夢のあとさき

 夜明け前。最も暗い闇の中、ティアンの持つ角灯の明かりだけがぼんやりと灯っている。ニトロは遅れてしまったか、と小走りにそこへと駆けつけた。
「すまん、遅くなったか?」
「いいや。ちょうど僕らも来たところだ」
 それはよかった。笑うニトロにティアンはやはり訝しさを隠せない。何かを隠されているような、ニトロはニトロではないような。うまくは言えなかった。ただの嫉妬の可能性をダモンに指摘されてしまった今となってはよけいに。
「行こうか」
 言って彼らを促す。心得た門番はゆっくりと門を開けてくれた。まだまだ早いというもおろかな時間だ。響く音を憚ったのだろう。
「こういうところが躾が行き届いているって思うところだな」
 感心するニトロだった。実のところティアンも同感だ。たかが門番とはいえ、客にとって一番最初に目にする館の家臣だ。門番の目端が利くかどうかで主人の器量もある程度計れるというもの。
「こっちだ」
 ダモンの案内だった。彼はもう何度となく通っている道なのだろう。闇の中というのに遅滞がない。かえってティアンのほうが危ないくらいだ。
「ダモンは夜目が利くんだな」
 ニトロの言葉にティアンは改めてそうだ、と気づく。身体の鍛錬を積んだ自分でも危ない道だというのにダモンの足取りは淀みがない。
「慣れだと思うよ」
 それをあっさりといなしたダモンだった。ふとティアンは顔を顰め、闇の中であることに感謝する。ダモンが何かを隠した気がしてしまった。
 自分はこれほどまでに疑い深い人間だっただろうか。曲がり角からは化け物が飛び出てくるに決まっていると怯える子供と同じではないか、これでは。
「ティアン? どうした」
「いや。なんでもない。なんの花だって言ってたかな、と思ってたんだ」
「君に言ってわかるのか?」
 揶揄されてティアンは笑う。急に気が楽になった。自分もいま、同じことをしていたではないかと。他愛ない隠し事。ただそれだけだ、きっと。仮に何かを隠したのであったとしても。
「俺は聞きたいなぁ」
 ふふん、と鼻歌でも歌いそうなニトロだった。自分ならば名を聞いてわかるぞ、と言いたげな。稚気にあふれた、とここは言っておくべきだろう態度にティアンは苦笑する。
 実際ダモンが告げたエレオスと言う花の名にティアンは首をかしげるばかり。どんな花なのかも想像できない。が、ニトロは容易く納得していた。本当に彼の頭はどういうつくりになっているのやら。もっとも学問を志す人間の頭の中身などわかりたくもなかったが。
「こんなところに咲くんだな。――いや、標本を見たことがあるだけなんだ」
「意外だろう? でも、本当はここに咲くのも意外なんだ」
「と言うと?」
 ダモンにとっても珍しい場所で咲いているらしい、件の花は。ニトロの知識にも合わない場所なのだろうか。
「違うぜ? 俺は森の中の少し湿った土地を好む、とかは知ってる。ただ、こんな人家の近場で咲いてるとは思わなかったってだけ。もっと奥深いとこで咲いてるもんだとばっかり思ってたんだ」
「……なんか違いがあるのか?」
「けっこうな、色々と。まぁ、らしいってだけ? 俺は歴史が専攻なんだって。植物学は趣味だ趣味」
「学問が趣味だってとこがまず間違ってるだろうが」
 そうだろうか、と首をかしげるニトロをダモンが笑っていた。なんとなく面白くなくてティアンはそっぽを向く。それをニトロが笑った気がした。
 夜明け前の道だというだけで夜中よりかえって暗い。まして森の中はまだ真の闇。踏み分け道さえ見失いそうになるほど暗い森だった。ニトロはこっそり自分の明かりを用意したくてたまらなかった。あまりにも暗くて、過敏になっている。それを自覚していなかったならばティアンの明かりに頼りきりになることをやめていただろう。いまはダモンも静かに道を探していた。
 ティアンの持つ角灯だけがゆらゆらと揺れている。松明にしなかったのはうっかりどこかに燃え移るのを嫌ったせいだろう。何より松明というものはさほど長い間燃え続けてはくれない。替えも用意するとなると荷物になってかなわない。
「だから角灯なのか。なるほどな。それは考えつかなかったよ」
「お前、いつもどうしてたんだよ……」
「僕一人だったら適当に? 夜目が利くのは、言われて見れば確からしいな。あんまり苦にならないみたいだ」
 ダモンの返答にティアンは呆れた。すぐそこでニトロの溜息も聞こえる。思わず暗がりで顔を見合わせてはうなずきあう。
「お前を一人にしとくとかなり危ないみたいだな。今度からは俺を誘え。いいな?」
「人を子供みたいに言わないでほしい!」
「子供だって夜の森は危険だくらいは知ってるもんだ。慣れてるからってのは理由にならん。獣も魔物もいるんだぞ?」
 昔話に出てくるシャルマークの大穴という魔所がなくなったとはいえ、魔物がいなくなったわけでは決してない。いまでも魔物は人を襲う。
「だな、ダモン。バスティの言う通りだ」
「それは君がイーサウの出身だからだろう?」
「イーサウじゃなくっても魔物は出るっての」
「魔物に国境なし、だな」
