握手を交わせばニトロは屈託なく笑っていた。それがまたどこか癇に障ってならない。恵まれているらしい彼の境遇への嫉妬だろうか、これは。思い至ってティアンは恥ずかしくなる。だからこそ、よけいなことを聞く気になった。たぶん、途轍もなく無礼なことだろうと思いつつ。 「――あんた、その見た目で何か、言われないか?」 ティアンが言った途端だった。ダモンがぎょっとしたのは。無礼は心得ていたつもり。だが自分で思っていた以上に強すぎる言葉だったと改めて気づく。 「見た目? あぁ……、なるほど」 一瞬ニトロは考え込むような顔をした。それで彼は言われたことなどないのだ、とティアンは気づいてしまう。 ニトロとティアン、同じような色合いの髪と目だった。黒髪に、青い目。ティアンの目のほうが多少は淡いか。ニトロは藍色の深い色合いをしていた。が、同じ黒髪碧眼。それはこの世界では。 「半エルフと同じだって、言われたことがあんたはないんだな」 腹立たしいような、羨ましいような。ダモンは何気なく目をそらしている。それがティアンには見えてしまった。彼の前でこんな気を使わせる話題を出してしまったのが申し訳ない。たった一人の友人だというのに。 「ニトロは、なんで歴史の勉強を?」 すでに既知となっているのだろう、ダモンの言葉は遠慮がない。それでも突然に変わってしまった話題。だがニトロは気にした様子もなくにこりと笑った。 「楽しいから、かな? 俺はイーサウの人間だからな。やっぱり王国より歴史は浅い」 だから色々と知りたいことがたくさんある。彼はそう言う。ティアンは黙ってそんなニトロを見ていた。 屈託のない笑顔。勉学に励むことができる環境。それがこんな男を作ったのかと思う。ニトロはおそらくは自分たちと同年代、せいぜい二十代も後半、といったところだろう。それなのに笑顔には子供のように邪気がない。 「浅いこともないだろう? シャルマークという国がかつてはあったのだし」 「とは言ってもそっちの歴史は散逸しちゃってるしな。むしろシャルマーク史だったらやっぱり王国のほうが多いよ」 「そんなものなのか?」 ダモンの疑問も無理はない。旧シャルマーク王国に現イーサウ自由都市連盟はある。が、それは王国が復興したわけではないし、当時の貴族の末裔が治めているわけでもない。ただ同じ土地に存在している、というだけだ。それを勘違いしている人々は大勢いたが。 「昔のことを知るのは面白いよ。人間がどんな風に生きてあがいてなんとかここまで進んできたのか、よくわかる。すごいことだと俺は思うんだ」 きらきらとした眼差し。子供のような率直さ。本心からこんな男だとするのならば嫌味この上ない。演技だとすれば稀代の名優。いずれにしてもティアンは好きにはなれそうにない、そんなことを思う自分のひね加減が嫌になる。 「さっきバスティさんが言ってたのだってそうだ」 「……はい?」 急に話題を振られて泡を食った。それを小さくダモンが笑う。今日はよく笑うな、と思えば嬉しいような、苛立たしいような。 「ほら、見た目。俺とバスティさんのさ」 あぁ、とティアンは半ば投げやりにうなずく。自分で出した話題だというのに、聞いていて気持ちのいい話ではない。それだけ途轍もなく無礼だった、と思えば今すぐ逃げたい。 「ん……これを言うのはちょっとあれかな、と思うけど。イーサウは魔法文化が二王国より発展してる。神人の子らとの貿易もあるしな。だから『半エルフと同じ色合い』が嫌がられたりはしない」 ティアンは呆然としつつうなずいていた。イーサウでは半エルフとすら、呼ばないのかと。神人の子、などという呼称はお伽噺のそれと思っていたものを。逆にダモンは身を乗り出していた。 「貿易? 噂では聞いていたけれど――」 アリルカ、と呼ぶらしい神人の子らの国。幻の、伝説の国。実在すら疑われているその国とイーサウは真実交流があると言うのか。 「あるよ。たぶん、イーサウを通してミルテシアにも物産は入ってると思うよ?」 「そんな――」 「ミルテシアの人は魔法も好きじゃないだろ? だからたぶんイーサウ産とか、外国産とか、そういうことになってるんじゃないのかな」 「あぁ……」 「ティアン?」 「いや、納得できる話だな、と思って」 ダモンの不思議そうな顔にティアンはそう言う。それに逸早く目を留めたのはニトロだった。ふっと微笑んだだけ。それでも問いは感じた。 「剣士だって言っただろ。元々はあちこち回ってたんだ」 そう言いつつもニトロの戯言、あるいは場を和ませる冗談の類かとティアンは思っている。アリルカなど実在はしないのだろうと。 「傭兵?」 「ってほど戦場経験はないな。それでも、一所にいる村人よりゃ、世界は広いな」 肩をすくめればやはり返ってくるのは明るい笑み。ティアンは無言で目をそらす。それをダモンが見ている、そんな気がした。ニトロは気づかなかったのか、そんなふりをしたのか。