ダモンが珍しく温室から出てきていた。彼は温室で寝起きしている、そう言われるほどに外には出てこないものを。実際はきちんと館に部屋があるのだが、作業に熱中して温室で眠ってしまうことも多いダモンだった。 訓練中の騎士たちが不思議そうにダモンを見送る。そんなに珍しいだろうか、と彼は内心で首をかしげつつ館の中へと入っていった。 陽射しがなくなるだけですう、と気温が下がったような気がする。それだけ自分が温室に馴染んでいる証か、苦笑しつつダモンは歩いていた。 館の匂いもまた、ダモンにとっては独特のもの。たぶん誰に聞いてもわからないだろう。けれど調香の技を持つ彼。一歩踏み入れるだけでそこがどんな場所なのか見当がつくほど、匂いは彼には重要な情報。朝食の匂い、茶の匂い。騎士たちの鎧の金属臭。そこに仄かに漂う自分が調香した香の香り。 「合わないな」 モルナリア伯の好みだから調香したものだったけれど、ダモンはこの館に似合う香りではない、と思う。もう少し渋みをつけたほうがずっとよいのだが。けれどそれでは主の意に適わない。つらいところだった。 とはいえ今のダモンはモルナリア伯に用があるのではなかった。館の裏手、陽の当たらない場所に用がある。正確にはそこにいるはずの人に。 とんとん、と軽い音を立てて階段を下りて行った。半地下になった場所にあるのは館の図書室。すぐ隣には文書庫もある。そちらは伯爵の執務に関する重要書類が収められていてダモンには用事がない。 「なにかご用で?」 が、図書室にも当然、番人はいる。むしろ司書か。老齢の司書はダモンにちらりと好意的な笑みを見せた。 「僕の用……ではあるんですが、ニトロは?」 普段は薬剤関係の書籍を閲覧に来るダモンだった。もっともそれはほとんどが夜になってからのことなので、だからこそ騎士たちは知らないのだろう。 「あぁ、あちらの書架の間に。彼は実に熱心だ」 自らが管理する本をこれほど熱意をもって学ぶ若者がいる。それはこの司書にとって歓喜となっているのだろう。中々モルナリア伯家中では有効活用し切る、という人材がいないらしい。ダモンは軽く手を振って彼が示した書架のほうへと歩いて行った。 埃と時間の匂い。ダモンはそう思う。図書室で感じる匂いは背筋が伸びるような緊張と、故郷に戻ったような安堵、そして誇らしさ。どこか隔離されてしまったような気もする、そんな香り。 そのままずっと匂いを嗅いでいたい気がした。少し疲れているのかもしれない。ラマザ樹脂による定着がいま一歩成功していなかった。そのダモンの目がわずかに見開かれる。 書架の間に確かにニトロはいた。いまだ見たためしがないほど厳しい顔をして。じっと一冊一冊、本を探しているのだろう。明るく朗らかな学者の卵には見えなかった。ニトロの浅黒い肌が書架の闇に消える寸前、ダモンは己を取り戻す。 「ニトロ!」 何も気づかなかったふりをした、ダモンは。ニトロも見られていたとは知らないだろう。ならば今ならば、なにもなかったことにできる。ダモンのどこかが己の見たものに蓋をする。 「ダモン? 珍しい。どうしたんだ?」 「珍しいって、君まで。さっきは騎士たちに幽霊でも見たような顔をされたよ」 「あぁ、わかる気がする」 にやりと笑うニトロはいつもの彼だった。先ほどの厳しい眼差しが嘘のように。ダモンもまたいつもどおり微笑む。ティアンならばどうするだろう、不意にそんなことを思った。 「なにか探しに来たのか?」 わざわざ留学してまで歴史を学んでいるニトロだった。彼の本拠はこの図書室、と言っても過言ではない。おかげでニトロは夜遅くにダモンが本を探しに来るところを何度となく見ている。 「いや、君を誘いに」 「……はい?」 「そういう意味じゃない」 冷ややかに言えばわかっていると言いたげな笑い顔。不思議なものだった。ティアンには自分から冗談を言うのに、ニトロにやられると酷く癇に障る。不思議でもないか、内心にダモンは苦笑する。 「花を摘みに行こうと思うんだ。よかったら君もどうだ。気分転換になると思うんだが」 「花摘み? そりゃまた可愛い……って、あれか。材料?」 「もちろん」 「ダモンは蒸留からするのか! すごいな……」 「それを知っている君もどうかと思うがな」 香料の多くは精油の形で流通している。それを調香するのが調香師の役割だが、ダモンはまず精油から作る。そうしないと自分の思う香りにならない。ずっとそう言い続けている。 「蒸留器、あったか?」 「あるよ。いまは片付けてある。邪魔だからな」 それもそうだ、とニトロは笑った。つまりニトロは蒸留器がそれなりに嵩張るものだと知っている。いったいどういう男なのだろうとダモンは思う。もっとも、いまはすべてを横においてもかまわなかった。 「明後日の、夜明け前かな。出発は。そこの森に目当ての花があるんだ。開く前に摘んでしまわないとならないから」 「了解。ありがたく同行するよ。夜明けの森か、いいな。楽しみだ!」 