくもない。ただ……想像が、できない」
「何をしたいかわからない?」
「……したいことならば、なくはないんです。僕は」
 言ってダモンは懐に忍ばせていた小瓶を卓に置く。カレンは無造作に取り上げては蓋を開けて香りを嗅いだ。いい度胸だ、とダモンは感嘆する。ニトロからすべてを聞いているだろうに。彼自身、師匠には話しておいた、と言っていた。ならばカレンは自分が毒物を操ると知っているはず。それなのに。
「いい匂いだな。お前が? 私はエイシャ女神の神官とは縁があるからな。香油の類は身近にあるもんなんだが。いい腕してるよ」
 にこりと微笑むカレンだった。ダモンは何も言えない。よい香りだ、とこんなにも真っ直ぐと褒めてくれる人がいた。否、かつても大勢いた。けれどそれは標的であったり、依頼人であったりその関係者であったり。まるで結社と関係のない人に褒められるのがこれほど嬉しいとは思いもしなかった。
「これで身を立てるってのも悪くないと思うがな」
「……その、想像が、できません」
「店持って、儲けて、みたいな?」
「僕が、そんな風に生きられるということが……わからない」
 ダモンはわずかにうつむき、広げた両手を見ていた。なにもついていない、綺麗な手だ。自分だけは、血だらけだと知っている。
「わかんねぇんだったらやってみりゃいいと思うけどよ、どうだ? どうせやってみなきゃわかんねぇことってのはいくらでもある。挑戦するってのも悪くない。試行錯誤ってのは楽しいもんだぜ?」
 そうなのかもしれない。それすらダモンにはわからない。カレンたちにはきっと理解できないだろう。結社の中だけで、生きてきた。仕事が終われば戻って暮らした。歪で、奇妙な暮らしだったと理解している。日がな一日毒をはじめ人殺しのことばかりを考えているのはいくらなんでもおかしいだろう。けれど、それをおかしいと思わずに生きてきた自分だ。否、不自然だとは思ってもおかしいとは思わなかった、と言うべきか。その不自然こそが誇りだった。正しいことをしているという確信だった。いずれ結社の暮らしこそがすべてだった。
「まぁな、それまでの常識を打破するってのは難しいもんだ。だからこそ、とりあえずやってみろって言うんだけどな。飛び込めない気持ちもわからなくはねぇかな」
「あ――」
「この辺は年の功ってやつかね? お前は顔に出るなぁ。よくぞまぁ暗殺者なんぞやってられたもんだわ」
 からからとカレンが笑う。ほんのりとした羞恥に頬を染めてダモンはうつむく。得難い人々だと思った。こんなどうしていいのかもよくわからない自分を庇って守ろうとしてくれる人たち。闇の手での教えがまた一歩、遠くなる。外の人々は多かれ少なかれ皆が間違った道を歩んでいると教えられていたものを。
「いずれ、僕が生きているのは結社も掴むはずです」
 それほど甘いものではない。いくら死を偽っても、香油で名を売ろうものならばすぐさまの勢いで闇の手は動くだろう。
「――闇の手はな、そこまで阿呆じゃないぜ。イーサウに、と言うより魔術師に手出しをすれば大打撃は自分の方だ」
 わかるか、と真っ直ぐに見つめてくる漆黒の目。ダモンは無言で首を振る。カレンこそわかっていないと思った。暗殺の手はどこにでも伸びる。ニトロだとて言っていたではないか。幼い子供が毒を盛る。それが結社のすることだ。
「ニトロが話したって言ってたがね。あの事件で私らも堪忍袋の緒がぶちっといってな。ガキどもに手出しをされるのは我慢がならねぇ」
「ならば、よけいに。結社はそれを――」
「だからな、目につく限り全部潰した。無論、表の顔が強すぎて潰せないのもあったがね。そっちは表立って潰した。猫の手まで借りて徹底して潰した」
 学院や魔術師にできないことでも、イーサウの議会ならば動ける。カレンはそう言った。そこまでしたのだと。
「結果、闇の手はイーサウに手を出すことはなくなった。それは知ってんだろ?」
「はい、でも。今度は僕一人を消せば済むこと」
「そりゃ考え違いってもんだ。お前は私の客だ。隣の家を使ってるってのはそういうことだからな。私に無断でお前を消す? 売られた喧嘩は買うのが性分でな。――そうなると、たかがお前ひとりのことで向こうは手痛い目に合う。そんな阿呆な手は打たん」
 それを信じられたら、とダモンは思う。あるいはこれが違う常識の下に生きている、ということなのか。ダモンには結社の方こそが強いとしか思えない。
「私らはな、いますぐ結社と全面戦争起こすことが可能だぜ」
 実際は少し難しい。戦争が、ではなくその前段階が。魔術師たちはいまだ闇の手の本拠地を把握していない。ただ、やりようはあった。息のかかった者ならば掴んでいる。そこから攻めるだけだ。本気になればそれができるのだと、ダモンには理解ができないのだろう。
「――でも、それをやらない。なんでかわかるか? やると、反撃の手がうちのガキどもに伸びてくるからだ。闇の手で育てられてる子供らは可哀想だとは思う。心底思う。でもな――うちのガキどもをそれで危険にさらす気はねぇんだよ」
 ニトロやデニスだけのことではない。もっと幼い、事件当時のニトロのような子供たちのことだとダモンにもわかる。カレンの懸念は正しい、とダモンはうなずいていた。闇の手は、そう動くだろう。
「だからいわば闇の手と私らはな、相互不可侵の停戦状態みたいなもんだ。向こうが手出ししねぇなら、私らもなんにもしねぇ。それをお前ひとりのために崩すと思うか?」
 被害が大き過ぎる。カレンは断言した。当時のことを知らないダモンだった。けれどカレンの真摯な目。疑うには澄みすぎている。
「だから、お前は安全ではあるよ」
「それが……わからない」
「好きなことができる」
「それも……わかりません」
「わからねぇからやってみろって言ってんだろ」
「やってみて……いいのかも」
 なるほど。カレンが呟く。口にしてみてようやくダモンにもわかった。闇の手で育った自分が、香油など売っていいのか。当たり前に生きていいはずなど。
「調香の技は、結社で覚えました」
「調香師ってのは貴重だからな。そりゃ重宝されただろうよ」
「えぇ。どこに潜入するのも楽なものです。毒を混ぜても気づかれない」
 力なく笑うダモンをカレンは見ていた。気になるのだろう、ニトロが接触を求めてきていたけれど、カレンは拒む。友人ならば盗み聞きなどするものではない、やんわりとたしなめれば恥じたニトロが引き下がって行った気配。これほど心配されている、というのがいまのダモンにはまだわからないだろうと思えば憐れだった。
「暗殺の技の一つとして、習い覚えたものを商う? そんなことをしていいんでしょうか」
「いいんじゃないのか? 好きなんだろ、香油は」
「好きでも……。僕なんかが……」
 ではどうしたい、畳みかけられたら困るとダモンは思った。しかしカレンは何も言わずにかすかな笑みを含んだまま酒を飲むだけ。つられて飲めば強い酒に喉が焼けるよう。
「人殺しを、なんとも思っていない僕です。今現在ですら、悔いてもいない。ただの仕事だとしか、思っていない。そんな僕が」
 普通の暮らしなどできるのか、していいのか。悩むからこそできると、カレンは思うのだが、聞く耳持ちそうにないダモンだった。ふと思い立って別の一人に接触して呼び出した。ダモンはまだうつむいたまま酒で唇を濡らしている。




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