ゆっくりとニトロが伸びをする。まるでなんでもない一日の、なんでもない雑談だとでも言うよう。ここが温室で、側にはティアンがいるかのよう。 「で、あんたはこれからどうするよ?」 今日の予定は。そう尋ねられたのかとダモンは思った。予定など、言いかけてそうではないのだと気づく。今後、どう生きて行くかを問われたのだと知った。 「……僕は、生きている価値があるのか?」 「はい?」 「だから、僕は!」 激昂するダモンをニトロはきょとんと見ていた。そして美貌には似つかわしくないほど無垢な形に破顔した。 「なぁ、ダモン。あんた、仕事は仕事だったって言ったな?」 「そうだ。殺したくないなんて考えたことはない」 「だったらな、仕事だってことは依頼があってはじめて仕事なわけだ。だろ? じゃあ、ティアンを殺せって話が来たらあんた、どうするよ?」 絶句していた、ダモンは。そんな依頼など来るはずはないということすら忘れてまじまじニトロを見つめる。それしかできないように。 「できないだろ? それだけでな、あんたは闇の手から逃げてんだよ、もう充分にな。普通の暮らしができると俺は思うけど、どうよ?」 「でも――」 「殺しはよくないってか?」 「あ、当たり前じゃないか!」 「あのなぁ。俺をそんな目で見るなよ。暗殺者がそれを言われてこっちを非難するって、それ、職業倫理的にどうなんだよ」 からりと笑われた。だからもうお前は暗殺者などではないのだ、言われた気もした。けれどそんなもので済ませていいはずはないとダモンは思う。 いまでもこなしてきた仕事に後悔などしていない。粛清すべき、と上の人間が決めたのならばそれは正しい。従うことにためらいはない。ただそれだけで、人の命を奪ってきた。たとえ「普通の人々」が殺害を忌避すると知っていたとしても。 「極論だとは思うがな、ダモン。人殺しが悪いってんだったら、騎士も剣士も傭兵も全部だめだろうが。人様の命を奪う仕事に違いはねぇだろ」 「――暗殺者は、表立っては」 「隠れてやんのがだめだってか? そりゃな、俺の私見だがよ。命じる相手がいるからだろうが。使われてた道具に非はないってのが俺の考えだな。そもそもそうやって育てられたあんたが咎負う必要がどこにあるよ」 呆れた、と言わんばかりのニトロ。極論、私見と繰り返すニトロ。だからこそ、普通の社会では受け入れられない考えだろうとも思う。ふとダモンは顔を上げた。 「なんで、君は。僕にそこまで――」 「ま、身代わり、かな。――あいつができなかったことを誰かがやり遂げるってのを、俺は見たいんだよ。生きてりゃあいつだってこうなれたかもしれない。そんな姿が見てみたい。それだけだ」 最低だろう、ニトロは笑う。お前のためではないと断言されてダモンはかえって気が楽になった。そのぶん、ニトロの友人であった幼い人のことが胸に迫る。自分であってもおかしくはなかったものを。 「聞いても……いいか?」 なんだ、と首をかしげるニトロに屈託はない。たぶん、ないように見えるだけだ。否、見せているだけなのだろう。こんなに重たいものを背負っている彼だとは知りもしなかった。 「僕は……結社でも、それなりの地位にいた」 それは暗殺の成功率が極端に高いということでもあった。数もこなしている証でもあった。ニトロは悟ったのだろうに、なにも言わずにただ続きを待ってくれていた。 「でも、君の話は、その……知らないんだ。疑うわけでは、ないんだけれど」 視線をそむけたのはたぶん、申し訳なく思うせい。そんなことを自分は感じるのか、それが新鮮でもあった。そんなダモンを明るくニトロが笑う。 「そりゃそうだ。あの事件があったころ、あんたはまだ物心つくかどうかってとこだろうよ。昔の話だって言っただろうが」 「え……? 君とは、それほど」 「あぁ、そうか。ミルテシア人だったわな」 すっかり失念していた、とニトロは頭をかく。そして自分はすでに三十代も半ば過ぎだ、と告げた。思わず目を瞬くダモンに彼は苦笑する。 「魔術師ってのは、魔力が高いとそのぶん成長が止まりがちでな。俺は十年くらい前に成長が止まったよ」 以来、そのままだとニトロは言った。だから外見上はダモンと同年代にしか見えないのだと、少し困り顔のまま彼は言う。 「色々面倒なんだぜ? 押し出しはきかねぇし、若僧扱いされるし。まぁ、魔術師としては若造だけどな。だいたいまだ弟子の身分だしよ」 ふん、と鼻を鳴らすニトロにダモンは何を言うこともできない。ほんの少し前ならばだから魔術師は恐ろしい、そう思っただろうに。いまはなぜだろう、ただニトロだと思う。そんな気がする。 「なるほどな、だからか」 「なに、が……だ?」 「いや、絶対に殺されるって確信があっただろうが、あんた。そりゃ幹部が暴走したんじゃ始末されるわな。そう思っただけだ」 ティアンを逃がすためだけに依頼主であった人間を殺害したダモン。結社としては監視が追手に変わるのも無理はない。ニトロはなるほどと内心にうなずく。 それなのに、ダモンは変われると確信がある。ティアンのこと一つとってもそうだった。いまはまだ混乱もしているのだろうダモン。