夢のあとさき

 数日後、伯爵の執務室にティアンは呼ばれた。何事だろうと訝しい。そんな不遜なことを考えるのも気がかりがあるせい。
 あの日のダモンの態度が気になって仕方なかった。何よりなぜあんな話題を、と思うと首をかしげるばかり。むしろ苛立つ、と言った方が正しいような気もしている。
「俺は――」
 思わず呟いてしまって辺りを窺う。幸い騎士たちも召使もいなかった。ほっとしつつ廊下を歩き、ティアンは思い起こす。
 ダモンは、君はいずれここを離れるだろうと言った。確かにそれは間違ってはいないだろう。ティアンは伯爵家中の人間ではない。寵愛を受けている流れ者、というのが表現としては正確だ。
 だからこそ、伯爵の寵が薄くなればティアンはここを去ることになる。それが自分の意志か伯爵の意志になるのかはまだわからない。ただ、今のところ自分で去るつもりはまだなかった。ここには友人がいる。
 流れ歩いているからこそ、貴重な友人が。いっそダモンが伯爵家を離れられればいいのだが。詮無いことを思う。しかも勝手に過ぎるだろう。家中に入れば、それは身分の保証が得られるということでもあるのだから。たかが友情のために後ろ盾のすべてを失くしてくれとは言えない。
 そして息を飲む。そう言ってしまいたい気持ちがあるのだと。信じがたかった。自分で自分が信じられなかった。けれど確かに自分はそう感じている。
 もしも。ティアンは夢想する。どこか遠くで、後ろ盾などなくてもいいような何かができれば。たとえばダモンが香油の店を持つ。自分はそこの用心棒でもする。どんなに楽しいだろう。
「馬鹿か、俺は」
 できるはずはない。そもそも香油の店に用心棒は要らないだろう。そうであればどれほど日々が明るいだろうか。他愛ない夢に過ぎない。目覚めたまま見る、ただの夢だ。
 不意にニトロを思う。もしも彼が故郷に帰ってそれなりの地位につけば。ダモンを招くことが彼にはできるのではないだろうか。王も貴族すらもいないというイーサウ。あの国でなら、ダモンは自分の好きな店を持つことも可能なのかもしれない。
 時折見せる影が気になっていないわけではなかった。ダモンの目に表れる一瞬の目の惑いのような影。何度かは気のせいだと思っていたが、何度も繰り返されれば気のせいで済ませるわけにもいかない。
 言ってくれれば、と思う。相談に乗れるようなことではないのかもしれないが。自分は頼りない流れの身に過ぎないのだから。
 せめて、友人の力になれるくらいには、力が欲しいものだとティアンは思う。ならば何ができるのかと言われても、たぶんきっとなにもできないままなのだろうけれど。それだけ身分というものは重い。それがないティアンは身軽なぶん、こんなときにはやるせなさを痛感するばかり。
 あの日の花はいまもまだ温室に咲いているだろうか。伯爵のご用が済んだら訪れてみようかとティアンは思う。
 伯爵のために、と摘んだ一束の花。大事に持って帰ってきたはずなのにダモンは肩を落とす。それから溜息をついて幾本かを抜き出した。
「どうした?」
「花の付きが悪いな。これではお館様の部屋には飾れない」
 気づかなかったとは忌々しい、そう言わんばかりのダモンだったが、ニトロはなぜか笑いを噛み殺している。思わず首をかしげればこらえきれなくなったニトロだった。
「ダモン、わざとらしいぜ」
「なんのことだ?」
 にやりとするから、ニトロの指摘通りなのだろう。ティアンは瞬くばかり。朝が早すぎて思考のめぐりが遅い、というわけでもないだろうに。
「バスティ、気に入ったんだろ、この花?」
「あぁ、まぁ……。まぁ……、まぁ? あ……」
「鈍い野郎もいたもんだ」
「ニトロ、誤解を招くような表現はやめてもらいたい。これはお館様のために摘んできたんだからな」
 へいへい。と投げやりな返答をしたニトロ。ティアンはまじまじとダモンを見ていた。
 気に入った花だから、少し余分に摘んでくれた。わざわざ言い訳まで作って。何を言っていいかわからない。ただ、口許が緩んで仕方ない。
「お館様には差し上げられないからな。これは温室に飾ることにするよ」
 だから好きなときに見に来い、言われているような気がした。横目で見やればそっぽを向いたダモン。処置なし、とニトロが肩をすくめていた。
 そんな楽しいこともあるこの生活。少々の不都合などどこにでもある。友人がいて、たまに楽しいこともある現在がティアンは好きだった。ずっと続けばいいのにと思うほどに。
「失礼いたします」
 執務室の前に到着したときにはすでに思いは振り切り、いつものティアンに戻っていた。衛士が黙って扉を開けてくれる。すでに伯爵に通達を受けているのだろう。
「あぁ、よく来てくれたな。バスティ」
 貴族らしい鷹揚さがありつつも威厳を失わないモルナリア伯。それでいて稚気のある笑みを見せたりもする。騎士たちとはうまく行かないけれど、それはどこでも同じこと。ここは伯爵がこれだというのにいささか騎士隊は険があり過ぎるのだが。それも伯爵が優しすぎるからなのではないかとティアンは思う。嫌いではないな、と内心で苦笑していた。
「とんでもない」
 頭を下げれば気安く茶まで用意してくれていた。剣士にここまでしてくれる貴族はそうはいない。それだけでモルナリア伯の人間の出来がわかるというもの。
