宴の当日がやってきた。モルナリア伯は浮き浮きと客の到着を待っている。すでに多くの客が到着していた。あとは主賓のエッセル伯を待つのみ。 「もうすぐだ……」 積年の望みがついに叶おうとしている。浮かびあがってしまう笑みを隠すのに苦労するほど。思わず手首をさすれば匂い立つ甘い香り。 ダモンが作りあげた装身具は完成を見ていた。香油を、金属に定着させる、という新しい試み。こうして体温に温められていつまでもよく香る。 「その上美しい」 くっく、と声がした。笑い声だとは思えないようなくぐもった、悪意のある響き。もしもティアンが耳にすれば愕然とすることだろう。 「閣下。エッセル伯のご到着です」 そのティアンがやってきた。家宰にでも言われたのだろう、かしこまって伯爵の元にやってくる。その身は宴に連なるに相応しく飾られていた。 「おう、それはそれは。お出迎えに――」 「いえ……すでにこちらに」 「なんと。不調法なこともあったものよ。いや、お前の咎ではないよ、バスティ」 にこりと微笑む伯爵にティアンはほっと息をつく。客の、それも主賓の出迎えをしなかった、とあってはさすがに何を言われるかわかったものではないというのに。 「お久しゅう、モルナリア伯爵」 そのせいだろうか、部屋に入って来たエッセル伯は皮肉げな表情を隠しもしない。その場にいるよう命ぜられていたティアンはひやりとする。 「ようこそお見えになった、エッセル伯。出迎えざる不調法はどうぞ許されよ」 壮年のモルナリア伯に若年のエッセル伯があしらわれた形だった。エッセルの供がわずかに不快な顔をする。そちらはティアンにも覚えがない人物だったから最近になって雇い入れた人間なのかもしれない。 ということは、とティアンは想像する。エッセル伯はエッセル伯でモルナリア伯を軽んじているのだと。近侍を連れていない事情からそれが窺えた。無論それにモルナリアも気づいていることだろう。どうなることか、と背筋が冷えて仕方ない。そんなティアンなど存在しないかのよう二人の伯爵は和やかに言葉を交わしている。 「モルナリア伯はご趣味がよろしいな。なんとも典雅な香りではありませんか」 エッセルの言葉に内心でティアンは誇らしくなる。その香りを作ったのは友人だ、と。モルナリア伯も同様だったのだろう。顔を輝かせて軽く手を持ち上げる。そこには重厚な腕輪があった。壮年の男の照りも美しいモルナリア伯にはよく似合う。 「こちらから香っているのですよ」 「なんと!」 よく見せてほしい、とエッセルが彼の手を取る。しげしげと見やり、息を吸う。確かに、と認めたのだろう。少しばかり不機嫌だ。こんなものは自分の手にはないと。それを見定めたモルナリア伯の目が輝いた。その輝きにティアンは一瞬とは言え驚く。まるで知らない男のような目をしていた。 「エッセル伯にこんな辺境まで御足労願った宴ですからな。どうぞお受け取りあれ」 鷹揚に言ってモルナリア伯は傍らに置いてあった小箱を取り上げる。そして蓋を開けてエッセル伯に差し出した。 壁際に立っていたティアンにも中身が見えた。エッセルの供にも見えたのだろう。感嘆の溜息が漏れている。無論、その腕輪自体を作ったのはダモンではない。けれどティアンにはダモンの調香と知れていた。いまはまだ香っていない腕輪であっても。どんな香りだろう、と楽しみで仕方ない。早くエッセルにつけてほしいくらいだった。 「なんと。嬉しいことを仰せだ。ありがたく頂戴することにいたしましょう」 にこりと笑ったエッセルが小箱から腕輪を取り上げる。モルナリアのものとは違い、優しい雰囲気のほっそりとした腕輪だった。若きエッセル伯にはよく似合うだろう。モルナリア伯は趣味がいい、ティアンもそう思いつつ眺めていた。 「おぉ!」 声が上がったのはエッセルの供から。主人が腕輪を嵌めた途端、柔らかに香りが漂う。事前にダモンはエッセル伯がどのような人物かモルナリア伯から聞き取りをしていたのだろう。それにしても素晴らしい、とティアンは歓喜に震えんばかりだった。溌剌とした若さと貴族らしい優雅さ。エッセル伯がおそらくはそうでありたいと望むようなミルテシア貴族の理想。そしてエッセル自身に程よく溶け合う。聞き取りだけでこれほどのものを作りあげたダモンの才能に感嘆するばかりだった。 「なんとよい香りか。――モルナリア伯のものとは、違う香りですな?」 「もちろん、もちろん。私にはもうそこまで若やいだ香りは似合いませんとも」 追従するような言葉にティアンは不意に違和感を覚える。が、他には誰も不自然とは感じていないらしい。思わず室内を眺め渡し、モルナリア伯の近侍もいないことに気づく。家宰すらいない。あるいは家宰は宴の準備に奔走しているのかもしれないが。ほんの少数の騎士がいるのみ。 なるほど、互いに軽視しあっている仲なのか。はじめてティアンにも納得がいった。道理でエッセル伯と悶着を起こした自分を宴にあえて起用するわけだと。内心での苦笑はどこにも漏れず、かえってモルナリア伯に親しみを感じたほど。 「閣下?」 腕輪に鼻を近づけて香りを堪能していたエッセル伯だった。如才なく受け答えはしていたものの、突如として言葉が止まる。それを案じての供の声。 「閣下!」 驚く供の声がティアンは耳に入っていなかった。ぎょっとするような勢いでエッセル伯がこちらを振り向いたのだから。