夢のあとさき

 見つめられてニトロは苦笑していた。あまりにも真摯な緑の目。ティアンに怒られそうだな、そんなことを思えば知らず口許がほころぶ。見咎めたダモンの眼差しが険しくなった。
「いや、悪い。ちょっとした思い出し笑いだ。――なぁ、ここ、どこだと思う?」
 話題を変えようとあからさまなニトロだった。それにダモンは小さく溜息をつき、言われてみてはじめて気づいた様子で周囲を見渡す。
 優雅で繊細、とはこういう設えのことを言うのだろうか。様々な貴族の邸宅に出入りしてきたダモンだった。王家に連なる家に仕えていたこともある。が、それすらも薄っぺらいと思ってしまうような、時間の匂い。脈々と繋がってきたのだろう歴史を感じる佇まい。改めて違和感を抱いた。
「ここは――」
 不意に柔らかに翳ったニトロの目。懐かしさ、というよりは憧れに寄ったようなその眼差しが辺りを見やる。それからダモンに目を戻してはにたりと笑う。
「リィ・サイファの塔」
 何を言われているのか理解ができなかった。無論ダモンとて知っている、伝説の魔術師の塔の名。シャルマークの入り口に位置する魔所。すう、と青ざめて行く。
「つまり俺は魔術師だ」
 笑みを消さずにニトロは言った。真っ直ぐとダモンを見たまま。その眼差しに射抜かれてダモンは言葉もない。疑えなかった。いくらあり得ないと理性が叫んでいても、事実だと感じてしまっている。
「あのなぁ」
 ぼりぼりと、せっかくの美しい髪をしているのにがさつな態度でニトロは頭をかきむしる。もったいない、どうでもいいようなことを思った。こうして素顔に戻ったニトロを見れば彼が意外と精悍な男らしい美貌の持ち主だとわかる。髪の色が違うくらいのことで印象はずいぶんと違うものだった。
「暗殺結社の人間に魔物見るような目で見られる覚えはねぇぞ、おい」
「あ――」
「ま、ミルテシア人だしな。わからないでもないけどよ」
 肩をすくめてニトロは笑う。それでいいことにしてくれた。そのおかげだろう、魔術師、と言われて感じた恐怖がきれいに晴れて行く。
 それくらいダモンにとって、否、ミルテシア人にとって魔法は異物。この世にあってはならない異物に他ならない。
 そう思っていることにダモンは自分を笑いたくなった。暗殺者だとて、この世の異物だろうに。むしろ自分の方がいてはならない存在だろう、普通は。たとえ自分がどれほど正しいことをしていると主張したとしても容れられるものではない、その程度のことはダモンも理解していた。
「改めて自己紹介と行こうか。魔術師エリナード・カレンの弟子、ニトロだ。よろしく」
 差し出された手。ためらいなく取ることができた。この手は魔法を使う手。魔物と同じ手。それでもニトロの手だった。
「だから、助けてくれることが……できたんだな……君は」
 とどめまで刺されてなお生きている自分。そういうことだったのかとようやく得心した。魔物の手まで借りて生きた、そんな気がしないでもない。けれど少しだけ思う。これでティアンに殺されてやることができる、と。
「おうよ。暴れ馬が向かってきたときに腕引っ張っただろ? あんときに小細工してな。少し位置をずらしといたんだ」
 ダモンがよけいなことを考えているのはニトロにはお見通しだった。まるで掌を指すよう理解できるのがニトロ本人は不思議だ。それはそれとして、彼らのことはいま自分がどうにかできる問題ではない。なにしろここには一方の当事者がいないのだから。そちらの問題は先送りすることにニトロは決める。
「ずらした?」
「あぁ。ばっさりやられても致命傷にならないようにな」
「でも、毒だっただろう?」
 刃に毒が塗られていたのをダモンは感じている。あの瞬間の眩暈は間違いない。掠り傷でも致命傷だったはずだ。
「俺は水系魔術師でな」
 しかしニトロは軽く肩をすくめただけ。そして魔法に縁のないダモンには理解できないと気づいたか説明を続けてくれた。
「魔法には属性がある。水、火、地、風。この四大属性がある。で、俺は水系なわけよ。水系ってのはつまりありとあらゆる液体が管轄なわけだ」
「血液――」
「そのとおり。飲み込みがいいな。血に作用する毒だったら俺にはないも同然だ。あんたはそもそも毒に耐性があるしな。作用する前に無効化するのは簡単だとは言わねぇけどできないことでもない」
 そして死を装って埋葬までしてもらった、とニトロは言う。馬の脚にかけられたのも墓でとどめを刺されたのも幻覚だった。
「刺したのは俺たちじゃなくて、別の死体だっただけだ」
 死体には悪いことをしてしまったけれど、おかげで生きているからありがたい。口で悪いと言いつつ気にした素振りもないニトロだ。
「ちなみに俺の用事ってのも魔法絡みでな」
 疑問に思う前に、とモルナリア伯の家に留学していた理由まで話してくれるつもりらしい。そちらの方こそが申し訳ない気がするダモンだった、身代わりにされてしまった死体に感じるより強く。そんな自分を壊れていると思う。
「伯爵家に?」
「あぁ、ちょっとまずいもんがうちの一門から流出しちまった。魔道書なんだが……」
 伯爵家から持ち帰った本だった、ニトロが出して見せたのは。脱出の直前に図書室に寄ったのを思い出す。
