惨事があったというのに宴ははじまっていた。あるいは客はまだそれを知らないか。知らせていないのだろうモルナリア伯が大広間の中央で歓談している。 「おや――」 早くも酔いが回ったか、客の一人が遠くで揺らめいた。否、一人、二人。次第に増えて行くその数。唐突な眠りに誘われでもしたかのよう。 「なにが!」 腹を抱えて呻く客たちにモルナリア伯爵は慌てふためく。エッセルのことは既定の事実として、これ以上の悶着はごめんだった。すでに乱心者は追わせるよう、命令を出した。ほどなく出発するだろう。それほど事態を重く見てはいなかった。 けれどしかし、これは。宴で料理が悪かったのか酒のせいか。病人を出したとなればこの上ない恥だ。不可解なエッセルの死などどうでもいいほどの醜聞だ。 「誰ぞ――」 すぐさま介抱を。言いつけようとしたとき伯爵は気づく。ほぼすべての客たちが呻いていると。それどころか召使まで。これは料理でも酒でも。 「貴様!」 気づいたとき、物陰に人を見た。こちらの視線に気づいた男はするりと身をかわす。旦那様、慌てて差配を乞う家宰の声が聞こえた気がした。 モルナリア伯爵は屋敷の中を走っていた。角を曲がるたび男の姿が見え隠れ。それでいて一向に追いつけない。ぜいぜいと息を荒らげ、いつの間にか人気のない裏手まで。 「貴様、ダモン! どういうつもりだ!?」 無論、男はダモンだった。客たちの急病もダモンの仕業。宴の香りに乗せた毒薬のせい。けれどいまのダモンは手に短剣を持つ。にこりと笑って剣をモルナリアへと向けていた。 「死んでいただこうかと思って」 これ以上の名案はない、と楽しげなダモンだった。ぞくりとしたものを覚えた伯爵だったが強いて背筋を伸ばす。 「貴様は何をしているのかわかっているのか。貴様はいまは我が手のもの。契約に――」 「ご冗談を。契約はエッセル伯の死と共に解除されているでしょう? そういう契約ですから」 「な――」 そのとおりだった。確かに契約はエッセル殺害。そのために借り受けたダモンという調香師。すう、と伯爵の顔色が悪くなる。 「だから僕ははじめて自分の好きなことをしようと思って」 微笑んでダモンは伯爵に切りかかる。咄嗟に避けた伯爵は足元の危うさに舌打ちをした。剣などもう何年も持っていない。 だがダモンとて短剣など持ったのははじめてだった。掌に納まるようなものならば使ったことが何度もある。けれどこんなものはいまだかつてない。暗器以外の武器など、使ったことはない。 「なぜ――!」 「大事な友人が、はじめての友達が巻き込まれたので。あなたを殺せば追手もそれどころじゃなくなるでしょう」 たかがそれだけのことか。伯爵は言えなかった。ダモンの笑顔に恐怖を見る。背筋への悪寒が止まらない。何度も切りつけられ、いつまで避けられるかわからない。 「あなたが彼を巻き込んだりしなかったら契約は円満完了でしたよ」 腕が、熱い。思ったときには切られていた。自らの肌から滴る血に伯爵は己を見失う。奇声を上げてダモンに飛びかかったときには、彼の命は失われていた。 荒い息をついたのはダモンも同じ。気づいたときには滅多やたらに切り刻んでいた。こんな無様な仕事をしたのははじめてた。 「違う、仕事じゃ――ないんだ」 死体の前で微笑む自分は壊れているのかもしれない。それでもこれでティアンは少し、安全になる。いまだ追捕隊が出発していないのは確認済みだった。伯爵の死でそれどころではなくなるだろう。エッセル側の手のものと思ってもらえればありがたい。ダモンはそのように細工をする。とはいえ急なことだ、供から奪った紋章入りの手巾を「うっかり」落としておくのがせいぜいといったところ。 「これで」 エッセル伯爵とモルナリア伯爵が無様に殺し合った、と噂されるだけになるはずだ。真相は別にあると誰もが知りながら追及などしている暇はなくなる、二つもの伯爵位が空くのだから。それに皮肉な笑みをこぼしたとき、ダモンは急に振り返る。内心でぬかったと舌を噛む。短剣を拾ったばかりと体裁をなんとか取り繕った。 「ダモン、お前――」 ニトロだった。浅黒い顔を顰めてモルナリア伯爵を見下ろしたその目。死体に驚きもしていなかった。 「大騒ぎだけどな。どういうことだか、説明してくれるか。それとも俺も殺されるのか」 「……ずいぶん、淡々としてるんだな」 「驚いてるよ、すごく」 どこがだろう。不思議と首をかしげればいつもどおりのような気がしてしまった。温室で調香をして、そこにはティアンがいて、ニトロと喋って。いつもどおりなどではない、それこそが夢幻のように貴重なものだったというのに。そのせいか、きっとたぶん。張りつめていたものが音を立てて切れた。 「ティアンが――」 堰を切って話し出す自分を遠いもののようにダモンは感じていた。自分はこんな頼りない人間だったのか、ぼんやりと思う。それでも言葉は止まらない。