できることならば目をそらしていたくて、ダモンは好きな調香のことだけに意識を向ける。これだけは、本当に好きなことだった。そしてふと首をかしげる。 「なんだよ?」 眼差しに気づいたかティアンも首をかしげていた。相似の仕種を互いに笑いあう。こんな時間は後どれほども残っていないのだ。浮かんだ思いを強いて退けた。 「今日は怪我をしていないんだな、と思ったんだ」 「はい? 怪我……?」 「いつも君からは血の匂いがする」 愕然としたティアンだった。その表情にダモンが軽く唇を噛む。慌ててティアンは首を振った。 「違う、驚いただけだ」 「何が違うんだ」 「いや、別に。だから! 驚いただけで!」 ダモンはそれで安堵する。気味悪いと思われたような、そんな気がしてしまった自分。今更だと思うものの、ティアンにはそう思ってほしくはない。 「それにしても……」 よくぞ気づいたものだとティアンは思う。それほど酷い傷ではないはずなのだが。目の前でダモンが苦笑していた。 「僕は調香師だぞ。匂いには敏感なんだ」 「血の臭いなんか知っててもしょうがないだろうが」 「そうでもないぞ?」 ダモンの言葉が本当なのかどうか、ティアンにはわからない。ただ疑うことはしなかった。そんな思いは浮かびもしなかった。 「その……騎士たちか?」 控えめなダモンの言葉にティアンは笑う。そうすれば彼は信じてくれるだろうから。本当に、そのようなことはなかった。 けれど実際そのような気配はなかったわけではない。闇討ちに至る寸前の嫌がらせ程度ならばされている。それをかわす機知がないと流れの剣士などいくつ命があっても足りない。 「古傷でな――」 ティアンが上着の裾を捲り上げれば現れる確かに古傷。脇腹にくっきりと残った酷い傷だった。生命の危機を覚えただろうほどのそれにダモンは顔を顰める。そんな顔をしてもらえる、それがティアンには自身で驚くほどの喜びだった。 「昔な。ざっくりやられて。すぐに治療なんかできる状況でもなかったし」 なんの保護もない身だった。戦えと命ぜられて拒むことも逃げることもできなかった。結果として死体の片袖を引きちぎり、傷を縛ったままティアンは戦い続けた。 「そんな――」 「まぁ、よくあることだな。で、その日のうちに治療ができりゃまだマシだったんだけど。それもできなくってなぁ」 激戦、というより泥仕合と言った方が正しいような戦闘だった、とティアンはあの時の戦いを思い返す。仮にどれほど正々堂々とした戦争であったとしても所詮は剣士の身。やることは大差はないのだけれど。 治療もできず傷は縛り付けたまま。血止めがかろうじてかなっている、という程度でティアンは戦い続けた。傷自体の重さで死ななかったのも幸いならば、膿んだり腐ったりしなかったのも僥倖。 「剣士は……つらいものだな……」 「生きてりゃいいさ」 「そう、だな――」 生きていればいい。そう言えるだけのものは自分にはない。正しい行いをして、いつかどこかで倒れるだけ。ダモンは思う。いっそ死にたいと思うような感覚もないけれど、生きているからいいとはやはり、言えない。ただそれを人に言う気はなかった。 「傷自体はなんとか塞がったんだが……。いまでもちょっとした拍子に傷が開く。薄皮一枚だけ破れちまうんだよ」 「戦うと?」 「いいや、稽古で」 そんな、とダモンは唇の動きだけで言っていた。よほど衝撃が強かったらしい。こんな風に案じられるのは流れの剣士としてはなんという贅沢だろう。ティアンはそっと微笑む。 「俺は慣れてるし、自分の体だし。別にたいしたことじゃないんだぜ?」 「普通はたいしたことだぞ」 「と言ってもな、今更どうにもならないし。傷は塞がってるって言っただろ? 治療師に見せてももうどうにもならないんだよ」 傷を開かせないためには廃業するしかない。それをしたら飢えて死ぬ。言わなかったティアンの言葉にダモンは静かに首を振る。 「ままならないことはいくらでもあるさ」 それでも生きているから、充分だとティアンは思う。こうして少々厄介な騎士たちがいる屋敷であってもダモンという友を得ることもできた。これが楽しくなくてなんだというのか。 「で、だ。今日はほら、お館様に呼ばれていたからな。稽古をしてないんだよ、それほど。だから傷が開いてない」 血の臭いがしない原因はそれだ、とティアンは笑う。少々楽をしてしまったな、とばかりに。それが作られたものだと気づかないダモンでもなかった。 先ほどダモンに向けて言ったのは本音だった。エッセル伯とまた顔を合わせるのが、不安でないはずはない。モルナリア伯は庇ってはくれるだろうけれど、そもそも自分の存在が宴を壊すようなことになっては。案じられるのはそればかり。 「いっそ出ない方がいいんじゃないかと俺なんか思うんだけどな」 いわくつきの剣士をわざわざ使う必要などないだろうとティアンは思う。