唐突にぽん、とニトロが手を叩く。物思いに沈んでいたダモンが飛びあがりそうな勢いだった。知らず目を瞬けばにやりとした彼。見透かされている、ついダモンは苦笑していた。 「腹減らないか? 飯にしようぜ」 気安く立ち上がり、ニトロは手を差し出してくれる。まるで重病人のような扱いだった。黙って首を振って自分で立ち上がる。それほどふらつきもしなかった。 「いや、気になるだろうけどな、手は握っといてくれ。倒れられると面倒だ」 「どういう意味だ?」 「歩きゃわかるよ」 説明するのは手間だ、とニトロが笑う。あまりに屈託がなくて気にする方が馬鹿らしくなってきてダモンは言われるままにその手を取った。柔らかな、働いたことがないような手をしていた。貴族の手とは違う、それでも傷一つない手。 「さすが調香師? 綺麗な手をしてるよな」 けれどニトロはそんなことを言う。自分の方こそそう思っていた、とは言い出しにくくなってしまってダモンは黙る。そして扉を一歩出た途端。 「これが理由な?」 苦笑するニトロがいなかったならば間違いなく毒を盛られたと思うところだ。それも自分の知らない、急性で致命的な毒を。それほど酷い眩暈だった。 「ここはな――」 話していれば少しは楽だ、とニトロは経験上知っている。遥か昔のことではあったけれど、ニトロもここを通っているのだから。 「ミルテシア人に言ってもわかりにくいと思うけどな。魔法空間なんだ。ここにあって、ここにない、現実とは言いにくい空間を繋いでできてる。そのせいで移動するときに眩暈は付き物なんだ」 「君は――」 「俺は魔術師だからな。慣れたよ。魔力持ちはこれに慣れるのが早いんだ」 今ではまったく気にならない、とニトロは言った。それこそなにを言っているのかダモンにはまったく理解ができない。が、ニトロが嘘を言っているのではないことも理解できる。じっとりと汗ばんだ手をニトロが黙って引いてくれた。 「吐き気が酷いだろ? あとで茶ァ淹れてやるからもうちょっと我慢な」 子供に言うような優しい声。こんな声を彼は出すのか、そんなことを思う。意外な驚きを感じてでもいないと廊下で吐きそうだった。 ダモンが常人であることを鑑みてニトロは最初から魔術師たちがよく利用する区画に連れ込んではいなかった。いわば客人向けの区画。塔が作られた当初からあるというこの区画には寝室から浴室、厨房まで一揃いが近々と接して備え付けられている。おかげで移動もそれほどの距離ではなかった。 「ほれ、座ってな」 食堂の椅子に座らせればぐったりとしたダモン。ティアンがここにいれば怒鳴られるな、とニトロは内心で微笑む。今頃彼はどうしているだろうか。無事でいてほしいものだと心底思う。 「ありがとう」 すっきりとした薄荷草の茶を淹れてやればほっとくつろぐダモンだった。見知った香りというものはそれだけで安心するものらしい。 「俺、料理は下手だからな?」 言いおいてからニトロは食事の支度をする。さすがにいまは手伝うとは言わないダモンだった。目に見えるところで支度をするのはダモンが不安に思わないで済むように。今更疑いはしないだろうが、なにも妙なものは入れていない、その証のために。 「すまないな――」 「うん?」 「気にして、くれているだろう?」 「気になるのはあんただろ?」 悟られていたか、ニトロはさすが闇の手育ち、と心の中で苦く思う。暗殺者など心の機微に疎くては務まらないだろうが、それにしても。 「君だって僕が台所に立つのは、気にならないか?」 「はい?」 「僕は――」 「言っただろ? 俺は水系だぜ。俺を毒殺するのはちょっと無理。だいたいな、俺は友達疑うほど堕ちてねぇよ」 ふん、と鼻で笑ったニトロにダモンは絶句する。こんな自分を友と言ってくれる人がまだいた。ティアンは。 彼はどうだろう。ティアンは自分の真実を知ってなお、友と言ってくれるだろうか。諾と言う声、否と言う声。双方が響きあい、こだまし、どちらともわからない。 ダモンが惑乱しているのにニトロは気づいてはいた。が、いまはどうにもできない。それ以上に彼自身が驚愕していた。友人と、口にした自分自身に。諦めのような、羞恥のようなかすかな笑みが口許に浮かぶ。背を向けたままでダモンには見えなかった。 「ほい、飯。繰り返すけど、俺は下手だからな。せいぜい食べられる程度と思って食ってくれ」 ぬっと突き出された皿に驚いた。それほど沈んでいたつもりはなかったのだけれど。あっという間に時間が経っていたのか、それともニトロが手早いのか。 「ありがとう」 受け取った皿の温かさ。当たり前に食事ができる、それがどんなに貴重なことなのか、ニトロは知らないだろうと思う。 下手だ下手だと言うわりに、普通の料理だった。ダモンは口が奢ってはいないけれど、なにぶん貴族の館に仕えていることが多い彼だ。贅沢な料理、というものも食べつけている。そのダモンが特にまずいとは思わなかったのだからニトロの表現が大袈裟なのかもしれない。 「ご馳走様。普通にうまかったと僕は思うよ」 「……そうか? 俺はあんましうまくねぇと思うんだけどなぁ」 「君はうまい食事を食べ慣れている?」 