「流れ星、わかるよな? あれを呼びつけて相手にぶつけるって魔法でな」
「……はい?」
「まぁ、うちの一門でもそんなに大勢が使える魔法でもないし、さほど多用するもんでもない」
「というより……なにに使うんだ、そんなもの!」
「主に戦争用? 城壁破壊だな、主用途は。俺も発動だけはなんとかできるけど、精度は出ないし」
「精度が必要なものなのか、それは? 僕には、ただの大量破壊にしか思えない。いや、僕が非難するのも違うとは思うけど」
 暗殺者が戦争の倫理を説くか。そう思えば笑うしかないだろう。けれどニトロは笑わなかった。ダモンの生真面目さを見てとったかのように。そしてぱちりと片目をつぶって見せる。
「うちの師匠だったら敵一人を目標にしてそいつだけにぶち当てることができるぜ? しかも、殺さないことが可能だ。おかしいだろ?」
 唖然とした。流れ星を操ることがまずおかしいのだが、そんなものを人に落としておいてなお殺さないとはどういうことかと。想像を絶するとはこういうことを言うのだろう。世界が違う。
「世間は広いよな」
 しみじみと言うニトロにダモンは目の前が晴れていくようだった。闇の手という暗殺結社の中で育ち、その世界しか知らなかった自分。魔物の世界で――ミルテシア人にとっては――生きてきたニトロ。
「確かに……世界は広いな……」
 まだなにも理解はできない。ただ、広いということは知った、そんな気はした。知らず自分の手を見ていた。
「その理論書が流出してな。いやはや、まいった。こんなもん、滅多な相手に知られていいもんじゃないからな」
「そう、なのか……?」
「喩えが悪いかもしれないけどよ、あんたの結社の特製の毒、あるよな?」
 知っているわけではないが、ないはずはないと言うようなニトロ。そのとおりだ、とダモンは素直にうなずいてしまっている。何より強烈な尋問のような気がしてきた。自ら進んでこんなことを語っているとは。ほんのりと苦笑すればニトロが肩をすくめた。
「それ、そんじょそこらの他人に知られちゃまずいだろ?」
「というより誰にであっても知られてはまずい。結社の人間でも、一部だけ――あ……」
「そういうこと、だ。使える人間は限っといたほうが安全だ。な? で、俺は修正に行ってたんだ」
「修正? 盗んでしまうんだったら――」
「いやいや、非常事態でやむなくしただけでな。元々俺はあそこでちまちま書き直してたんだよ、こいつを。おかげでよけいな手間かける羽目になったってのに無駄骨だぜ」
 結局盗み出したのだから。ニトロは力なく肩を落とす。それは苦労なことだったな、ダモンは笑ってしまって、笑う自分を遠く感じる。
「どうした?」
 目敏く気づいたニトロだった。それにも苦笑する。なるほど、と今更ながら納得する思いでもいた。ニトロに感じていた違和感は彼が魔法に通じているせいだったのかと。彼は彼で本来の自分ではない演技をしていた。自分もまたただの調香師を装っていた。
「お互い、演技をしていたんだな、と思って」
「確かに。疲れたぜ。こういうのは向いてない」
「向いているから、伯爵家にいたんじゃないの、か……?」
 少なくとも闇の手ではそうだった。自分には結社によって仕込まれた調香の技がある。別のものには剣の腕が。また別のものには寝床の技が。向き不向きを見抜いて仕込み、務めを振り分けるのは上の者の役目だったのだが。
「んー、俺の場合はやむを得ず、かな。師匠は面が割れてるからな、論外だろ」
「エリナード……カレン……。聞き覚えが……」
 あっと息を飲んだ。魔法に疎いミルテシア人であるからこそ、ある意味では耳をそばだてることにもなる魔法の話。魔術師たちの最高峰。それは「リィ・サイファの塔の管理者」という。その後継者として響き渡る名。エリナード・カレン。
「ここの後継者だからな、うちの師匠は。ミルテシアでも面は割れてる。変装するのも手だけどよ、ばれると後が面倒だ」
「それで、弟子の、君が――」
「おう。兄弟子よりまだマシだってな。確かに兄弟子には向いてない。あれは絶対になんかやらかす」
 酷い言い草だった。が、ニトロは笑ってそれを言う。朗らかに、大らかに。兄弟子とは互いに文句を言いながらも仲がいい、そんな関係を窺わせる明るい笑い声。
 自分にはないものだとダモンは思う。共に修練をしたものはいる。兄弟弟子と他の世界では言うのだろう。けれど、そんな温かいものでは断じてない。一人前になるまでは、あわよくば出し抜き、隙を狙っては殺し合うような、そんな関係だった。そこから生き残ってこそ、一人前だと。そう育てられた。そういうものだと、思っていた。「仕事」をするようになって、当たり前の人々は違うのだと知ったけれど。そんな自分に誇りすら感じていたけれど。
「とりあえずこれで俺の事情は全部しまいだ。隠し事はもうないと思うぜ? 忘れてることならあるかもしれないけど」
 からりとニトロは言う。水系魔術師、の意味はわからない。それでも清らかな水のような男だとは思った。そのぶん、汚れている自分をダモンは強く思う。




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