立場上、騎士や衛士の訓練には混ざれない。彼らのほうも嫌がるだろう。それだけティアンの「お抱え剣士」という立場は微妙だ。どちらかと言えば主人を慰める道化にも近いような、そんな立ち位置。 最初のころこそはなんとか入り込もうとしたものの、今では一人屋内練習場を借りて訓練をするのが定番だ。そうなると不思議とあちらから声がかかったりもするのだが。 「バスティ、家宰様がお呼びだそうだ」 親しいとは言い難いものの言葉を交わすこともある騎士の一人がわざわざ呼びに来てくれたのもきっとそのせいだろう。 「ありがとうございます。すぐに伺う」 笑顔で礼を言えば向こうもちらりとした笑み。それだけで去って行ったからおそらく急用ではない。とはいえ、のんびりもできないだろう。 「そうは言ってもな……」 汗に塗れたまま家宰の前に出るわけにはやはり、行かない。急いで与えられた私室に戻り、汗を拭っては衣服を改める。それだけでずいぶんと時間を食ってしまった。慌てて館を駆け抜ける。 「お呼びと伺いましたが」 そうして家宰の執務室に到着したとき、ティアンは肩で息をしないよう心掛けねばならないほど。騎士でも衛士でもない、という微妙な立場だからこそ、こんなときには気を使うというもの。 「あぁ、いや。――お館様のところへ」 言葉少なな家宰にティアンは内心で首をかしげる。何か言いたいことがあるような、ないような。問い返すことはできず、ティアンも黙って頭を下げては静かに伯爵のところへと向かった。 この時間では伯爵もまだ執務中だろう。思ったものの、部屋の前には衛士の一人もいない。訝しかった。伯爵ほどの人が護衛の一人もいないとは。いくら我が館の中とはいえ、首をかしげるような事態でもある。 「やぁ、バスティ。よく来てくれた。わざわざすまなかったね」 衛士がいないのだから仕方ない。自分で扉を叩けば朗らかな返答。礼儀に適っていたのかはわからないが、伯爵が機嫌を損ねた風ではなかったからよしとする。 「とんでもない。お呼びと伺い参上いたしました」 モルナリア伯は壮年の男性だった。ミルテシア貴族らしい優雅な風貌。若き日には遊興にも励んだのだろう洒脱な雰囲気が年齢によって丸くなっている。衣服の趣味もよく、伯爵という高い地位身分にありながらこうして一介の剣士を平気で呼びつけもする大らかな男でもあった。 「屋内訓練場がお前の役に立っていると聞いてね。我が家では長く放置されていたものだからな。礼を言うよ」 「とんでもない! 私ごときが使わせていただけるなど……」 「なに、あるものは使えばよいのだ」 明るく朗らかな言葉にティアンは自然と頭を下げていた。流れの剣士として各地をまわってきた。おかげでたいていの貴族は狷介なだけ、と知り抜いている。モルナリア伯に拾われてこんな幸運もなかった、しみじみそう思う。 「ところでな。少し頼みたいことがあるのだが」 「なんなりと仰せつけくださいませ」 「助かるよ、バスティ」 が、やはり名は覚えてはもらえない。内心で苦笑するもその程度ならば甘受すべき事柄かとも思う。そんなティアンに気づきもせず伯爵は一枚の紙を机の上に滑らせた。 「渡すことはできないのだが……」 つまり覚えろ、ということだろう。ティアンは紙片を覗き込み、瞬きをする。なんのことはない、地図だった。しかもこの館の城下町とも言えるリアーノの街の。 何度も訪れたことがある街だ、だいたいの地区は頭に入っている。それを当てはめつつ頭の中で道をたどる。すぐに把握できた。 「よいかね?」 「は。問題ありません」 「さすがだね、バスティ。――ここに行って、あるものを求めてきてほしいのだが」 確かに地図上には印があった。大方、店だろうと思っていたら案の定。地図そのものを渡すことができない、というのだから内密の要件。そして伯爵本人の要望でもある。さすがに顔色が変わりそうだった。 「――が、求めたものをこちらに持ってくるには及ばない。そのまま温室に届けてくれればかまわん。頼めるかね?」 「もちろんです。光栄に存じます」 「それはよかった。では――」 何気なく机の上に滑らされた手の下から現れる幾許かの金。にこりと笑って伯爵は羽を伸ばしてくるといい、そう言った。 「……口止め料か?」 館から城下町に向かう道々だった。首をかしげても事態は変わらないし何かがわかるわけでもない。ただ、訝しいだけだ。 「まぁ、それもそうか」 ふと納得した。なにが用事なのかは知らないが、騎士にお使いをさせるわけにはいかないだろう、やはり。どう考えてもこれはお使いだ。伯爵の用事ではあるらしいが、結局はダモンのところに届け物、なのだから。 そう考えたら気が楽になった。ダモンに届けるということは調香の原料か何かだろう。確かに騎士に己の趣味の用事をさせるのは伯爵も気が引けたのかもしれない。 