とりあえずは、と死体の側から移動させられたのも覚えていなかった。 「で、あいつのために伯爵をぶちのめした、と。そんでお前はこれからどうするんだ?」 「どう……?」 意味がわからなかった。ティアンが助かる可能性を上げられた。自分の役目はここまでだ。おそらくもうすぐだろう。 「僕には、監視がついてる」 言えば怪訝そうなニトロの表情。それはそうだろうとダモンはおかしくなってくる。一介の調香師に監視を付ける人間など普通はいない。 「つーことは、と。とりあえず逃げるぞ」 「……はい?」 「死にたいのか?」 真っ直ぐに藍色の目が覗き込んできた。ティアンの目はもっと淡くて綺麗な色だった。不思議と突然ニトロの顔が歪む。歪んだのはダモンの視界だった。 「別に……。死んでもいいけれど……」 「じゃあ、ほれ。死ねよ。それが早いだろ?」 「な――」 いきなり剣を突きつけられた。どこから現れたのかと考える暇もない。まじまじと見やって、そして首を振る。死にたいわけではなかった。殺されるだろうと思っているだけ。 「自分で死にたいわけじゃねぇんだったらとにかく逃げるぜ。来いよ」 ぐい、と腕を引かれた。自分にかかわってはニトロまで危なくなる。喉まで出かかって、言えなくなった。いまニトロを失えば、自分は殺されるだろう。それでもいいと思っていた。ちらりと浮かんだティアンの顔。 「殺されれば……ティアンに殺されて、あげられない……」 物騒な呟きにニトロは耳を貸さなかった。非常に面倒なことになっているのは理解している。が、目の前で死にそうな人間を放っておくこともできかねる。 「待て」 軽い舌打ち。物陰にダモンを隠しニトロは姿を現す。向こうから走ってくる音が聞こえていた。すでに家宰と気づいている。これ幸いとニトロは慌てた素振りで駆け寄った。 「家宰殿!?」 「なんと、ニトロか。旦那様をお見かけしなかったか!?」 「いいえ――。宴を覗いていたらあんな恐ろしい……。何やらお客人の一人が帰らぬ人になったとか。こんな恐ろしいところには……申し訳ありません家宰殿。イーサウに帰らせていただきます」 「待て、ニトロ!?」 「ご心配なく、口は固いほうです。ですが、あまりに恐ろしくて……すみません」 頭を下げて速足で去って行くニトロに家宰は呆然とする。頭を振り、深い溜息を。留学生にまで見切りをつけられるとは。内心で肩を落としつつ家宰は再び主人を探しはじめた。 その家宰が消えてすぐ、ニトロは戻ってくる。陰に隠して置いたダモンはそのまま立ち尽くしていた。大丈夫かと不安になってくる。せめて自分の身を守る程度にまで回復してもらわねば手間が増えるばかりだった。見捨てる気はなかったが。 「君は――」 「なんだよ?」 「手慣れて、いるなと、思った」 不審になったのだろうダモンの言葉。まずそれにニトロは安堵する。そんなことが気になるようならしばらくすれば回復するだろう。 「小手先仕事は得意なんだよ。褒められたことでもねぇけどな」 ふん、と鼻で笑って陰から陰に。でき得る限り早急に退去したい。家宰にわざわざ臆病をさらしたのもニトロは逃げた、と証言してもらうため。さすがにイーサウに迷惑をかけるのはまずい。 「ちょっと待て。その前に仕事だ」 逃げ出す前にどうしてもこれだけはやっておかねばならないことがあった。ダモンが諾々とついてくるのをよいことに図書室へと急行する。 「ニトロ?」 幸い騒ぎのせいか司書もいない。最悪の場合には非常手段にも訴える気であったニトロはほっとしつつ書架へと向かう。 「これが目的でな」 一冊の本を手に取っては懐へ。まるで盗みのようだった。否、間違いなく窃盗ではある。けれどニトロが盗賊であるとはダモンは思わない。今更ながら不思議な男だとは思う。 「説明は後だ。逃げようぜ」 ついと引かれた腕に痛み。もしもこうして逃げるのがティアンであったなら。彼と共にであったなら。詮無いことを考えている自分を小さく嗤う。聞こえないふりをしてくれたニトロがありがたかった。 宴の客たちの急病で、召使も客の供もが大騒ぎだった。馬車を用意させて今すぐ帰る、と喚く客も大勢いる。おかげで脱出は容易い。身の回りの荷物さえ持って出る余裕があったほどだった。 「先立つものがねぇとどうにもならんからな」 「現実的なことを言うんだな」 「事実だろ?」 ぱちりと片目をつぶられた。これがティアンなら。思った自分の馬鹿らしさ。いま彼はどこを逃げているだろう。遠くへ、ずっと遠くへ。誰の手も届かない遠くに逃げてほしい。 「そこまで気にしなくてもいいとは思うけどな。森に入るぜ。足跡が気になる」 「……そんなことをしても、無駄だと思う」 「監視だっけか? こないだの広場までまず行こうぜ。そしたら話を聞かせてくれ」 わかった、と自分の声が言っていた。よもや他人に話すとは思ってもいないことを口にしようとしている自分に禁忌を感じはしなかった。 |