「一応、足元に気を付ける程度の装備はしてきてくれ」 「舐めるな、イーサウの男だぞ?」 魔物退治ではないのだから。笑うダモンは自分の声に空々しさを感じる。ニトロはどう聞いたのだろう。ティアンの目よりずっと濃い藍色の目からは彼の内心が窺えない。 「あぁ、ダモン」 呼び留められて振り返る。もしかしたらあの本心が窺えない目をしているところがティアンは苦手なのかもしれない、そんなことを思っていたダモンはわずかながら動揺していた。 「夜明け前だろ? それこそそれほど危険はないんだと思うが……」 「心配ご無用。ティアンに頼んであるよ」 「そりゃ心強い」 言われるまでもなかった。それなのに、なぜか差し出口をされたような、気恥ずかしいような。ダモンは肩をすくめてその場を後にする。階段を上がって図書室を出る。途端に館の匂いに圧倒されそうになった。 「やっぱり――」 好きではない。図書室の香りのほうがずっといい。まるで自分の調香を否定するような言葉になりかけてダモンは口を閉ざす。 「だめだな」 本格的に疲れている。肉体ではなく、心が。色々と手を打ってはいるのだけれど、成果が出ないというのは疲れるものだと改めて思う。 「僕もまだまだだな」 こんなことで苛々とするとは。もっとずっと厳しい場所を越えていまここにいるはずなのに。それを思い返して自らを奮い立たせる。 「まずは樹脂だな」 言えば顔を顰めたくなる。扱いが面倒なのははじめからわかっている。が、ここまでとは思わなかった。むしろ、無茶を言っているのは伯爵だ。香料と、樹脂の役割が絡まらない。お互いに打ち消しあっているのではないかと疑いたくなるほど。そんな材料は使っていないのだが。 「いっそ組み立てを変えるか……?」 香りが似たようなものであれば伯爵には区別がつかないのではないだろうか。それは調香師としての誇りが木端微塵になるような行為でもあるのだけれど妥協が必要な局面かもしれない。 長い溜息をつきつつ温室に戻れば、ほっとした。館の匂いは好きではない。内心にはっきりと呟いてしまってダモンは溜息をつく。 「自分の技を否定するなよ」 合わない香りというのがここまで精神を削るとは。そして思い出す。だから昼間の館にはできるだけ足を踏み入れなかったのだと。夜になればまた香りとは変わるもの。そちらならば我慢できなくはない。 「気分転換が必要なのは僕だな」 花摘みに誘ったのはニトロのため、というよりは自分のため。ニトロはもしそれを知ったらどうするだろう。ただ笑っているような気がした。それ以外の表情が想像できないせいかもしれない。 「いや……」 先ほどのあの厳しい顔。ニトロは何を見ていたのだろう。あの書架にあったのはちらりと見た限り歴史の本ばかり。ニトロがあれほど険しい顔をする必要があるとは思えない。 「わからないことばかりだな」 呟きつつダモンは作業をはじめていた。物思いに耽っていようとも身についた訓練は作業を続けさせる。そのようなものだった。 あちらを少し、こちらを数滴。前に使ったときにはあまり反応がよくなかったから今度は別のものを。それでも次第に作業に熱中して行く。楽しみのために調香するのはいいものだった。 「たまには、好きなものを作りたい。たまには、僕が満足するものを作りたい」 相手ばかりが満足するのではなく。伯爵に調香するのはそんな香り。いまダモンの手が作り出すのは別の香り。 「……うん。いい感じだ」 細長い硝子の瓶から一滴紙に落とす。それを鼻先で振ってみればよい出来だった。香草の、青味のある香りを基本に渋みを加えたもの。それでいて華やぎも充分にある。ダモンの視線が動いて笑みを浮かべた。 「なんてちょうどいいんだ、君は」 ティアンだった。ということはもうずいぶんと遅い時間になっているのかもしれない。いつの間に自分の手が燭台に火を入れたのかも覚えていないダモンだった。 「なんだ? 何がちょうどいいって?」 「いい――実験台が来たな、と思って」 「実験台? いいぜ。何したらいいんだ」 にやりと笑うティアンにダモンは目を閉じそうになる。強いて笑った。こんな風に信頼されるのは、どうしていいかわからなくなるというのに。 「手を。いや、手首。そう――どうだ?」 作りあげたばかりのまだ少し馴染みの悪い香油だった。それでもいまティアンが来てくれた。その手首の内側にわずかに塗り込めば。 「なんだこれ!? 付ける前と後と、匂いが違わないか?」 「そのとおり」 ダモンは莞爾とする。想像通りの香りに仕上がっていた。これで香油が馴染めば完璧だろう。思ったところで、どうにもならないことに気づく。完璧に作ったそれであっても、自分はモルナリア伯の調香師だった。 「体温に反応するってやつか? 前に言ってたよな。――いい匂いだ。俺はこの匂いがいままでで一番好み、かな?」 照れたような言いぶり。どこでもない場所を見やって言い放ったティアンにダモンは笑みを浮かべる。 体温だけではい、ティアン自身の匂いと反応したのだとはついぞ言わずに。 |