 ティアンが皮肉げに言えばダモンが面倒だとばかり溜息をつく。それをひとしきり笑いながらふとティアンは疑問に思う。
 一人で大丈夫だと思っているダモン。いままではそうしていた彼。なぜ、急に今になって誘ってくれたのだろう。ニトロがいるせいか。とてもそうとは思えなかった。何しろニトロは剣を持つことができる男だ。いざとなればダモンは自力で逃げられるのだろうし、ニトロは戦える。それが不思議だった。
「そろそろだな」
 ダモンが言った直後だった。森の中にぽっかりと空けた場所があるのはよくあることだった。雷で木が倒れた結果であったり、泉があったり。そこはどんな理由があったのかはわからないけれど、綺麗な丸い空き地だった。空が開けているせいだろう、長い草が豊かに茂っている。それが見てとれるくらいには明るくなりはじめていた。
「……綺麗だ」
 ぽつん、としたニトロの声。思わずティアンは彼を見つめる。こんな声を出すとは思いもしなかったほど、真摯で真っ直ぐな声をしていた。視線に気づいたニトロが照れくさげに笑う。
「本当に。綺麗だな。ティアンもそう思わないか?」
 空地の縁の木の根元。青紫の蕾がいま正に開かんとしているところだった。いくつかはすでに咲いていて、その香りだろう、甘い匂いがしている。蕾は青紫の花となり、日を経るごとに褪色するのだろう、白い花も。その涼しげな色合い。
「あぁ、綺麗だ。――ちょっともったいないな」
「うん?」
「摘んじまうのがさ。なんか咲き切るところも見たくなった。けどお前の仕事にならないよな」
 肩をすくめて馬鹿なことを言ったと笑うティアンをダモンが見ていた。それを、ニトロが何気なく視界の端に映す。二人は気づきもしなかった。
「――少しは飾る用に摘んでいくさ」
「いや、ダモン……」
「君のためじゃないぞ? お館様のお部屋に飾るんだからな」
 茶目っ気たっぷりに言われてしまってティアンは大きく笑う。そう言いつつもきっとダモンは幾本かは自分のために摘んでくれるような、そんな気がして。
「さ、まずは仕事だ。蕾が開きそうなのを摘んでくれるか?」
「あー、俺は……」
「ティアンは角灯係りだ」
 明かりを照らしてくれればそれでいい、とダモンにばっさり切って捨てられ、それでもティアンは笑ってしまう。ひどく楽しかった。
 ダモンが小さな、それこそ掌に納まってしまうような短刀を取り出しては丁寧に花を摘んでいく。ティアンには選択の基準がいま一歩わからない。ニトロはしかし理解しているのだろう。ダモンと同じ速さで摘んでいた。
 ぷちり、と音がするたびに青い匂いがする。それがダモンは好きだった。同時に申し訳ないような気もする。花の生命を摘んでいる、そんな繊細なことを思う資格は自分にはない。だからせめてこの香りだけは十全に生かしたいと常々思う。生かせた、と思ったことはいまだにほとんどない。
「君は花の採集の仕方を知ってるんだな」
「ん? 常識の範囲内だろ?」
「……どんな常識だよ、それ」
 ニトロの不思議そうな声にティアンがぼやく。それにダモンはちらりと笑みを浮かべた。その間にも手は休んでいない。
「花の茎を傷めずにちゃんと切っている。引っこ抜くような真似もしない」
「そりゃそうだ。抜いたら次が生えないだろうが」
「意外とやりがちなんだぞ?」
 ダモンの声には実感がこもっていた。かつてそういうことをされた覚えがあるらしい。内心でティアンはひやりとしている。こんなに丁寧に切るものだとは思っていなかった自分がいた。さすがに乱暴に引き抜くか、と言われれば否と答えるとは思うが。
「俺はやっぱり学問の徒だからな。俺の後のことを考えるさ。それが普通の思考になってる」
「あと?」
「そう、後。俺が本を読みっぱなしにして放り出しといたら次に読みたいやつはどうするよ? せっかく書いた論文を誰にも読ませなかったらどうなるよ? 発展も論破もしてもらえない」
「論破、されて……いいのか?」
「いいよ、もちろん。そりゃな、正確なのが望ましいけど、間違ってるところや足りないところは誰かがさっさと訂正してくれた方がありがたいね」
 花を摘みながらする会話ではないだろう。しかしだからこそできる会話のような気もした。ダモンはかすかに歪んだニトロの口許に彼の羞恥を見る。意外と照れているらしい。
 照れる、ということはそれだけ彼がこの道に真摯だという証のような気がした。昨日の書架の前でのあの眼差しが蘇る。ニトロはあのとき何を見ていたのか。真摯だからこその厳しさ。そうであればいい。ダモンは思う。
「それってあれか? 間違った体の動かし方はさっさと修正しないと変な癖がつく、みたいなもんか?」
「ま、そんなもんだろうな。――さてはバスティ」
 妙に嫌な予感がして身がまえる。くすりとダモンがそれを笑って、笑い返せば背筋に悪寒。いったいなんだと思ってしまう。
「なんだよ?」
「一人話題に入れなくって拗ねてたな?」
 忌々しくも、にやりとするニトロのその表情がはっきりと見て取れるほど。いつしか森は朝を迎えていた。




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