持ち前の闊達さでニトロはあっという間に家中に認められたらしい。もちろん性格がよいだけではなく、学識はモルナリア伯の書籍を預かる司書をはじめ学者一同が驚くほど。 「そーゆーところがなぁ」 文句を言いつつ茶を飲むのはいつもの温室。仕事中のダモンが小さく笑っていた。 「そう言いながらかなり気にしているだろう?」 「ま、それは」 肩をすくめてしまう。ティアンと同じようにいささか胡散臭い、と思うものはやはり家中にいたらしい。若い騎士見習いがニトロを挑発して演習場に連れ出した、ということだった。 「僕が聞いた話だと挑発に乗せられたというよりはここに至っては仕方ない、という感じだったらしいが?」 「俺もそう聞いたよ」 「自信があったんだな、ニトロは」 そのとおりだ、とティアンも思う。学問を志しているニトロなのだけれど、騎士見習いは手もなくあしらわれた。それを見ていたティアンが驚くほど鮮やかに。 「それほどだったのか?」 「――いや、なんて言うかな。見習いのほうが満足してたと思うぜ。ぎりぎりで幸運にもニトロの勝ちって感じに、見えてた、からな」 「なるほど」 ダモンは仕事の手を休めずうなずいていた。それだけの余裕がニトロにはあった、ということなのだと。それにティアンも同感だった。 「イーサウってどんなとこなんだろうな」 一人前のイーサウの男ならば自衛程度は使えて当たり前、とニトロは言った。旧シャルマーク王国内はいまだに魔族が頻出するのだから。 もしもそれが事実であるのならばイーサウはやはり危険なところだと思う。だが訝しくもある。剣士として各地をまわったティアンにして、イーサウがそこまで危険とは聞いていない。 「少し、不安、なのかな」 自分の言葉に首をかしげるティアンにダモンが不思議そうな顔をした。指先に挟まれた硝子瓶がそっと揺れる。あるいは揺らしているのかもしれなかったが。中の液体がとぷん、と音を立てては柔らかな香りがあたりに漂った。 「僕も色々と不安ではあるかな」 「考えすぎだとは思うんだがな。――お館様には政敵があるだろ。当然っちゃ当然だがな」 ミルテシアの高位貴族として政敵がいないほうがおかしい。モルナリア伯にも敵味方それぞれある。ティアン程度には誰が敵で味方なのかさっぱりだったが。 「ニトロが間者ってのは、考えたくはないけどな」 政敵の誰かが送り込んできたのかもしれない。ありえない話ではなく、実際にティアンは間者と確定した人間を一人、切っている。つい先ごろの話だった。 「間者にしては目立ちすぎだろう、あれは」 考えすぎだ、と笑い飛ばすような、けれど密やかなダモンの微笑み。それにティアンも救われる。ダモンの言う通りだ、とも思った。ニトロが間者であるのならば目立ちすぎにもほどがある。学問に秀で、剣にも優れた男など、それをあからさまにしては間者の役には立たないだろう。 「――別人の陽動?」 これまたあり得ない話ではない。が、すでにティアンは話題を弄んでいるだけだった。家中に認められたよう、ニトロはもう二人の友人と言ってもいい。毎晩のように温室を訪れ明るい話題で茶を飲んで去って行くニトロ。 「そう難しい顔をするな」 「って瓶を突きつけるな。――ん? これはまた、なんというか……風変りだな?」 調香していた香りだ、というのは手に持ったままだから明らか。それにしては漂っていたものと鼻先の香り、差があり過ぎた。 「あぁ、少し馴染ませると香りは変わるものだ」 「だが――」 「手を出せ。違う、手首。そう」 「おい」 風変り、とは言ったもののティアンは言葉を濁しただけでそれとは程遠い香りだった。だが無造作なダモンの手が自分の手首を捉え、その柔らかい皮膚に一滴、液体を落としては指で塗り込む。 「な……」 体温に温められた瞬間だった。香り立つ、まったく別の匂い。いままでのダモンの調香ならば知っている。けれどこれは。 「どうだ?」 「すごいな。とても、いい香りだ。なんだろうな……、なんて言うんだろうな」 「とにかく?」 「あぁ、気に入ったよ。――残念だな。お館様に差し上げるんだろう?」 「僕はお館様の調香師だからな」 肩をすくめたダモンの視線がすっとそれて行く。本当は違うことを考えたとでもいうような。ティアンこそ、思わずそらしていた。 「それにしても」 こほん、とダモンが咳払いをした。珍しく慌てて話題を変えようとするその態度。笑っては悪いが笑ってしまう。ちらりと睨まれてもまだティアンは笑っていた。 「怒るぞ?」 「すまん。で、なんだって?」 「いいけれどな、別に。――ずいぶんとニトロを気にしているな、と思っていただけだ」 気に入らない、と言いつつ友人づきあいははじめている。