あの時は楽しい道だった。夜明けの森をティアンと一緒に歩いた。半ば仕事ではあったけれど、それでもそこにティアンがいた。いまはニトロと二人。夕暮れの陽も落ちて、あの時と同じほどに暗い。けれど夜明けの遠い、夜の森。どこかで梟が鳴いていた。 「さすがに二度目は早いな」 夜目が利くのはニトロも同じらしい。ふとダモンは気づく。灯りも持っていないのにニトロは道を間違うこともなかった。すでにそこはあの時の広場。もう花は咲いていない。代わりに薄荷草の花が盛りだった。 「まず飯にしようぜ。腹減らないか?」 「君は――。用意がいいにもほどがないか?」 「イーサウの男はこんなもんだ」 荷袋に非常食まで放り込んであったというのか、ニトロは。さすがに訝しくなったものの、ありがたいことに違いはない。ダモンも空腹だった。それを皮肉に笑う。 「――君は、気づいているんだろう? あれだけの惨殺をしてのけて、空腹だと平気で言う僕が怖くないのか」 「別に? なんか理由があったんだろ」 「理由があればやっていいとでも?」 「それは普通俺の台詞だと思うがな」 にやりと笑って差し出された棒状のものをダモンは手に取る。焼き麦を飴で固めたものらしい。噛みしめれば干し果物も入っていた。 「……うまいな」 伯爵を殺したことになんら良心の痛みを覚えていないダモンだった。ティアンのためだから、などという理由ではない。そんな言い訳は必要ない。呵責を覚えない自分を見せつけるようニトロを見つめる。それに苦笑して今度は水袋が出てきた。溜息をついて水をあおる。礼を言う気にはなれなかった。 「――宴の病人も、僕だ」 「やっぱりな。香りに毒を乗せた?」 そのとおりだったが見抜かれている不自然。一介の歴史学者の卵になぜ。思うもののどうでもよかった。 「さて、と。監視がついてるって言ってたな? 逃げる算段つけようぜ」 かりかりといい音を立ててニトロもまた非常食を食べ終えていた。手についた粉をぱん、と払っては屈託なく笑う。その笑みがいままで見ていたものとは違う、そんな気がした。夜の森に滲むような黒髪、暗い青の目。口許だけがくっきりと笑みの形に見えた。 「君は猫を被っていたのか」 「そりゃそうだ。一応は議長の肝煎りで行ってたんだからな。迷惑かけるわけにもいかねぇよ」 あっさりと認められて、ならばあの朗らかにして大らかなニトロ、にティアンが感じていた苛立ちはなんだというのか。そう思ってしまう。かすかに顔をそむけ、小さく吐息。それでも。 「――これを聞けば君まで殺されるぞ。僕は道連れを増やす気はないんだ」 「なぁ、ダモン」 「なんだ」 「今更、だろ? 俺があんたを監視してるやつだったらな、連れがどこまで何を聞いてるかわかったもんじゃない、そう判断する。あんたを殺すついでにばっさりやっちまうよ。その方が後腐れねぇしな」 またもそのとおり、だった。自分が監視を命ぜられているならばそうするとダモンも思う。いまだ頭に血が上っているらしい。 「気を使ってくれるのは嬉しいけどな」 そんなことをしていたのだろうか、自分は。首をかしげるダモンをニトロは見やる。苦く笑っては何気なく首を振っていた。しばしの静寂。誰もいないような森の中。ダモンは気配を感じている。遠い、すぐそこではない。話が聞こえるほど近くではない。そこまで近ければダモンとて反撃はする。それができない位置に監視はいる。見定めてダモンは口を開いた。それでもまだ溜息をつきながら。 「――暗殺者だよ、僕は」 ふうん、と気のない返事が返ってきて、それこそ気が抜けそうになる。ここはぞっとされたり嫌悪されたりするような告白ではなかっただろうか。思った自分をそっと笑い、少し軽くなった気がする肩のままダモンは言葉を続けた。 「闇の手。知らないだろうけど」 「知ってるぜ。世界最古の暗殺結社だろ。へぇ、あんたがな」 「なんで、君は――!」 「だから、歴史」 そういう問題ではない気がしたけれど、知っているのだから仕方ない、そんなニトロの表情に毒気が抜かれた。唖然として首を振りつつダモンは言う。 「僕は、闇の手の一員だ。だった? 伯爵を殺したからな。どうなんだろう」 「一応聞くけどよ。伯爵殺害が仕事だったのか」 「間違ってはいないな。エッセル粛清の契約だった」 「それにティアンが巻き込まれたってところか。ダチが巻き込まれてむかついてついでに伯爵やっちまったって? 情に篤い暗殺者がいたもんだ」 からりと笑われて、唖然とするのも馬鹿らしくなってきた。ニトロは何者なのだろう。同業者とは思わなかったけれど、歴史学の徒とも思えない。どうでもいいか。内心に呟きダモンは闇夜を見上げる。星一つなかった。 「君はあいつをティアンと呼ぶのか? 聞いたこと、なかったな……」 二人で話しているときはそうだったのだろうか。三人でいるときはモルナリア伯に倣ってバスティと呼んでいたニトロ。慌てたのだろうか、身を乗り出すようにニトロは否定してきた。 「違うっての! 俺は伯爵に目ぇつけられるのが嫌だったんだって。目立ちたくなかったからな」 「そのわりに目立っていたぞ」 「頭のつくりと剣がそこそこ使えるってので目立つのはまだマシだ。