「頼みがあってね」
 ひとしきり茶を飲んだ後のことだった。ティアンとしては本題に入ってくれてほっとしている。心遣いはありがたいけれど、伯爵と差し向かいで茶を飲んでも味などさっぱりわからない。
「まだ先の話にはなるが、大きな宴を催すことになった」
「お祝い申し上げます」
「なんの、まだ成功と決まったものでもない」
 言いつつ満更でもなさそうな伯爵だった。ティアンとしては話の成り行きがわかって安心していた。宴とあって呼ばれたのならば話題は一つだ。
「お前には剣舞の披露を頼みたい」
 改めて言われてティアンは訝しくなる。そのためにこそ、自分は伯爵に抱えられているのではないのか。その表情を見てとった伯爵が眉を下げては申し訳なさそうな顔をした。不意に嫌な予感がする。
「主賓にお招きするのは――エッセル伯の若きご当主なのだが」
 顔色が変わるのを止められなかった。それに伯爵は視線を外してくれる。見ないふりをする、ということだろう。ティアンはそちらには安堵したものの、主賓のほうにはまったく安心できない。
「お前がエッセル伯のところにいたのは聞いているが……」
 流れ歩いているティアンだ。自分の経歴を吹聴することはないものの、さすがに伯爵には正確に申し出てある。良いことも、悪いことも。
 エッセル伯の側に置かれていたことを覚えているのならば、モルナリア伯は知っているはずだった。先代当主の側に置かれていたティアン。代替わりと共に手酷い侮辱を受けて現当主に放り出されたと。
「私は、身分のない剣士にすぎませんので」
 抑えかねる思いにかすかに声が震えた。元々エッセル伯に恨みはない。そんなものだと思ってはいる。それでも再会を喜べるかと言われれば否と答えるしかないだろう。
「だが今は私の手元にお前はいるのだ。心配は要らんよ、バスティ」
「ですが、閣下。私の存在が宴に水を差すことにもなりかねません」
「それも心配しないでいい。すでにエッセル伯にはお話してある。当時の自分はいかにも若かった、と赤くなっておいでだったよ」
 悔いるというのか、あのエッセル伯が。なんの冗談だとティアンは思う。出来が悪すぎて笑えない。あり得ない事態だとすら思う。
「舞ってくれるかね?」
 だがしかし、いまはモルナリア伯の下にいる身だった。否やはない。わざわざ直接エッセル伯のことを教えてくれた伯爵だった。家中の誰ぞに言わせればよいこと、しかも宴に召すの一言で充分な人。ティアンは恭しく頭を下げる。
「喜んで」
 先代エッセル伯がこのような人だった、と懐かしく思い出す。あの老伯爵は貴族とは思えないほど朗らかな気のいいお爺様だった。白くなったひげをしごいては自分の剣を楽しそうに見ていたのを思い出す。
「先のエッセル伯には可愛がられていたのかね?」
「私の口から申すのははばかられますが――立派な方でした。お優しくもあられました」
「見習いたいね、私も」
 にこりとする伯爵にティアンは顔を赤らめる。これではお前はまだ至らないと言ったように聞こえしまったのではないだろうか。が、伯爵は気にした風もなかった。
「私も上を望む気がないわけではないが、先のエッセル伯のよう、みなから心よりの敬意を持たれる。そんな人間でありたいものだと思っている」
 モルナリア伯ならばなれるだろう。ティアンは思う。そうなってくれたならば、自分はここに留まるだろうか。留まれるだろうか。
「働きを期待しているよ、バスティ」
 まるで成果次第では家中に取り立ててもよい、そう言っているかのような伯爵だった。ティアンはぱっと頬に熱が差すのを感じる。思うのは、ダモンのこと。友人とまだ共にあれるかもしれない。
 しばらくそれから宴のことなどを聞かされた。どんな宴にしたいのか、伯爵の心積もりを知っておけば剣舞の内容もそれに沿わせることができる。明るい宴にしたいのに重々しい剣舞は似合わない。
 モルナリア伯には、ティアンに対して口にしたのとは裏腹の強烈な意思があった。上を望む、その意思が。だからこそ、なんとしてもエッセル伯を主賓に据えた宴は成功させなければらない。あらゆる意味で失敗はできない。ここが人生の岐路だとすら、思っている。だからこそ、ティアンに対しても細々とした注意を怠らなかった。
「そうそう、ニトロとは仲直りをしたのかね。あまり無茶をしてくれるなよ」
 喧嘩をした覚えなどなかったが、先日の立ち合いのことだろう。伯爵の中ではティアンが悪者になってしまっているらしい。それは訂正したいが、口答えはしかねる。なんとも微妙な表情の彼に伯爵が大きく笑った。
「冗談だ。ニトロはあれからわざわざ私のところに来てお前を褒めていたよ。実戦的で素晴らしい剣なのにもったいないとまで言っていた」
「ありがたいことです」
「そう固くなるものではないぞ」
 からからと笑う伯爵だったがティアンは内心で首をかしげるばかり。ニトロに褒められた意味がいま一歩飲み込めなかった。ただありがたく受け取ればいいのだと気づいたのはしばらく後のこと。そんな自分に苦笑しつつ。




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