いずれ罪の意識におののく日が来るのかどうか、それはニトロにもわからない。そんなものを味わわせるくらいならばこのままの方がずっといいのかもしれない。それでも変わって欲しかった。生きてほしかった。幼友達の代わりに、ダモンには。 「結果として、いまのあんたは『殺されて、死んで』るわけだ。あんたが生きたいってんなら、俺は力を貸す用意がある。戻りたいってんだったらまぁ、止めはしないかな。ちょっと寂しいけどよ」 肩をすくめたニトロにダモンは何度目になるだろう、言葉を失う。結社に戻るのも自分の選択の一つだと言われるとは、思ってもいなかった。そんなことを考えてもいなかった自分を知る。 「戻りたいとは……思ってもいなかった」 「そりゃ幸い。俺の努力も無にはなってねぇな」 「でも、どうしたいかは――」 生きる、その選択肢は最初からなかった。ティアンを逃がすために伯爵を殺して、後は自分が殺される。それしか考えていなかった。それ以外の道があるのだとは想像したこともない。 「あんた、ティアンにさんざんイーサウイーサウ言ってたよな?」 「それは……彼だったら、イーサウで生きられる。その方が安全だと」 言うに言えなかった言葉。契約に縛られて、口にしてはならなかった言葉。いまこうして「死んで」みて、少しだけ思う。あの時ティアンと共に逃げればよかったのではないだろうかと。できるはずもなかった、内心で苦く笑った。 「ティアンもな、たぶん覚えてる。あんたが口にしたイーサウって言葉を絶対に覚えてると俺は思う」 それはどうなのだろう。覚えていてほしいと思う。ただ、再会を願うゆえではない。思い出として、持っていてくれれば嬉しいような気がする、それだけだ。わずかにうつむいたダモンにニトロはそっと顔を顰める。彼が視線を戻したときには平静の表情を作っていたけれど。 「だったらとりあえずイーサウに行くってのはどうよ? ダモンって名は別に珍しいもんじゃない。調香師だって掃いて捨てるほどたぁ言わねぇけど、いないわけでもない」 「どういう……」 「イーサウで店でも持てばってこと。名が売れりゃ、ティアンの方から見つけてくれると俺は思うんだがな」 ぱっと一瞬だけダモンの顔が明るくなった。すぐさま翳っていく眼差し。宝石のような緑が暗くなるのは見ていて気持ちのいいものではなかった。 「そんな……話を、ティアンとしたんだ……」 「うん?」 「僕が、香油の店を持って。大儲けして、ティアンを用心棒に、なんて。馬鹿な話だろう?」 「今からやりゃいいじゃん。儲けられるかどうかは知らねぇけど、やってみることはできるだろ」 できるわけがない。言いかけてニトロの真摯な藍色の目に出会った。真っ直ぐと、貫くと言うよりは幾分優しげな目。ダモンは黙って首を振る。 「君の立場がなくなるぞ。僕がどういう人間なのか知られたら……君はまずいことになるだろう。知られないなんてことは、絶対にない」 情報とはそういうものだろう。いずれどこからか話は漏れる。死んだはずのダモンが生きてイーサウにいると、結社にも知れる。そのとき再び刺客はやってくるだろう。 「まぁ、俺の立場は置いといて。あんたの希望をまず聞かせろって。どうしたい、ダモン?」 夢物語でいい、ただのお話でかまわない。ニトロは笑う。その声音だろうか、表情だろうか。ダモンは崩れた。いつしか気づかずうなずいている。人を殺さない香油の仕事がしたかった。隣にティアンがいてほしかった。こんな自分が願いなど持ってはならない、そう思うのに。 「ティアンの方は俺にはどうにもできないからな。そっちは置いとくとして。店を出す援助の援助くらいならできるかな」 「だから、ニトロ! 僕は!」 「あのなぁ、言ってんだろうが。俺は闇の手にかかわったことがあるんだって。つまり、俺の師匠筋は全員かかわってたってことだ。――うちの師匠筋はな、物の見事に親馬鹿揃いでな。学院のガキどもでも子供は子供、てめぇのガキに手ぇ出されてほっとけるかってな」 「……え?」 「あとから聞いた話だけどな。けっこうな大惨事だったらしいぜ。闇の手の息がかかったところをご丁寧に一つずつぶっ潰して行ったらしいからな。――だからあんたがイーサウの事件を知らない。イーサウは闇の手にとっちゃ禁忌だろうよ」 はっとした。ダモンに覚えがあることだった、それは。ミルテシアにおいて仕事をしている闇の手ではあった。が、契約次第ではどこででも仕事をする。ラクルーサで仕事をしたことすらある。が、イーサウはない。契約をすることも、仕事をすることも。それをダモンは知っている。 「そういう……こと、だったのか――」 「なんか覚えがあったか? だからな、あんたがイーサウに来るってんだったら、たぶん守ってやれる」 「でも――」 「もちろん、俺にゃそんな力も権力もない。口利いてやるよってだけだ。で、俺は動いてもいいか?」 はらりとほどけるよう、ニトロは微笑んでいた。選択を、それでも委ねてくれる。唐突に、胸の奥が痛い。否、熱い。人の思いというものがあるとは知っていた。ティアンにはじめて感じた思い。ここではじめて、友人ができたのだとダモンは思う。うなずいたダモンによかったと、大袈裟なほどニトロが笑っていた。 |