妙な目立ち方したらそれこそサイオン議長にどんだけ詫びても足らねぇよ」 既知の人物、という語り方だった、とダモンは思う。決して留学の話をつけてくれただけのかかわりではない。ニトロはイーサウという国の上層部と繋がりがある。言葉の端からそれを感じたけれど関係のないことだ、とダモンは退ける。 いままでは、関係があってもなくても覚えているべきこと、と思っていた。闇の手によって、いつどこに送り込まれるかわからない自分。他者の関係性を把握するのは仕事のうち。いまはすぐそこにある死を待つ身。 「……僕は。……別に情に篤いわけじゃない」 「ティアンも言ってたぜ。本名で呼んでくれるのはあんただけだってな。心ならずも伯爵に倣ってた俺だけど、まぁ、再会したときには本名で呼びたいし」 「君の方がずっと、情に篤いと、思う」 「そうでもない。目の前で死なれるのが嫌なだけだ」 それを情に篤いというのではないだろうか。暗殺の告白をした自分を突き出しもせずともに逃げようと言ってくれる。馬鹿馬鹿しいほど、温かい。ニトロでなければ、もっとよかった。薄情なことを考えたものだとダモンは笑う。笑うのに、視界が歪んだ。 「僕は……友情ではなかったと思うよ。ティアンが、好きだった。向こうは全然そんな気はなかったみたいだから、なにも言う気は、なかったけど」 ぎゅっと拳を握りしめれば、痛くもない。ティアンは無事だろうか。追捕の兵は出ていない確信はある。それでもなにが起こるかわからないこの世界。 「言えばよかったのに」 「だから!」 「なぁ、ダモン。聞いた話だけどな、この世には想像を絶する鈍い男ってのが存在するんだぜ。ティアンはその口だと俺は、思ってる」 馬鹿な、と一蹴してもよかった。できなかったのは、たぶんきっと期待だ。ダモンは力なく首を振っていた。いずれにせよもう遅い。ティアンを嵌めたのはこの自分。せめて殺してほしいと思う。叶いもしないだろうけれど。 「こんなこと聞くのはなんだと思うんだがな。――ティアンの方に、結社の人間が行くことは、ありそうか?」 追及をしないでいてくれたニトロに思わず笑みが浮かぶ。そして蒼白になった。闇夜にあって見えもしない、それがありがたい。同時に見えてもいないはずなのに悟ったニトロを思う。 「危ないか?」 「いや……。ティアンは、なにも知らない。殺す必要がない」 「やっといた方が面倒はなくなる気がするけどな」 「そうでもない。殺しはどんな時でも目立つんだ。誰が殺されても、騒ぎになる。騒がれれば、いらないところから情報が漏れることがないとは言い切れない」 だから何も知らない人間を殺す必要はない。ダモンの期待ではなかった。それが結社で育ってきた身に染みついた考え。ましてティアンは正すべき悪徳を持った人間ではない。彼のような何も知らない善なる人を殺すのは結社の思想にないことだ。自分が監視者でもそう考える。間違いのない判断だった。 「だったらとりあえずティアンより俺たちだな。伯爵側の手のものが追いかけることはなさそうだし、あんたの方から追手がかかることもなさそうだ。だったらあとはティアンの機知に任せるかな」 「もし……ティアンが危ないと知ったら、君は?」 「後味悪いからな。全力でなんとかするしかねぇだろうが」 それだけのこと。あっさり言い放つニトロが不思議だった。たかが歴史学の徒。今は違うと思ってはいる。けれど若い一人の男でしかないニトロ。あるいは。 「もしかして君は議長の身内だとか、そういうことなのか?」 使える手段がある、それならばわからないでもない。ダモンの問いに闇の向こうでニトロが笑った。明るく、屈託のない笑い。表現は同じでも館で聞いていたのとは雲泥の差だった。 「ないない。それはない! そんなお偉いさんだったら伯爵に隠せないっての」 そもそも隠す必要もない。国王を戴かない新興国であるイーサウ自由都市連盟。いわば議長が国王にも相当するのか。任期制で交代する、というのが馴染まない考えだったが。仮にそうであるのだとすれば、国王の血縁はつまるところ王族だった。モルナリア伯爵に隠す意味がまずない。大々的に言ってまわった方が留学も有利だっただろう。 「そう、か――」 ならばニトロは何者だろう。言うつもりはなさそうなニトロ。ダモンは質問をやめる。聞かれたくないことは誰にでもある、そんなことを思った。 「君は、僕が結社の一員だと言っても驚かないでいてくれた」 「驚いてはいたぜ? 顔に出ないんだ、俺」 「訂正しようか。嫌悪を持たずにいてくれた」 「あぁ……それはないかな。生まれてそう育ってきたあんたを責める理由が俺にはない。それだけだ」 そこまで知っているのか、とダモンはそっと微笑む。親は知らない。物心ついたときには闇の手にいた。玩具代わりに武器を持った。菓子の代わりに毒を舐めた。はじめて仕事に送り出されたのは八つの年だった。そうして自分は生きてきた。 「さて、と。あんたが暗殺結社の一員だってんなら、だ。とりあえずは人目のあるところに逃げ込むか。騒ぎは起こしたくないってんだったら、町中のほうが危なくなさそうだしな」 ダモンはひやりとしたものを背筋に感じた。いまのを聞かれたかもしれない。けれど森の中にいては町中以上に危険。ニトロの提案を受け入れるしかなかった。 |