ダモンが呼び出されて執務室に入ったのはいま正にティアンが席を立たなんとしているときだった。そのことに内心ではぎょっとしつつダモンの表情は動かない。 「失礼いたしました」 早すぎたのは自分である。そんなダモンの言葉に伯爵がにこりと笑う。ぞっとしていた。振り返ったティアンが微笑みかけてもダモンは知らぬ顔。彼の表情が強張ったけれど、いまはそうするしかない。既知の人間として軽く目礼をするに留めた。 「座るがいい」 ティアンが出て行ってからだった、伯爵の様子が変わったのは。これが本来の伯爵だと知っているダモンは動じない。淡々と示されたままに従う。 「あの男とは親しい様子だったが」 「それほどでも」 「温室に頻繁に出入りしている、と聞いている」 「出入りだけならばニトロ殿も。同年代の他者と大差はない程度かと」 不自然な言いぶりだとは思う。が、伯爵がティアンの言動を知っているのならば隠し立てはよけいに彼のためにならない。案の定、伯爵はにんまりと唇を歪める。 「――なるほど。あれには使い出が出てきた」 舌なめずりもしていないのに、そんな印象のある伯爵の顔。蛇のようだ、とダモンは思う。背筋に怖気が走り、そんなことのできる自分ではないかと吐息を漏らす。 「さようですか」 温室にいるのとは別人のようなダモンだった。楽しげに煌めく緑の目もいまは光を失って真っ直ぐと前を見るのみ。伯爵はそれこそをよしとするようまだ笑っていた。 「実験のほうは」 「いまだ成功ならず、というところかと」 「――時がないぞ」 わかってはいるが、ならば失敗作でかまわないのか。そんな問いを目に浮かべたダモンに伯爵は舌打ちをする。限られた人だけが知る、これがモルナリア伯の実情だった。 「宴はなんとしても『成功』させねばならん」 心得ている、黙ってうなずくダモンを伯爵は見てもいなかった。彼には望みがある。エッセル伯を追い落とし、自分こそがミルテシア中枢に食い込むという夢が。 同じ伯爵位をいただく身ではあった。けれどエッセルは狭くとも王都に近い領地を持っている。このような辺境ではなく。それがモルナリア伯にはたまらない屈辱だった。 「我が家はかつての大討伐に多大なる武勲あった家柄よ。あのような軟弱者とは違うのだ、軟弱者とは」 いつの話だと思っているのだろう。かつてシャルマークに大穴なる魔所があった当時のことだった。しかもそれができた当時の。魔物が両腕山脈からあふれ出てきた遥かなる昔の話。今となっては炉辺の昔話だ。が、それを誇りとするのも貴族だからこそ。 両腕を振りまわし、モルナリア伯は先祖の武勇を得々として語る。お前の功ではないだろう。ダモンは思っていても言わない。うなずくでもなくただそこにいる。 「よって私がこんな身に甘んじているのは間違っているのだ。我こそはミルテシアの高みを目指すに相応しい」 簒奪の宣言か、それは。さすがにそうとられかねないことに気づいたのだろう伯爵が咳払いをした。ダモンにはどうでもいいことだったのだけれど。 「お前は何者だ? お前を借り出している意味をとくと知るがいい。下がれ!」 は、と頭だけを下げてダモンは立ち上がる。敬意も見せない調香師に伯爵は舌打ちを隠さない。それでも伯爵はダモンを殴ることもできなかった。彼は自分の意のままにできる臣下ではない。 「万が一にも成功ならなかった場合にはお前なんぞ獣の餌にしてくれる」 「――我が手がどこから伸びるものか、よくよくお心得あるべきでしょう。我が身はこの身一つにあらねば」 静かに言い放ったダモンに伯爵は顎を上げた。仰け反ったのだ、とはついぞ気づかぬままに。それが恐怖だとは知りもせぬままに。 無言で退室すれば、室外には衛兵ではなく家宰が立っていた。それだけ伯爵が激昂する可能性、衛兵に声が届く可能性を家宰は危惧していたと見える。それもダモンが出てくるなり飛びのくようにして退いた。そちらに一瞥も与えずダモンは歩み去る。いずれ家宰がここにいるということは他人の目を気にする必要はない。 真っ直ぐと温室に戻りながらダモンの心のうちは荒れていた。早々にティアンに退去を勧めるべきだった。今となっては遅すぎる。 どうにもならなかった。なんとかしたい思いだけはあるけれど、力が足りない。何もかもが足らない。一番足らないのは無謀な勇気かもしれない、ダモンは自嘲する。 温室に戻って命ぜられた仕事に励んだ。とにもかくにも成功させなければならないのは決まっている。万が一失敗などと言うことになったならば。思っただけでぞっとした。知らず喉元に指が伸びる。ひどく涼しかった。 ちらりと見やった先にはあの時の花。ティアンが気に入っていたからつい、ここの分を確保してしまった愚かしさ。 「僕は……馬鹿だ」 伯爵がそれと気づいていないはずはない。だからこそ、ティアンを使う気でいるのだろうから。