探るつもりはなかったけれど、気が引けてそんな聞き方になってしまった。それに気づいた様子もなくニトロは腕組みをして考えていた。 「いや、そうでもないな。うちじゃ師匠と俺とで食事の支度は交代なんだけどよ。兄弟子が料理上手なんだよ。あいつがいるとうまい飯が食える。普段は自分ちにいるからな、たまにしかありつけねぇの。師匠と俺は食える程度ってところだな」 「なんだか……長閑な、感じだな」 「師弟関係に聞こえないだろ?」 にやりとしたニトロは改めて食後の茶を淹れてくれた。普段から彼はそうしているのだろうことが窺える淀みのなさ。これはこれで贅沢だと彼は知らないのだろうか。 「――魔術師師弟って言っても色々だけどな。少なくとも、あんたんとこみたいな育ち方は俺らはしないよ」 飲みかけの茶から、ダモンは視線を動かせなかった。そのままじっと強張る。ニトロは、知っている。間違いなく、自分がどう育ってきたか、知っている。 「そのとおり。知ってるよ」 「……なんで。君は、歴史……いや、魔術師だから、なのか?」 歴史学の徒だから色々知っているのだ、と偽っていた彼。今は違うと知れている。ならばなぜ知っている。じっと見つめるダモンの顔は青ざめていた。 「魔術師だから、も一理あるかな。否応なしに裏社会と通じてもいるからな」 それは魔術師だからではなく塔の後継者に指名されている者の弟子だからなのではないか。ダモンの問いが目に表れた途端、ニトロはうなずく。けれどそれだけではないと。 「ちょっとした昔話、かな。――俺は五歳でイーサウの魔法学院に入った」 ダモンは思い出す。自分もたぶん、同じくらいだったと。似たような年で闇の手によって養育されはじめた。 「ガキどもがうようよいてな。喧嘩したり転がったりしながら勉強をする」 同じだとは、思わなかった。似たようなことはしていたのかもしれない。それでもニトロは殺し合いはしていなかっただろう。仲良くなった友達が突然毒を塗った刃を笑顔で向けてきた驚き。考えることなく切り返し、殺してしまった感慨のなさ。ダモンはそっと心の奥に沈めていく。 「十三歳のときだった。同い年の友達がいてな。晩飯時に、急に腹が痛いって言い出した。心細いから一緒にいてくれってな」 ニトロはじっと自分の手を見ていた。あのとき繋がれた手の温かさを、いまでもまだ覚えている。汗ばんだ彼の手を。 「その日、ガキどもが大勢倒れた」 「え――」 「飯に毒が盛られてたんだよ。まぁ、そこはそれ、魔術師がごろごろしてるからな。神官の伝手もあるし。死人は出さないで済んだ。一人以外はな」 「それ、は――」 「俺の、ダチだよ。あいつが、毒を盛ったんだ。失敗したら、消されるってあいつは知ってたんだな。俺宛てに、遺書が残ってた」 内緒の手紙のやり取りをしよう。他愛ない子供の遊び。彼は常人で、学問として魔術を学んでいるだけだったから、ニトロは工夫をした。自分の魔力にだけ反応する小箱を作り、彼に渡したあの日。 ――秘密の手紙とか、入れようよ。絶対誰にも内緒にして! 開け方は、お前にだけ教えてあげる。 ――絶対? 僕だけ? やった、楽しみだ。なに入れようかな! 本当に嬉しそうだった笑顔をまだ覚えている。最後の手紙は一言一句、忘れていない。 「――自分は闇の手っていう、暗殺結社の人間だってな。イーサウが目障りだから騒ぎを起こすよう、潜入してたって。友達を殺したくなんかなかった。お前だけは死なせたくなかったから、腹が痛いなんて嘘ついた。でも失敗したから、お前がこれを読んでるなら僕はもう死んでる。――たかが十三歳の小僧が書く手紙かよ、これ?」 ニトロは笑っていた。わずかに天井を仰いだまま、笑っていた。ダモンは言葉もない。充分にあり得ることだと、知っていた。 「他にもな、いろいろ書いてあった。どんな風に育ってきたか、これからどんなことをする予定だったのか。おかげさまで闇の手にゃ詳しくなったわ」 はん、と笑ったニトロの藍色の目は笑ってはいなかった。じっとダモンを見つめ、彼とお前は違うのかと問うている。同じだと、うなずいていた。 「俺のダチはな、ある意味じゃ特殊かもしれない。あいつは十歳で学院に来た。以来、十三歳まで俺たちと一緒に育ったんだ。あんたは?」 「僕は……一仕事終わると、すぐ結社に戻っているな」 「なら、あいつは学院に染まっちまったんだな」 「染まったって……」 「自分の育ちを疑わないでいりゃな、あいつは死なないで済んだだろうよ。そんときゃ俺らが死んだわけだがな。――暗殺者がな、自分の仕事疑ってりゃ世話ねぇわ」 殺したくない、死なせたくない。そんなことを言う暗殺者がどこにいる。いまでもニトロは時々心の中に文句を言う。だからお前は死んだんだと。彼はいつも代わりにお前が生き残った、そう言う。 「あんたはどうだ。仕事は仕事だろうが?」 「そうだな。殺したくないとか、考えたことは……ないな……」 なんという酷い世界だろう。不意にダモンは吐きそうになる。殺したくないと言った人が殺されて、自分のような人間がいまもまだのうのうと生きている。知らず笑うダモンをニトロが見ていた。 |