夜明け近くまで森にいた。さすがに道も見えない状況では逃げるより先に遭難する。いつ襲われるかわからない、二人は交代で転寝をするに留めながら朝を待つ。 「行こうぜ」 ニトロがそう言ったのはまだやっとあたりが見えるかどうかというころ。ダモンにもなんとか見えるほどの暗さだった。 「見えるのか、君は」 「夜目は利く方だ」 あっさりと言ってニトロは先に立つ。その一歩後ろを歩きながらダモンは彼は道まで知っているらしいと感嘆していた。歩みに淀みがない。方角の見当がついている、などという問題ではなかった。 おかげで森の中は早々に抜け出す。昼になるより先に森を出ることができたのはニトロゆえだった。当のニトロは内心でほっとしていたものだったけれど。さすがにこんな森に地図などない。少々裏技を使った甲斐があるというもの。無論ダモンは気づいていない。それにも安堵していた。いまはまだ面倒な話をする気分ではない。 「隣町でいいな?」 伯爵の館があるリアーノの街から一つ北側の町。森を突き抜けてきてしまった二人は遠回りをしたわけで、結局のところ距離はと言えばさほどでもない。 「いいのか?」 「とりあえずは食うもんやなんかがいるからな、逃げるにも」 自分は猟師ではないから狩りは難しい、朗らかにニトロは笑う。が、ダモンは彼にならばできるのではないだろうか、ふとそんなことを思う。 もしもここにティアンがいてくれたならば。三人で逃げていたのならば、どれほど困難な道であったとしても楽しいと思うだろうに。小さな溜息にニトロが気づいた。それに首を振ればなぜかあちらからも溜息。 「聞きたかったんだけどな、いいか?」 一応は前置きをしておいてニトロは言う。ダモンはただ肩をすくめたまま歩いていた。町に入れば何が起きるか、想定はしている。今からそれに備えることくらいはしておきたい。無駄ではあろうが。 「あんた、なんでティアンと一緒に逃げなかったんだ?」 「あぁ……」 「うん?」 「いや……そのとおりだな、と今更思ったんだ。あの時は、ティアンを安全に逃がすのに必死で。いや、やっぱり彼だけで逃がしたと思う」 「なんでだ?」 「僕がいる方が危険だからだ」 ちらりと視線だけで背後を示す。そこには何もいない。気配をダモン自身、捉えてはいない。それでも監視されていることは伝わってくる。それにニトロが苦笑した。 「一緒だったら結構なんとかなるもんだったりするもんだけどな。だろ?」 「惚れた相手とならどんな危難もって? 君は意外と夢見がちだな」 「馬鹿な。違うわ! あんたには特殊技能があって、ティアンには剣の腕がある。そういうことだろうが」 からりと笑うニトロに急に気恥ずかしさを覚えたダモンはかすかにうつむく。ニトロの評価はありがたかったけれど、こんな外気の中で毒を流すのはためらわれる。他の手段もあるが、とダモンは袖口を押さえ、口ごもる。 「いや……」 ふと口をついてしまった。ニトロは悟ったのだろう。何も問わずにいてくれる。ティアンには、知られたくなかった。彼を嵌めたのは自分であると。何より自分は暗殺者なのだと。汚れ仕事をするためだけに生きているのだとは、知られたくなかった。正しいことをしているはずのこの体が汚れているのだと、いつから考えるようになったのか。ダモンは不思議に思いつつただ無言で首を振るばかり。 「これも聞いた話だけど。――惚れた相手ならそいつの過去がどうであれ、けっこうどうでもいいと思ったりするらしいな」 「根本的な間違いを指摘してやる。――ティアンに、僕が、惚れていたのであって、彼にそんな気はなかった」 「そりゃ失礼」 投げやりな謝罪。受け入れる気のない言葉だと態度で示されてもダモンこそ、受け入れられない。ティアンにとって自分はただ、はじめてできた親しい友人でしかなかった。 無言のまま歩くことしばし。町の門が見えてきた。いまだ伯爵の屋敷で起きた惨状は伝わっていないのだろう、長閑なものだった。それを幸いに二人はなんなく町に入り込む。 「旅人かね? いまはいい時期だよ。宿屋は大通りから二本、中に入ったところにたくさんある。いいところが見つかるといいな」 門番まで明るく迎えてくれた。近隣の農家から訪れているのだろう荷馬車を引いた農民、頭より高々と荷物を背負った行商、伯爵の膝元の仰々しさを嫌うのだろう気軽な旅人の姿も多く見えた。 「活気のある町だよな」 辺りを見回しニトロが呟く。いいことだとでも言うように。ダモンには少しうなずきにくい。伯爵が一部の商人だけを優遇していたのを知っている。ここでもそうなのだろう、路地を見やればはっきりと貧富の差が見てとれる。 「とりあえず俺たちは旅人だしな」 肩をすくめたニトロを冷たいとは思わなかった。目立つ行いは避けるべき。彼がそう言っているのを感じる。それでいて、本当はちらりと見えた薄汚い子供を哀れにも思っているらしいと。不思議な男だとつくづく思う。 