一瞬だろうか、数時間だろうか。立ち尽くす。なにが起こったのか、わかりたくない。ひどく拒絶された気がして、どうしても。 何か気に障るようなことをしただろうか。気づかぬうちに怒らせてしまっていただろうか。呆然と硝子の向こうのダモンを見ていた。 不意に視線が交錯する。咄嗟にそらそうとしたティアンの眼差しをダモンは笑みで縫い止めた。よけいに混乱する。いったい何が。呆然とするうち、ダモンが手振りでそのまま、と知らせてくる。 「……ダモン?」 待っていろ、ということだろうか。このまま、ここで。待っていていいのだろうか。戸惑うティアンは結局のところ立ち尽くすしかなかった。 「すまなかったな」 しばらくの間そのままぼうっと立っていた。ダモンが戸を開けてくれるまで何を呆けていたのかと自分で自分が恥ずかしい。けれどどうにもできなかった。 「いや、その……」 「入ってくれ。もう大丈夫だから」 「大丈夫?」 ダモンが言いつつ何かを操作していた。ふと涼しい風が通ってティアンは天井を見上げる。天窓があったとはついぞ気づかなかった。 「毒の処理をしていたものだから」 だから入室禁止と記しておいた、ダモンは笑う。だがティアンはぎょっとしていた。いま彼は何を言ったか。自分も休憩にするつもりだろう、茶を淹れているダモンの腕を掴んでしまう。 「ダモン!」 「なんだ? って、痛いだろ」 「あ……すまん。いや、そうじゃなくて……」 いやに平静なダモンだった。これほど衝撃を受けている自分がおかしいのかと思うほどに。入ったばかりの茶を渡されても、ティアンは青い顔をしていた。 「どうしたんだ、君は」 「それは……。さっき、毒って言っただろうが」 「あぁ……」 そんなことだったのかと言わんばかりのダモンだった。ティアンは呆気にとられてしまう。それとも彼にとっては本当にその程度のことなのか。思えばダモンの仕事を詳しくは知らないのだと気づく。 「この前の樹脂、あるだろう?」 ニトロが何やら珍しいと言っていたあれか、とティアンは顔を顰める。それをダモンが密やかに笑う。が、ティアンは面倒な話題を嫌がったのではない。いまこの瞬間ニトロの名を聞きたくなかっただけ。それを口にはできなかった。 「あれはいささか毒性が強くてな。処理をして使うんだが、処理の過程で室内に毒が充満する」 「おい!?」 その室内にいたのは誰なのか。ダモン一人。半ば腰を浮かせたティアンにダモンが苦笑していた。それに呼吸が静まる。ばつが悪くなって座り直して茶を一口。けれど鼓動のほうは速まったままだった。 「僕は耐性があるんだ。けれど君は危ないだろう?」 「俺、というよりほとんどは危ないんじゃないのか?」 「たぶん。なんだかニトロは平気な気がするけれど」 なぜだ、と首をかしげればなんとなくだと笑い返された。ニトロを買っているという証のようで、心がささくれる。そんな自分から目をそらしたくて話題を戻した。 「その樹脂、なんに使うんだ?」 「定着剤の一種でね。香りがすぐになくなってしまわないようにするものなんだが……。ほら、これが試作品だ」 最初に作ったものの一つ、と言ってダモンが平皿に置いてあるものを皿ごと寄越す。それはどこから見ても首飾りだった。銀の細工も美しい、どう見てもただの首飾り。けれどしかし手に取った瞬間だった。 「あ――」 その鎖から漂い来るダモンの香り。ふわりと鼻先にはっきりと香ってきた。先ほどまではただの首飾りだったというのに。 「な?」 誇らしげなダモンの顔。ティアンは感嘆するのすら忘れて香りに酔う。普段より強いダモン調香の香り。本当に酔いそうだった。 「手に取ると、その体温で香るようにしてあるんだ。けど……まだちょっと樹脂の調合がうまく行かない。香りが強すぎるだろう?」 「確かに。いまはいいけど、首飾りだろう?」 ずっとつけていては酔いそうだと思う。そしてティアンは内心で少し嬉しくなる。実際に普段より強い香りだったのかと。自分の鼻も馬鹿にしたものではないらしい。 「だけどな、ダモン。その、耐性がある? それなら俺が言うようなことじゃないんだろうし……。まぁ、よけいな差し出口なんだろうが」 調香師にはそのような訓練が必須なのかもしれない。言いながらティアンは思う。剣を取る自分が危険は承知で鍛錬をするように。 「でもな、その。危なくは、ないのか。本当に大丈夫なのか」 言い切りながら、愚かなことを言ったものだと思う。危険だとしてもダモンはせざるを得なかったのかもしれないというのに。彼とて伯爵に仕えている身。逡巡と後悔に視線をそらしたティアンの手。温かいものが重なった。 「大丈夫だ。優しいな、ティアンは」 驚いて見やれば彼の手が自分のそれに重なっていた。