それを避け得る手立てがないことがこんなにも。 「いっそ」 この手ですべての決着をつけようか。少なくともそうすればティアンは安全。否、安全でなどあるはずはない。結局ティアンも伯爵の手のうちにあるに変わりはないのだから。 「どうにもならない」 どうにかはしたいと足掻いてはいた。それでもティアンが毎晩のようにここに来て一時話していく。その誘惑に勝てなかった。その結果がいまだった。 「……ダモン?」 だから、こういうことになる。あれほど冷たくあしらわれたというのにティアンはやはり今夜も温室を訪れる。恐る恐る、機嫌を窺うようなその顔。それでもダモンのいつもどおりの表情を認めたのだろう、ほっとくつろぐ。内心でダモンは苦々しい。瞥見しただけのつもりだった。普段とは態度を変えたはずだった。それなのに。 「お前でもあんな顔するんだな」 「……どんな顔だ」 「昼間さ。お館様に呼ばれて緊張してたのか?」 ただそれだけのことだったのだろうから気にしてはいないよ。言外に伝えてくるティアンに歓喜と謝罪、どちらを伝えたらいいのだろう。どちらをも伝えられないものだったけれど。 「もう、聞いたか?」 宴の用事だったのだろうとティアンは疑っていなかったらしい。確かに宴の用事ではあるな、とダモンはうなずく。 「少し、俺も緊張してる」 「なにもはじめての宴ってわけでもないだろう?」 「ちょっとな……。主賓と訳ありで」 苦く笑ったティアンに背筋がぴりりと痺れた。また一つ、退路を断たれた。自分と親しくしているからこそティアンを使う、あの時の伯爵の言葉はそういう意味だった。けれど伯爵が示唆したのは別件。気づきもしなかった自分に愕然とするダモンの前、ティアンが天井を仰いでいた。 「エッセル伯のご当主と昔な、やり合っちまって」 「はい?」 「前のご当主に可愛がられたんだけどな。代替わりでぼろくそに言われて危うく剣を抜きかけた」 「おい!」 「いや、さすがに自重はしたけど。柄に手をかけたのは事実だ。――それを向こうは忘れてないだろうよ」 それが貴族だろう、ティアンは諦めきったような顔をしていた。それでも伯爵は言っていた、と信じる気持ちがある。若気の至りをエッセル伯は悔いている、そう言っていたと。 「宴が失敗して俺のせいってのは、ちょっと避けたい」 真剣なティアンに事情を話せたならば楽になれる。楽になった結果、すべてから楽になるだろうが。それでは意味がない。最後まで足掻けるだけ足掻きたい。それをティアンは望まないだろうとも思いつつ。 「僕も新しい調香を命ぜられてる。主賓に気分良くなっていただけるよう、手を尽くすさ」 「ご機嫌麗しくしていただけるとありがたいんだがな」 「任せろ」 笑ってみせた。本当は今すぐ逃げろと言いたい。本当は、喉までその言葉がせり上がってきた。その一瞬をつくよう現れた影。 「失礼いたしやす」 みすぼらしい身なりの男だった。驚いたのだろうティアンが半ば腰を浮かせて剣を抜きかけた。それを軽く手で制せば恥ずかしそうに頬を染める。 「すまん、過敏になってたらしい」 気にするな、とダモンは笑った。男は腰を抜かしそうなのだろう、硬直して震えだしている。そちらにもティアンは率直に詫びていた。 「原料を納めてもらっている人だ。君は会ったことなかったか?」 あるはずはない。この男はいつも人気がないときを見計らってここに来る。だからこそ、男が現れた意味をダモンは悟る。 逃げられない、逃がせない。 「へい、旦那にはよくしていただいて……」 「よくしているのは僕じゃない、モルナリア伯爵閣下だよ」 「ですがお目にかかってるのは旦那でやすし」 照れ笑いの男が籠を突き出す。持ってくるものはいつも本当に香油のための原料だ。しかも品質までいいと来ているのだから、よけいに逃げ場がなくなった気分。追い詰められた獣の気分とはこのようなものか。正しいことをしているはずなのに。 「旦那もいつもこんな遅くまでご精が出るこって。なんぞありましたらどうぞお申し付けを。誰ぞがすぐ走ってまいりますんで」 「あぁ、ありがとう」 監視している、とはっきり言われた。ダモンは苦笑して小銭を握らせてやる。原料を届けに来た男に小遣いをやるように。ただそれだけに過ぎないのだと。 「ふぅん、色々いるんだな」 男が去ってからティアンが籠の中を覗いている。こんなときのためにこそ、籠の中身はただの原料。それ以外には何も入っていない。 「当たり前だ。一つの香油に何種類の原料が必要だと思ってるんだ、君は」 「だって薔薇の香油、とか言うだろうが」 「薔薇の香油を薔薇だけで作る馬鹿はいないぞ?」 「知るか!」 ただの調香師としてあれたならば、どんなに。自分の背後に伸びている手。自分から伸びている手。闇に行き来するそれから今だけとばかりダモンは目を閉ざす。 |