「君は、不思議だな」 「そうか?」 「僕を助けようとするくせに、僕を責めない」 目の前で死なれるのは嫌だと言ったニトロ。目の前で殺された伯爵を見たはずのニトロ。なぜ責めないのかと思う。死ぬ前に、それだけは聞いておきたいような気がした。 「いくらなんでも実行前だったら止めてたぜ? やっちまったもんはしょうがねぇだろ」 そんなはずはあるか。笑い出そうとしたダモンの声が止まる。危険を察知したのだろうニトロが強引に腕を引いた、かすかな眩暈にも似た感覚。遅かった、ダモンは思う。 「暴れ馬だ!」 町中を疾駆する馬。血走った目、大きく膨らんだ鼻。狂乱し、人の手を受け付けない巨大な獣がこちらに。 「ニトロ!」 せめて彼だけは。突き飛ばそうとしたはずなのに、やはり無駄だった。そんなことを思ったのが最後。正面に馬。背後に人影。馬から助け出そうとしてくれる人の手に握られていた小さな針。 「あばよ」 耳元に囁かれた声がもうダモンには届かない。視界の端でニトロもまた崩れ落ちたのが見えていた。その体が馬に踏み潰され、ダモンも闇に落ちて行く。 ――ティアン。 せめて無事でいて。ただそれだけを思って意識は消えた。 馬の足にかけられた旅人二人は無惨なものだった。逃げることもできなかったのだろう、酷い有様になっている。 「憐れな――」 町の住人が客死した旅人をせめて、と町の外の共同墓に葬ったのはその日の夕方だった。暴れ馬はその場で殺され、持ち主はひどく咎められたと言う。けれどそれだけの、さほど珍しくもない事件だった。 その夜更け。共同墓がごそり、と盛り上がる。まだ掘り返されて時間の経っていない墓の土は柔らかい。だがそれにしても。人影はなく、ただ土だけが盛り上がるとは。 「……誰かが見てたら怪談だな」 髪に絡まった土を払い落し、ニトロは溜息をつく。死んだはずのニトロだった、襤褸屑のようになって葬られたはずの。 「よっこらせっと」 死体のはずのニトロは元気に墓を掘り起こす。すぐそこにダモンの死体があるはずだった。なにも別々に葬ったりはしないだろう。案の定、血の気を失くしたダモンの体はすぐに見つかる。 「よし」 その口許に耳を近づけ、ニトロはほっと息をつく。息はない。息があることの方を恐れていたニトロとしては体中から力が抜けるような安堵だった。そして二つの死体――そのはずだ――は掻き消える。あとには掘り返された形跡も綺麗に消えた元の静かな共同墓。 瞬きをして、なぜ自分は瞬きをしているのだろうと思う。天井を見上げ、見えているのがおかしいと思う。刺客の仕事は絶対だった。自分でもあれ以上はない、見事に整った仕事ぶりだった。 「なんで、僕は――」 喉に声が絡まってずいぶんと痛んだ。咳をすれば覗き込んでくる人影。見覚えがなくて戸惑う。その視線に気づいたのだろう彼が苦笑していた。 「気がついたか? 俺だ、ニトロだ」 「え――」 またも瞬きを繰り返し、やっとのことで体を起こす。傷んでいるらしい肉体は自分のものなのに思うように動かない。その眼前にいる男、ニトロのようでニトロではない姿。浅黒い肌も、藍色の目も同じとしばらくして気づく。けれど黒髪は鮮やかな白金に。苦笑いしつつ短いそれをニトロはかき上げていた。 「悪かったな、こっちが素顔なんだ」 「なんで……」 「染めてたんだよ。悪目立ちにもほどがある頭だからな」 確かに特徴的に過ぎる髪だった。銀ではない、金でもない。白金としか言いようのない美しい髪は長さは変わらず短いまま。髪の色が違うとここまで印象は違うものかと愕然とするほど、ニトロは別人だった。 「いや、それより……」 「刺客がいたのは気づいてたからな。小細工重ねてなんとかしたぜ。あんたは死んだことになってる」 俺もだがな。言ってニトロは笑う。二人はあえて町に入るときに身元を偽らなかった。イーサウからの留学生ニトロとモルナリア伯の調香師ダモン、そう申請している。 「これで俺もあんたも晴れて綺麗な身の上ってわけだ」 なにしろ死んでいる。ダモンはもうこの世にいないのだから。言われている意味が、そのダモンには理解できない。 「モルナリア伯の調香師があそこで死んだ。わかるか? 可哀想にって葬ってくれたんだぜ? そりゃお屋敷にも通報が行ってるぜ。あっちはあっちで大騒ぎだったらしいがな。――だからあんたは自由の身だ。闇の手の刺客があんたを討った。墓にまでとどめ刺しに来やがったからな。念のいったことだぜ、ほんと」 自分の身の上に起きたこと以上に、溜息をつくニトロがわからなかった。なぜ、自分たちは生きている。とどめまで刺されてなお、どうして。 「君は、何者なんだ。聞くまいと思ってた。でも、いくらなんでもおかしい。歴史学者の卵? そんな馬鹿な話はないだろう」 いくら「歴史の闇」の話であったとしても闇の手の存在を知っていたこと一つとってもそうだった。今更ながらダモンはじっとニトロを見つめる。それでも敵意だけはなかった。なぜか。 |