夢のあとさき

 善は急げだ、とニトロは出発を促す。とはいえ、その日はダモンの体が本調子ではないことも鑑みて翌朝、ということになった。
「おう、早いな」
 そんなに早起きをしなくてもいい、とは言われていたダモンだったけれど、身についた習慣か、ずいぶんな早起きになってしまった。
「体の調子がいいという証拠だと思う。――とはいえ、気持ちは悪い」
 吐き気をこらえて口許を押さえるダモンにニトロはすまなそう、眉を下げていた。塔にいる間は部屋と部屋の移動に吐き気が付き物なのは致し方ないと諦めてほしい、事前にそう言われていたものの、やはりつらいものはつらい。ダモンは出発できるのを嬉しくも思う。
「行くか」
 ニトロが調えてくれた朝食を腹に収め、二人は出発する。食事より茶が美味だった。それを言えば彼はほっと笑う。
「茶はいつも師匠にも褒められるわ」
 そう言って肩をすくめつつ。料理が下手なのを悩んでいる風ではない。自分だったらどうだろうとダモンは思う。食べてほしい人次第かな、思って彼の顔が浮かび、そっと退けた。
「っと。すまん、先に連絡しとくわ」
 歩きはじめてすぐだった。塔を出てダモンは驚いたものだった。振り仰げば、とてもあれほど広い部屋部屋があったとは思えない塔だった。これが魔法空間、ということなのか。実感した思い。
「連絡?」
 首をかしげるダモンにニトロはうなずく。そしてちょっと待ってくれ、と手振りで示し、何事かを小さく呟く。次の瞬間には彼の手に鳩がいた。
「な――!」
「可愛いだろ? 手紙なんだな、これが」
「手、紙――」
「おうよ。便利だろ? 運び屋がいらねぇ手紙なんだ」
 言いつつニトロが手を離す。鳩は一直線に飛んで行った。どう見ても鳩だったけれど、先ほどまでいなかった鳥。ダモンは魔術師をじっと見やる。恐怖は感じない。ただ、習いのせいか違和感は覚えなくもない。気づいているだろうに、ニトロは気づかないふりをして笑ってくれた。
「俺が塔にいたのは師匠が知ってるからな」
「え――」
「あの塔はな」
 魔術師にとっては最後の砦だ、とニトロは言った。だからこそ、万が一の際を懸念して彼の師はニトロが逃げ込むことができるよう、手配してくれたと。
「いまの管理者はタイラント・イメル師。聞き覚え、あるか?」
「何度か。伝説のようなものだけれど」
「ミルテシア人にとってはそうだよな。イメル師はアリルカに住んでるし」
「アリルカ!」
 魔術師が恐怖の対象ならばアリルカはなんだろう。ミルテシア人にとって異種族も魔術師も同じようなものかもしれない。思い出したのは温室の赤い花。ニトロがアリルカ原産だと言っていた。それだけをぼんやりと思う。夢物語とばかり聞いていたものを。
「そのイメル師に師匠が話を通してくれたんだ」
 ミルテシアにいわば潜入をすることになるニトロ。危険がないわけではない仕事。師の思いに胸の内がくすぐったくなるニトロだった。
「そうでもないと俺は一人で塔に入っちゃまずい身分だからよ」
「身分?」
「弟子だって言っただろ。俺はまだ師匠と一緒じゃないとほんとなら入れねぇんだよ」
 それだけ危険なものもある場所だとニトロは言う。モルナリア伯の屋敷に工作に行った本より危険なものもごろごろとあると。
「そんな――」
「魔法ってのは危ないもんでもあるからな」
「それを、君が言うのか?」
「俺だから言うんだよ。魔法を手にしてるから、危ないもんは危ないって言う。あんただって右も左もわかんねぇ素人が毒薬持っちゃ危ねぇって言うだろ?」
 同じだ、とあっさりニトロは言った。どことなく居心地が悪い。まるで暗殺者であることを肯定されてでもいるかのような。
 それに気づいた瞬間、ダモンは衝撃を覚える。自分はよくないことをしていたのだと、それを理解していたのだと。見ないふりをしていたつもりはない。ただ、気づかなかった。むしろ契約に則った粛清は正しいことと思い込んでいた。いまもまだ、その思いは消えてはいないのだけれど。
 イーサウへの旅は順調だった。シャルマークのうちとはいえ、ほぼ入り口を横断する形になる上、ニトロがいる。魔術師である彼がいる限り、危険は事前に察知できた。
「勘が鋭いもんなんだ」
 彼はそう言う。同じくらい、ダモンも鋭いと笑っていた。当たり前だ、とダモンは思う。鈍い暗殺者などいない。自分の生きてきた道筋を顧みるような旅だった。
 いかに勘が鋭いニトロがいるとはいえ、すべての厄介事を回避できたわけでもない。偶然はぐれ魔物に出くわしたことすらあった。ダモンが躊躇したのは一瞬。抜く手も見せず暗器で倒した。倒してから、ニトロにどう思われることか、わずかな懸念。彼は気にした様子もなくたいした腕だと笑っていた。
「僕は……」
 明日はイーサウ、最後の野営だった。ぱちぱちと爆ぜる焚火の炎。向こう側でニトロが自分の膝に頬杖をついている。
「こんな僕は、なんで、生きているんだろうと思う」
「死にたいか?」
「別に。そうじゃない。なんて言うんだろうな……。この手は、縁も所縁もない人を殺してきた手だ。君は」
「俺だって殺しはしてるぜ? 盗賊だのなんだの、ばっさりやってるわ」