「意外と可愛いとこがある方だよな」 立派な男性に言う言葉ではなかったが、ティアンは微笑ましくなる。むしろ寵愛されているダモンに安堵する。自分よりはましであれ立場の不安定な彼の身の上を思えば。 そして覚えてきた地図上の店。間違ってはいないはずのそこは、薬草を扱っているらしい店構え。調香と関係があるといえばあるのだろう。 「いらっしゃい」 いかにも客商売らしい店主の声に誘われるよう店に入れば、ちらりと主がティアンの腰を見やった。そこにはモルナリア伯麾下である証の紋章が刻まれたメダル。 「どうぞこちらに」 何を言うより先に奥へと通された。そして黙って出てくる一束の薬草と、硬い何か。樹脂かもしれない。ティアンはわけもわからず受け取り、対価を支払う。主も何も言わずに受け取っては無言で扉を目で指した。早く出て行け、ということか。軽く目礼をすればにやりとする主人。客商売らしいところが微塵もなくなっていた。 預かったものを抱え、ティアンは再び訝しくなる。否、不安、かもしれない。これはなんだと思う。薬草商が扱っているのだから薬草だろう。だがあの主人の態度。 「……ダモン」 怖くなった。持っているものがではない。あの主人でもない。何かにダモンが巻き込まれているのではないか、そんな不安。 それでも命ぜられたことは果たさねばならない。きっとダモンが何か知っている。知らなければ、その場で対処ができる。いまはただ早く温室に。足を急がせるティアンを街の人々が不思議そうな顔で見送った。 「ダモン!」 温室の扉を蹴破りかねない勢いで開け、むっとする室内を葉をかき分けて進む。何枚もの大きな葉がちぎれて落ちたけれどティアンの目には留まっていない。 「なんだ……?」 仕事部屋の中でいつものようにダモンが硝子瓶を持っていた。温室の、植物とは違う匂い。甘いような辛いような。息せき切って駆けつけたティアンは長閑なダモンに怒りたくなる。さすがに事情を知らないだろう彼に怒りを見せることはせずに済んだが。 「これ、なんだが……」 何か知っているか。あるいは何も知らないで押しつけられたのか。無言の問いは通じたのかどうか。受け取ったダモンは平静だった。 「ありがたい。助かったよ、ティアン」 「……はい?」 「わざわざ買って来てくれたのか? 君も忙しかっただろうに」 「いや、その……」 「わかっているけどな。いいから座れよ」 なにがなんだかわからないのは自分だ、とティアンは思う。事情を知っているらしいダモンに何はともあれ説明を求めたい。 「千客万来だな。なんだ、こんな昼間から」 苦笑してダモンが二人分の茶葉にもう一人分を足す。ニトロだった。あちらもティアンに驚いたのだろう、目を瞬いている。 「もう勉強疲れしちゃって。ダモンのお茶が飲みたいなぁ、と。――珍しいね、バスティ?」 「まぁな。お前こそ」 「言ってるだろ? 頭が破裂しそうなんだよ!」 怖いことを言う、とティアンは笑う。それで少し、気が楽になった。ダモンが茶を淹れてくれる間にもう少しでいいから落ち着きたい。思えば醜態を見せたものだと。 「ほら、頭脳労働にはこういうものがいいだろう。ティアンにも必要そうだしな」 にやりと笑ったダモンが淹れてくれたのは涼やかな香りの香草茶。ありがたいと笑うニトロに苦笑するティアン。 「これは――」 何気なくダモンが買い求めてきたものを机の上に広げる。どうやら心配するようなものではない、ということか。少なくともニトロに見られても問題ないのならば秘密にしなくてはならないものではない、ということに違いない。 「おや珍しい。ラマザ樹脂だ」 「ニトロ?」 気のせいかもしれない。一瞬にも満たない間ダモンがその眼差しを鋭くさせたような気がしたのは。ティアンが見やったときにはもういつもの彼だった。 「香料の定着剤だろ、これ? ちょっと珍しいよな?」 あまり一般的ではない定着剤だろう、とニトロは言う。そう言われてもティアンは何が一般なのかがそもそもわからないのだが。 「君は不思議な男だな。歴史学を勉強してるんだろう?」 「まぁね。でもこの道に進まなかったら植物学もいいなって思うくらいには好きだな」 「好き、は何よりの上達の道ってものかな。こんな珍しいものを知ってるとは」 「珍しいのか、ダモン?」 「扱いがちょっと面倒でね。色々加工しないとならないから」 なにか言葉を濁した気はしたものの、ラマザ樹脂というものがどんなものなのかをティアンは知らない。ふっと微笑んだ気がするニトロにもそれを問う気にはなれなかった。ダモンにはまして。言いたくなさそうな気がしてしまっては、なおのこと、どうしても。 「ダモンは腕のいい調香師なんだな」 ニトロの言葉に肩をすくめるダモン。いつもの自分ならば何を今更と笑い飛ばすだろうか。ティアンはただ二人を見ていた。 |