ティアン自身それが不思議でもあるのだが、ダモンに言われてはどことなく納得がいかない。そんな彼をダモンがにやりと笑った。 「実は好みか?」 うっかりと飲んでいた茶を吹くところだった。まじまじとダモンを見つめ、そして溜息をつく。彼のこのような冗談はいまにはじまったことでもない。 「だからそういう冗談はやめろって言ってんだろうが」 「特に冗談でもなかったんだが。別にいいだろうが。好みならば好みで。ニトロは客観的に見て魅力的な男性だと僕は思うけれどな」 「そーゆーお前こそどうなんだよ?」 精一杯の反撃もダモンにかかってはいなされるだけ。からりと笑って好みではないな、とあしらわれてしまった。 「我ながらミルテシア人は始末に負えないな、と思うのはこんなときだぜ」 剣士として大陸を経巡ってきたからこそ、わかるものもある。どうにもミルテシア人は恋愛に大らかすぎるきらいがあると。 「君だってミルテシア人の端くれだろうが。恋愛遊戯はしてこそ、というものじゃないのか」 「って言うお前だって遊んでないだろうが」 「僕は香りと遊んでる」 「それはそれで倒錯的な話もあったもんだ」 「ミルテシア人だろう?」 にやりとしたダモンにティアンは笑っていた。こうして夜の一時を過ごす、それでいまは充分な気がしている。確かにミルテシアの辺境とはいえ、街に出れば娼館の一つや二つ、ないはずもない。けれどそこで遊ぶより、あるいは適当な誰かと恋愛遊戯をするより、こうして温室で他愛ない話をする時間が好ましい。 「剣士というのはもっと遊んでいるものだと思っていたがな。君と知り合う前は」 「俺の知り合いの剣士はたいてい遊んでるな」 「だろう? 君は禁欲的に過ぎるんじゃないのか。体に悪いぞ」 「あのなぁ……。俺はこうやってお前と茶ァ飲んで喋ってるほうがいまは楽しいんだよ」 「……おい」 「なんだよ?」 「いや、口説くなら口説くでもう少し言いようがあるだろう」 「口説いてないわ!」 「なんだ。それは残念」 にっと笑ったダモンが仕事道具を片付けはじめる。がっくりと肩を落としたティアンは妙に疲れた気がするのにやはり、笑っている。この時間が貴重だ、と改めて思う。 「おや、話題のニトロだ」 ゆっくりと温室の植物を眺めながら彼が歩いてくるところだった。毎晩見ているはずなのに、毎度はじめてのような楽しそうな顔をする。 「あれは、花が開いた、芽が伸びた。それを毎日確かめて楽しんでいるんだろうな。そんな顔だ」 「お前も時々そんな顔してるぜ?」 「僕はこれを原料にどんな香りを作ろうかと思って楽しんでるんだ。仕事とはいえ、楽しんだもの勝ちだからな」 それもそうだ、とティアンは思う。もっとも自分の仕事は現時点では楽しめそうにない。剣士として戦えと言われるのならばともかくほとんどは宴席での余興ばかり。かといって人殺しを命ぜられるのを喜べるか、と言われても困るが。 「やあ、ダモン。バスティ。こんばんは」 朗らかにダモンの仕事部屋に入って来たニトロだった。ふっとダモンの目が和む。知らずまじまじと見つめていたティアンに気づいては小さく笑った。 「いや、古書の匂いがすると思ってな」 「古書? 匂い? お前、よくここでそんなのわかるな」 「僕はそれが仕事なんだ」 数多の香りが充満する仕事部屋であっても一つの香りを嗅ぎ分ける。それができるからこそ調香師として成り立っている。ダモンのあっさりとした、しかし誇りに満ちた言葉。ニトロが楽しげに聞いていた。 「さすがだな。今日は司書殿にお願いして古書を閲覧させてもらってたんだ」 「お館様に信頼されているな、君は」 「そう、なのかな?」 ことん、と首をかしげるニトロだったけれどティアンでもわかる。よほど信頼が篤いらしい、ニトロは。そうでもなければ貴重な古書など見せてはもらえないだろう。 「歴史学の先生が熱心にお館様にお願いしてくださっていたから。そのせいじゃないかな。俺じゃないと思うよ」 屈託なくニトロは笑う。だが学者が嘆願してくれたのだとてニトロの熱意が彼に伝わったからだとティアンは思う。 「なにかに熱心になれるってのはいいもんだと思うんだがな」 改めてダモンが淹れてくれた茶。ふと気づけば普段とは違うそれ。ニトロも気づいたのだろう、香りを確かめては目を細めていた。 「バスティだって剣の道には熱心だろ?」 「そりゃな」 「だからといって真っ直ぐ褒められて胸張れるか? そんな恥ずかしい」 「……あんた、照れてただけだったのか。わかりにくいわ!」 「そんな文句言われても困るわ!」 言い合うように笑うティアンとニトロ。ダモンはそれを微笑みながら眺めていた。気づいたティアンが内心で首をかしげるほど静かで密やかな微笑み。 |