夢のあとさき

 たっぷりと三袋分の花が摘み終わっていた。伯爵の慰めに、と摘んだ一束は切り口を濡らした綿で包んで籠に放り込んである。ずいぶんな成果だった。
「朝食にしよう。よく働いたら空腹だよ!」
 晴れやかにダモンが言うのも当然だった。まだ早朝だというのに額には汗まで浮かんでいる。それほどの成果が上がっていたのだから。
「いくら喋りながらとはいえ、けっこう疲れたな」
「花摘みっていうのは意外と体力がいるんだ。屈んで伸びて、の繰り返しだろう?」
 ティアンに言うダモンも屈託がない。こうして半ば仕事とはいえ外出している気安さか、普段よりくつろいで見えるダモンだった。
「ダモン、いいのか?」
 まるで早く帰らねばならないだろうと言うようなニトロの言葉にティアンははっきりと顔を顰めた。せっかくいい気分でいるものをと。それに彼が苦笑するに至って顔に出ていたと気づく始末。さすがにばつが悪くなって咳払いをした。
「いいんだ。不思議とこの花は少し寝かしたほうがよい香りが取れるんだ」
「ダモン?」
「ニトロは心配してくれたんだよ。――普通は摘んですぐに蒸留器にかけないと香りが飛んでしまう。だからな」
 なるほど、と思ってティアンは恥ずかしくなる。それにニトロがぱちりと片目をつぶった。
「それにしてもニトロでも知らないことがあるんだな」
 明るい空き地は絶好の食事場所だった。まるで三人で遊びに出てきているかのよう。簡単なものだけれど、とダモンが用意してくれた朝食も殊の外にうまい。
「そりゃあるに決まってる」
 明るく笑うニトロにどうしてだろう、ティアンは苦々しさを聞いた気がした。まるで知らないことが忌々しいというような。それだけ熱心に学問の道を志しているのかと思えば微笑ましい気もした。
「そこに薄荷草があるな。どうよ?」
 ダモンが用意したのは朝食だけではなかった。まだ充分に温かい茶まで彼は持ってきている。具を挟んだだけのパンでは喉の通りが悪いだろう、そう言って笑う彼の用意のよさにティアンは呆れながらも笑っていた。
「あぁ、いいな。摘んでもらえるか」
「あいよ。少しでいいよな」
 小さな葉を六枚ばかり摘んだニトロだった。受け取ったダモンがそれぞれのカップに二枚ずつ、押し潰すようにして入れて行く。温かい茶に爽やかな芳香が加わった。
「あ――。この匂いは知ってるな」
「バスティには馴染み深い匂いでもあるんじゃないか?」
「やめろ、体が痛くなる!」
 からかうニトロにティアンは声を荒らげる。薄荷草、と言っていたこの香りは確かに打ち身の軟膏によく使われている匂いでもあった。
「軟膏の匂いのする葉っぱってのも、不思議なもんだな……」
「逆だ逆。すーっとするだろうが? だから軟膏に入れるんだ、わざわざ」
「あ……」
 ぽかんとしたティアンをくすくすとダモンが笑った。ニトロの言う通りだ、とうなずきつつ慰めてくれているのだろう。膝のあたりを叩いてくれる。それが妙に気恥ずかしい。
「植物学が好きだとは言ってたけれど、薬草師も兼業できるんじゃないのか、君は」
「できなくはない程度にゃ知ってる、かなぁ? でもそっちの道は行かないな、たぶん」
 強烈な自負だった。ティアンですら惚れ惚れとするほどの。薬草師として身を立てることができる、と彼は言い放つ。否、言い放ったなど思っていないだろう。ニトロは事実を言っただけだ、たぶん。それだけ彼が己の道にかける熱意の高さを思う。
「イーサウは、不思議なところだな」
 飲み込みにくいパンにとんとん、とダモンが胸元を叩いていた。あまり気にしていないらしいけれどニトロは思う。伯爵は騎士でもない家中の者にはあまりよい待遇をしていないらしいと。一応はイーサウ議長直々の留学生であるニトロだ、これほど飲み込みにくいパンはここに来てはじめてだった。
「そうか?」
 けれどそれを言っても仕方のないことだった。所詮は自分は一時、伯爵に身を預けているに過ぎない。いずれ遠からず本来の場所に戻る。伯爵家中のことに口出しできる立場ではない。
「君が博学なだけかもしれないけれど」
「博学だけならまだしも剣まで使うと来てる。たまったもんじゃないな」
「使うってほど使えないっての」
 口々に言う二人にぼやきつつニトロは困惑していた。ティアンはともかく、ダモンの意図が読めない。何かを尋ねたそうにしている彼だというのに、質問が読みきれなかった。
「イーサウでは君みたいな人が大勢いるのか?」
 いたらこの世の終わりだ、隣でティアンが茶々を入れる。それに苦笑しつつダモンの眼差しは真剣だった。内心で首をかしげながらニトロは誠実に答えることに決める。
「大勢は、いない、かな? ダモンが聞きたいのはあれか? みんな勉強できるのかってことか?」
「あぁ、そうだな。たぶん、それが聞きたいのかもしれない」
 ならば違うのだ、とニトロは確信する。ぬかったか、と思いつつ当面の話題に意識を戻した。心の中ではこういう腹の探り合いのようなことは向いていないのだと文句を言いつつ。