伯爵の考えは違うようだったが、雇われている身とあっては従うしかない。 「僕からは出たくないならここを発て、とは言えないぞ?」 言っているな、と思う。これが誰かの耳に入れば身の破滅。こんな形でしか助言ができないこの身を嗤う。案の定ティアンはただの冗談としか受け取ってくれなかった。 「まぁなぁ、ここはなぁ……」 「まだ他に不安が?」 「いや、その――」 「ティアン。相談には乗れないと思うけど、愚痴の相手くらいさせてほしい」 真っ直ぐな緑の目にティアンは視線をさまよわせる。そう率直になられるとよけいに言いにくくてかなわない。がりがりと頭をかきむしった挙句、やはり言わされた。 「あんたっていう、珍しくできた友達がいる。だから退去する気は今んとこはねぇよ」 ぶっきらぼうな言葉。そっぽを向いたまま投げた言葉。ダモンの返事はない。横目で見やってティアンは内心で息を飲む。息をすることも忘れた、と言った方が正しい。それほど胸を突かれる顔をダモンはしていた。 「友達、か――」 なんとも言い難い顔をしてうつむいたダモンにかける言葉がなかった。友と言われて気分を損ねたのでないことだけは確信していたけれど。 「そうか、それでいつも血の匂いがしてたんだな」 強引に話を戻したダモンだった。話の接ぎ穂もなにもあったものではない。それにティアンが気づかないはずもなく、けれどただ笑ってそこにいた。それにほっとする彼の顔が見たかった。 「嫌な臭いだろ。悪かったな。敏感だっていうなら鼻についただろうが」 「いや? 君の匂い、として覚えてたからな」 「な――!」 悲鳴じみた声を上げ、ティアンは腰を浮かせる。怪訝そうなダモンの表情に、彼は妙なことを言ったつもりはないのだと知る。それにすとん、と腰が落ちては元通り。 「臭いで人を覚えてるって、お前は犬か!」 「どうかな? 実際、犬と競争ができるような気がしないでもない」 嘯いたけれどただの冗談口ではある。ダモンの知人には本当に犬と競って勝つ男がいる。自分はそこまでではない。ティアンには想像もつかない世界だろうな、ふとそんなことを思った。 「人間やめるなよ」 呆れ声の、けれど他意はないティアンの言葉。ダモンを撃つ。撃たれたダモンはしかし笑っている。確かに自分は人間ではない、そんな風にも思っていたせい。 「でも血の匂いがしないと、はっきり君の匂いがわかるな」 「やめろ、恥ずかしい」 「そうか?」 「そうだろうが!? 今度から水浴びしてから来るかな」 「そうすると僕は水浴びをしてきた匂い、というのがわかるわけだが」 「そっちもか!」 「意外と水の匂いっていうのははっきりわかるものだぞ」 俺にはわからん。きっぱりと言ってティアンは楽しげに笑っていた。こうしてここで友人とすごす一時。それがこんなにもくつろぐものだとティアンはいままで知らなかった。モルナリア伯に雇われてこれだけは無条件でよかったと思えること。 「お前にわからない匂いってなんだ?」 「知らない匂い、かな?」 「無茶苦茶言ってるな」 事実だ、ダモンは言い放つ。調香などしていれば当然のことでもあった。それだけにこの鼻を使っていられれば、ちらりと思って振り払う。 「たとえばな、君が野原で昼寝をしたとする。僕はそこにあった草の名を言えると思うよ」 言えば感嘆の眼差し。そんな顔で見ないでほしかった。見ていたかった。どうにもならなくて、どうにかしたい気持ちだけが募って。ダモンはただ微笑む。 「そんなすごい技があってな、お前はなんでお抱え調香師なんだよ」 「はい?」 「ここに来てから覚えたわけじゃないんだろ? そりゃそうだよな。珍しい技術だし。だったら」 「あぁ、技を習い覚えたあと、なんでお館様に仕えることになったのか、か?」 「というより、自立して店でも持とうって気はなかったのか?」 仮にあったとしても持てなかった。そしてそんな意志はなかった。不意に思う。いつからだろうと、こんな風に自分の意志を持ちはじめたのは。ダモンは自らの心の内を窺う。答えは目の前に。ティアンからそっと目をそらした。 「持てたらいいな、といまは思うよ」 「きっと人気の店になるだろ。いい匂いだもんな」 「思いっきり売れっ子になってやるか。そうしたら」 「なんだよ?」 「用心棒がいるほど儲けてやろう。それで君を雇うんだ。どうだ?」 「いいな、それ。乗った!」 あの日の再現のような無駄話。実現しないとどちらもが知っている。実現させたい気持ちがあったのは、ティアンだけ。ダモンに望みなど端からない。そんなものを持てる身ではないと弁えている。 弁えているはずなのに。もしもそうなったらどれほど楽しいだろう。思ってしまった。好きな調香をして、隣にはティアンがいて。もしもそうなれば、どんなに。 ゆっくりと互いの目を見かわす。ただそれだけ。改めて実現させたいな、とはどちらもが言わなかった。 |