「それは」
「同じだろうが、血に汚れてんのは。なぁ、ダモン。あんた、殺しが楽しかったか?」
「はい?」
 それは楽しかったり嫌がったりするものなのだろうか。きょとんとしたダモンをニトロが苦笑する。よくある話では悩むものらしいと言って。ではやはり、唇を引き締めるダモンにニトロは続けた。
「俺は悩みはしなかったぜ。やらなきゃやられる。それだけだ。楽しくもなかったがな」
「僕も、楽しんでは、いない。それは確かだ。――誤解を招くと思うんだけれど、仕事だからな。仕事だからこそ、完璧は期する。思うように仕事ができたときには嬉しくもなる。でも殺すことそのものが楽しかったわけじゃ、ないんだ」
「あぁ、そりゃよくわかるぜ。ま、他人にゃ言わない方がいい事実だけどな」
 やはりか、とダモンは肩を強張らせる。が、ニトロにならば言ってもいいのだと気づく。友人。その言葉が身に染みた。
 はじめての友達。そう言ってくれたティアンは今どこにいるのだろう。友人などと思っていなかった自分。せめて本当に友人だと思っていたならば、彼をはじめから逃がしただろうか。
「あんたは結社に縛られてたんだぜ。無茶言うな。過去を振り返ってああでもないこうでもないって考えても無駄だろ無駄」
「ニトロ!」
「なんだよ?」
「君は――」
 魔術師は悪魔の輩。ミルテシアで言われ続けていることが蘇る。焚火の向こう、ニトロの白金の髪が躍っていた。
「心を読んじゃいないぜ?」
 にやりと、口許だけが火に照らされていた。ダモンは言葉もなく彼を見ている。彼を疑ったのではない、そんな気はなかった。ただ、なぜとは思う。そんなダモンをからりとニトロが笑った。途端に髪までが明るく煌めく。
「馬っ鹿だなぁ、ダモン。あんた、顔に出やすいんだよ、それだけだ。あぁティアンのこと考えてんなって見てりゃ誰でもわかるっつーの」
「そんな馬鹿な。僕は――」
「暗殺結社で訓練を受けた暗殺者でございってか? いまは違うってことなんだろうさ。もう暗殺者は死んだんだろ。ここにいるのは俺のダチのダモン。それだけだ」
 ひょい、と焚火の向こうから伸びてきた手。無造作に腕を小突いて引かれた。ただ、それだけ。それがこんなにも温かくてダモンは視線をそらす。それをニトロが笑っていた。
「人殺しがな、楽しいやつってのもいるんだぜ?」
 不意に真面目になったニトロの声、引き戻されるよう視線をあわせれば声同様の真摯な目をしていた。それにごくりと息を飲む。
「馬鹿なって思っただろ?」
「それは、思うだろう? 楽しいものか、あれは。仕事だから嫌々やっていたのかと言われるとそれも違うけれど、楽しむようなものでもないと、思う」
「その感覚はまともだな」
 こくり、とニトロがうなずく。まともだ、と言われたダモンこそ驚いていた。暗殺者にまともな感覚などあるものか。否、ニトロは言った。すでに暗殺者は死んだのだと。ならばここにいるのは何者だろう。ニトロは言う、自分の友だと。ほんのりと胸の奥が温かい。
「これはな、俺が師匠から聞いた話だ。世の中のすべてが善人ではないように、当然にして魔術師にも頭のおかしいやつはいる。まぁ、普通はそこまでなる前に魔力を枯らすんだけどな」
 肩をすくめつつニトロは語る。その魔術師は自分の魔法を推し進めたいがために生き物を殺していたと。ついには人間を攫って殺すに至って、その事実が発覚した。
「捕縛したとき、そいつは笑ってたそうだ。悲鳴がたまらない、泣き叫ぶ声がたまらない、こんなに楽しいことは他にはないってな」
 魔法がどうのですらなくなっていたとニトロは聞いた。ただただ人を殺す快楽だけで生きていた魔術師。
「イーサウじゃ、あんまりやらねぇんだがな。珍しく公開処刑になったってよ」
「珍しい、のか?」
「そうだな。俺も見たことねぇからな。公開処刑ってのは要は悪いことすりゃこんな羽目になるんだってことだろ。見懲りさせようってんだからな、あんまりいい趣味とは言えねぇや。――まぁ、そんときには公開処刑でもしねぇと人心が騒いでどうしょもなかったらしいけどよ」
「イーサウという国が、僕にはよくわからないな。それこそ、僕は自分のこともわからないけれど」
「自分のことがわかる人間なんて普通はいねぇんだぜ? それにな、あんたは生まれたばっかだし。一つずつ、覚えてきゃいいんだ。嫌でも生きてりゃ覚えるよ」
 ふん、と鼻を鳴らしてニトロは横になる。草地はよく茂っていて、ふかふかと心地よい。旅の外套を敷けば立派な寝床。
 焚火の向こうで横たわるニトロをダモンは眺めていた。励ましてくれたのだと、いつしか気づく。同時に。くすりとダモンが笑った。
「なんだよ?」
「君は意外と照れ屋なんだな、と思ったんだ。そんな風に見えないから。照れ屋のせいなんだな、態度が嘘くさくて、そこが苦手だと、ティアンは言っていたよ」
 ニトロは答えなかった。小声で文句を呟く声だけが夜に響く。ありがたかった。口に出した彼の名。夜風に乗って届けばいいのに。馬鹿なことを考えた自分をダモンは嗤う。




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