ただそれだけのことがひどく気恥ずかしくて咳払いをすればダモンが笑う。 「僕も鍛錬はしている。――と言うと君には妙に聞こえるだろうけれど、毒には負けない体を作ってある、と言った方がいいか。だから、大丈夫だ」 たとえそれがティアンが一歩室内に踏み込んだだけで致命的な損傷を負うような毒であったとしても。ダモンは言わない。無意味な心配などさせたくはないとばかりに。しかしどことなく悟ったのだろうティアンだった。目が暗くなり、普段の澄んだ青が鈍くなる。 「せっかくの綺麗な目なのに、そんな顔をするものじゃないぞ?」 「からかうな。人が真面目に心配してるっていうのに!」 「僕も真面目だった。さて、茶のおかわりは?」 「……もらう」 むつりと言えば笑われた。手もなくあしらわれているとは思うものの、それで気が楽になってきたのも確かだった。 「それでティアン。何があったんだ。ずいぶん酷い顔をしていたけれど」 ひょい、と差し出された茶は先ほどとは違うもの。心和むよい香りだった。それを鼻先に近づけてティアンはしばし香りを楽しむ。そのふりをする。ダモンはじっと待っていた。 「……ニトロがな」 待たれているのに、負けた。否、負けさせてくれた。ぽつり呟くように言えば、また抱えているものが軽くなった。 「騎士様連中に混ざってな、あちらも楽しそうに」 自分とは決して馴染んでくれない騎士たち。ニトロはなんなく彼らを攻略した。あるいは彼らがニトロを受け入れた。どちらでも、体の奥底がぞわぞわとする。これをなんと言ったらいいのか、ティアンにはわからない。答えはダモンがくれた。 「それはな、ティアン。焼きもち、というんだ」 「はぁ!?」 「そうだろう? 騎士殿に受け入れられない自分とニトロを比べて、彼はいいな、と思っているんだから」 「いや、その……」 「それにな、君は間違っているよ。ティアン」 わざとなのだろうか。それとも彼の癖なのだろうか。こうして何度もティアン、と呼んでくれる。ダモンだけ。彼一人だけが自分の名を呼んでくれる。それがこんなにも心慰めてくれた。 「なにがだ?」 「簡単なことに、君は気づいていない。ニトロは何者だ?」 「――学者殿、だ」 「君は?」 「剣士という名の道化」 言えばぴしりと手を打たれた。卑下などしても見苦しいだけ。たしなめられてティアンは苦笑する。深く息を吸えば、いつもの仕事部屋の匂い。天窓を開けても部屋に染みついたダモンの匂い。 「君は剣の道にいる。だろう? 騎士殿は? やっぱり同じではないかもしれないけれど、剣を使う。ニトロは、違うだろう? 言ってみれば彼のは自衛手段として覚えただけの、遊びだ。その道を極めようというのではない。違うか?」 「それは、そうだろうが」 「だから騎士たちはニトロを受け入れるんだ。彼らにとってニトロは客だ。まったく違う道にいる、そこから遊びに来た客に過ぎない。君は?」 「同じ、剣の――」 「そう。騎士と剣士、違う剣を使うとはいえ、だからこそお互いに対抗はするものなのじゃないのか? 騎士にはこんなことはできない、剣士にこれはできないだろう。お互いにそう思っているものだと、僕は思うんだが」 知らず瞬いてダモンを見ていた。見つめられたダモンはしばらくの間その眼差しを受け止め、そして耐え切れぬげに目をそらす。 「そんな風にじっと見るな。恥ずかしいだろう」 「お前でも照れるんだな」 「偉そうなことを言った自分が恥ずかしくなっただけだ」 ふん、と鼻を鳴らしたダモンだからこそ、本当に照れているのだとティアンは思う。恥ずかしいのはこちらだ、喉まで出かかって、言えなくなった。言ってしまえばもっと恥ずかしいような気がして。 「だいたいな、ティアン。こんなことは君だって冷静に考えればわかったはずだぞ?」 「そうか?」 「君はあちらこちらとまわってきているんだろ。だったらここの騎士団がはじめてなのか、こんな風に少し仲間外れみたいに扱われるのは。違うだろうが」 「いや、それは、その……」 「ここは酷いか?」 言葉を濁せば一瞬だけダモンの目が鋭くなった。まるでならば自分が伯爵に一言申そうとでも言うように。慌ててティアンは笑みを作る。 「貴族なんてどこも似たようなもの、だな。確かに」 「誤魔化したな、ティアン?」 「なんのことだ?」 じっと見つめてくる緑の目。燃えるような揺らめくような。魔性の目とはこういうもののことだろうか。魅入られて、そらせなくなる。 「君はな、色々と考えすぎで、その上に少し鈍いんだ」 「おい!」 「考えなくていいようなことを考えて袋小路。考えなきゃならないことに気づかなくて、いつか必ず危険に遭う。――僕はそれが不安だよ」 吐き出された吐息が予言のようでティアンはあえて笑い飛ばした。それにダモンが笑みを見せるまで。 |