「イーサウの成り立ちは? なら、話は早い。元々商売人ばっかりだったわけだからな。一番最初にできたのは読み書き勘定を教える学校だったらしい」
 商いをするのにそれができなくては大きな仕事はできない、そう商人の子供たちを集めて教えたのが最初だったとニトロは言う。
「次にできたのが兵学校」
「兵学校?」
「おうよ。読み書き勘定は基本として、武器防具の扱い、体の扱い、そんなものを教える学校だな」
 そんなものがあるのか、とティアンは感動すらしていた。自分たちは自己流で剣を覚えて行く。実際問題として、ティアンはいまだに読み書きが怪しい。さほど必要がなかったからだとも言えるし、その知識がなかったから流れの剣士のままなのだとも言えた。
「最後にできたのが……ミルテシアの人に言うとちょっとあれかな?」
 それで悟ったのだろうダモンだった。その表情を見てティアンも気づく。が、二人とも嫌悪は見せなかった。イーサウの住人であるニトロを前にしているから、というより魔法というものがあまりに遠いせいかもしれない。
「魔法の、学校か?」
 ニトロに気を使わせることのないよう、ダモンから口にすればにこりと微笑むニトロだった。なぜかティアンがあおるように茶を飲んでいて、自分の行為に驚いたのだろう、首をかしげているのを二人で笑う。
「そのとおり、魔法学院だ。基本事項に加えて、こっちは魔法の勉強だな」
「そんなに魔術師が多いのものなのか、イーサウは?」
「あぁ、そりゃ誤解だな。学院を出ても魔術師になるのは一握り……も、いないかな? たいていは学問として勉強するんだ。だいたいその三つが大きな学校で、あとはちまちまと個人がやってたり、色々。確かに勉強できる環境はいくらでもあるな」
 改めて自分の環境を思うのだろう、うなずくニトロだった。それほど彼は恵まれている。ティアンはそう思う。勉学に励むことができるとはミルテシアではほぼ貴族の特権だ。
「ということは……その、兵学校だったか。そこを出た人たちは」
「ご想像どおりってやつ? 自衛軍に入るよ。言ってみりゃ兵学校は予備隊だしな」
 さすがに子供を戦場には出さないが、とニトロは笑う。万が一の際には兵学校からも人が出ることがある、と彼は言う。
「あったのか、そんなことが?」
「俺はらしいってしか知らないよ。魔物の大規模侵攻の時なんかは人手が足らないことがあったらしいって聞いてる。未熟でも後方支援なら充分だ、なんて聞いたな」
 ダモンには納得できる答えだったようだ。が、逆にティアンは訝しい。ニトロは知らないふりをしている、そんな気がしてならない。あえて戦場に出たことはないふりをする理由はなんだろうと。それを問い質すほど彼を疑ってはいなかったし、親しくもなかった。
「そこは、子供しか入れないのか?」
「ダモン? まさか入りたいとか……あぁよかった。いや、子供ばっかりってこともないかな。たまにイーサウに移住してくる人が自衛の剣を習いたいとかって入ることもあるって聞いてるよ」
「そう、か……」
 ふと静かになったダモンの横顔。ティアンは不安げにそれを見ていた。彼が気づいては視線を合わせてくるまで、ただじっと。それから慌てて咳払いをした。
「別に、なにがどうというわけじゃないんだが……。たとえばティアンならどうなんだろうと思ったんだ」
 ニトロは軽く微笑んでそれを聞いていた。核心はここだと、確信がある。もっとも、理由のほうはさっぱりだったが。
「待て、ダモン。どういう意味だ!」
「別にどうもこうもない。ただの興味」
「だが――」
「ま、興味ならそれでいいんじゃないのか? バスティだったら習いに入るってより、教官役ができるんじゃね?」
「外国人だぞ」
「イーサウに移住すればって話。腕は立つし真面目だし」
 なんだったら議長経由で推挙してやろう。笑いながら言いつつニトロは内心で彼らをじっと観察していた。
 ダモンがティアンを遠ざけようとしている、そんな気がしたせい。実に仲のいい友人同士に見えていたのだが、違うのか。否、友人だからこそなのか。
「だったらついでだ、調香師の仕事の口も探してくれよ。だったら喜んで教官でもなんでもやらしてもらうっつーの」
「僕は――」
「戯言だろ? どうせそうはならない、ただの話だ」
「君は、いずれ伯爵家を離れるだろうが。その時に役に立つ話だとは思うよ」
 でも僕は。小声でダモンが呟いた。ティアンは気づかなかったふりをするらしい。それにニトロは顔を顰める。顰められてティアンは訝しい。どうしろというのか。そもそも、どうしたらいいのか。何を言えばいいのか。そして気づく。どうにかしたい気持ちはあるのだと。
「もう一杯分くらいずつ、あるかな。冷めてしまっているかもしれないけど。ニトロ、薄荷草を採ってくれるか」
 一人で振り切るように笑みを浮かべたダモンだった。




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