自分など目に留まってもいないだろうと思っていたのは浅はかだったらしい。が、それにしてもおかしかった。 「エッセル伯爵閣下? いかがなさいましたか」 僭越は承知で声をかけるしかない。かえってそれがよくなかったのかもしれない。正気を失くしたようなエッセルの目。憎まれていたのかと愕然とする。それほどの目のままエッセルは供の剣を奪い取り、ティアンに向けて駆け込んだ。 「伯爵閣下、お静まりを!」 一撃は避けた。二撃目も避けた。供が立ち騒ぐ声。モルナリア伯もまた何かを言っている。事態を静めようとしているのだけは感じていた。ただすでにティアンも自身が惑乱の中にいるとは気づかぬまま。 「閣下!」 ついにティアンも剣を抜かざるを得なくなった。このままでは切られる。正気ではないからこその重い斬撃。エッセルの体のほうが持たない、ちらりとそんなことを思い、それどころではないことを思い出す。 「お静まりを!」 エッセルの供が口々に喚く。周章狼狽して立ち騒ぐばかり。常のティアンならば訝しいと感じただろうに。おろおろするばかりの邪魔な供を跳ね飛ばし、エッセルはただティアンだけを切り捨てようとする。その手から剣が抜けた。ほっとしたのは一瞬。ティアンは息を飲む間もなく飛んできた剣を払い落す。そして。 「伯爵閣下!?」 エッセルの腹に剣を突き立てたまま、ティアンは驚愕の声を上げる。己は何をしたのか。ぼんやりと霞んだような思考。うまく物が考えられない。呆然としていた。誰もがその場に立ち尽くす。どろりとした血溜まりが床を汚し、鉄錆びた臭いが立ちこめる。ダモンはいつも自分にこんな臭いを嗅いでいたのか、ふとそんなことをティアンは思った。 「乱心者めが! その者を捉えよ!」 誰のことだとティアンは見回す。乱心したエッセルは死んだ。モルナリア伯を見やればその指は確かに自分を指していた。 「え――」 いまだ掴んだままだった剣が滑り落ちそうになる。それを咄嗟に立て直し、握る手に力を入れればずるりとエッセルの腹から抜ける剣。肉のまとわりつく感触に吐き気がしてティアンは立ち直る。息を吸い、一息に駆け出す。体当たりで扉を開けて走り抜ける。 「嵌められたか!?」 なににだ。誰にだ。まったくわからない。が、モルナリア伯爵が自分を捕縛にかかることはすでに事実となっている。舌打ちをしてまだ事情を知らないのだろう召使の間を飛ぶように駆け過ぎた。 館を出た瞬間、わずかに迷う。ダモン。ここを出れば二度と会えなくなる。自分は嵌められたのだとしても罪人だ。この手がエッセルの命を奪ったことだけは事実。伯爵の手のものが生涯自分を追うだろう。そしてそれは長くはない。決心がついた。 温室に向かって走り出す。最後に一目、せめて会いたい。硝子越しにダモンを見られればそれでいい。そんなことを思った自分にちらりと笑う。それで少し余裕が戻った。 まさか温室に向かうとは誰も思っていなかったらしい。それが功を奏したか追手は撒けた様子だった。荒い息を肩でしつつ、ティアンはダモンの下へと。そして驚くべきことに。 「ティアン!」 仕事部屋の扉を開け放ち、ダモンが待っていた。必ず訪れると信じていたかのように。その蒼白な顔。ティアンは知らず見惚れる。 「逃げろ。ここに金がある。今すぐ逃げろ。いいな、なんとしても逃げ延びるんだ」 「ダモン――」 「早く行け。追手が」 ぎゅっと押しつけられた荷袋。持ち重りのするそれにティアンは顔を歪める。ダモンの心尽くしなど役に立たないだろうに。罪に落とす気ならばどんな手段を使ってでもモルナリア伯は自分を追うだろう。それがわからないダモンではないはずなのに。彼の心が痛い。同じほど、温かい。思わずうつむいたティアンの腕をダモンは取る。 「君の腕を僕はこれでも信じてる。きっと君は逃げられる」 「そんなことは――」 「いつか名を揚げた僕のところに帰って来い。必ずだ。いいな。行け!」 胸を押された。触れられたその場だけが熱い。ティアンはうなずき走り出す。だからダモンの言葉は聞こえなかった。最後に呟いた彼の言葉は。 「いつか必ず戻って、僕を殺せ」 うつむきもせず真っ直ぐとティアンの背中を見送り言った彼の言葉は。そのままダモンはじっとしていた。長い間、動きもせずに。 「……ティアン」 逃げられるだろうか、彼は。はじめからティアンに罪を着せるつもりだったモルナリア伯。エッセル伯を狂気に誘ったのはこの自分。 「ラマザ樹脂は……扱いが難しいんだ……」 毒性を完全に抜かなければ、こういうことになるから。香りと共に毒を充分に吸入したのだろうエッセル。香料そのものにもまた強い毒性を持たせたのはこの自分。その場にいなくともダモンにはなにが起こったか見当がつく。 惑乱したエッセル。間違いなくティアンに向かって行った彼。ティアン本人に聞かされるより先にエッセルとの確執を承知していたダモンだった。それをモルナリアが利用するとは思いもしなかったこの身の甘さ。 「僕は――」 ティアンを嵌めたのはこの自分。モルナリア伯に逆らわなかったのだから同罪だと思う。逃げてほしい、せめて、逃げてほしい。 「あぁ、そうか……逃げられるように、すればいいんじゃないか……」 くすりとダモンは笑う。エッセル伯爵死亡で契約は完了だ。すでに自分はモルナリアに縛られる身ではないといま気づいた。それをあちらが気づくより先に動く。決めたダモンは影に滲むよう支度をはじめた。 |