周囲をちらりと見回して何かを見つけたのだろう、目を細める。 「ほら、ダモンさん。あの木。赤い花のやつ」 「あぁ、あれは珍しい。普通は白い花が咲くんだ。まぁ、花の色で香りが変わるわけではないんだけれど」 「そうなんだ? まぁ、それはそれとして。確かあれはアリルカ原産だったと思うよ」 かたん、と音がした。遅れてダモンが立ち上がったのだ、とティアンは知る。それほど驚くようなことなのだろうか。ことなのだろう、とティアンはわからないなりに納得をする。 「知らなかったな……」 憧れのような、幻のような。ダモンの眼差しはいままでティアンが知ることのなかった彼の目。どんな思いなのかと聞いてもたぶんきっとダモン本人にすらわからないだろう。たとえアリルカが冗談なのだとしても、その目の輝き。嬉しいような、苛立たしいようなティアンの思いなど彼自身ですら気づかなかった。 「ほら、知らないことを知るって、おもしろいだろ?」 だから自分は学問をしている。ニトロが話題を締めくくればダモンが笑う。ティアンでさえそれは得心してしまうような言葉だった。 「ニトロさん、剣は?」 自分の言葉はなぜこうも唐突なのだろう。ティアンは頭を抱えたくなった。小さくダモンが笑ったから、よけいに恥ずかしい。 「いや、その。まぁ剣士の性とでも思ってもらえれば」 ついつい問いたくなったのは、そういうことなのだ。詭弁だな、と自分でも思った。それでもニトロは気にした素振りもない。 「せいぜい自衛程度ってところかな。それと、呼び捨てでいいですよ」 なんだか照れくさいから。小声で続けてニトロはそっぽを向く。はじめて年相応のような、そんな気がした。思わずティアンが浮かべた笑みは本物のそれ。 「だったら俺もさん付けはやめてくれ。――自衛程度って体には、見えないな」 「いやいや、イーサウはまだ魔物も出るしね。一人前の男だったらこんなもんでしょ」 「そんなに危険なのか?」 ダモンの真剣な目にティアンは瞬く。あるいは、と思ったところでダモンが視線に気づいたかこちらを向いてはそっと微笑む。 「行ってみたい、と思ったことが何度もあるさ。――僕は調香師だからな。自分で知らない香りや、原料や。そんなものを嗅ぎたい。体験したい。その誘惑はかなり強い」 とはいえ、イーサウとミルテシアに国交はあるようでない。ないわけではないがあるとも言えない、という微妙さ。おいそれと一庶民が訪れることができるわけもなかった。 「お館様にお願いしてみたらどうだ?」 お抱え調香師が香りを尋ねて旅をしたい、と言うのをすげなくあしらうような主人ではないように思う、モルナリア伯は。だがダモンは肩をすくめただけ。 「いつか大成したら俺がイーサウにお招きするよ、ダモン」 まるで清らかな流れだ、ティアンはなぜかそんなことを思った。ニトロの声の響きにそんなものを感じた理由がわからない。けれど清々しい言葉だとは思う。 「遠いな、それは?」 珍しく闊達に笑ったダモンだった。酷いことを言う、とニトロもけれど一緒になって笑っている。気づけばティアンもつられていた。つられたふり、だったのかもしれない。 「さて、そろそろ行くよ。またお茶をご馳走してもらってもいいかな。人の話を聞くのは勉強になるし」 「いつでも。僕はだいたいここにいるから」 「ありがたい! じゃ、バスティもまた」 「自衛程度でも使えるんだったらお手合わせ願おうかな」 「勘弁して。壊れちまうよ!」 冗談に、冗談が返ってきた。それだけニトロもくつろいだ、ということなのだろう。ティアンはあまりそんな気分でもないな、と内心で苦笑をする。そうこうするうちにするりと扉を抜けて去って行くニトロの後ろ姿。滑らかで猫のようだった。 「ティアン?」 「ん? いや……」 「ずいぶん熱心に見ていたな、と思っただけだ。――実は好みだったか?」 からかわれてティアンは赤くなる。この手の話題がミルテシア人にしては苦手なティアンだ。ダモンのほうは端正な見た目をしているくせに平気でこんなことを言ってくる。 「からかうなよ。――そんなんじゃない。本当に自衛程度かな、と思って見てただけだ」 自分で口にして、改めてそのとおりだと思う。ニトロの肩を思う。服の上からでもみっしりと肉がついていた。それでいてしなやかな。あれは戦うことを知っている体だ、とも思う。 「イーサウは、ニトロが言っているより危険なのかもしれないな」 「護衛がいるってやつか」 「――君が護衛をしてくれれば心強いんだがな」 そんな日は来ない、と知っているかのようなダモンだった。ティアンが何を言うより先に立ちあがり、茶を入れ替える。まだ帰ってほしくない、という意思表示にティアンの口許はほころんだ。 「あぁ、そうだ。冗談で作ったらなかなか出来がよかったんだ。料理長に教えておいたからお館様の口にも早晩入ると思うけれど。試作だ」 振り返りざまティアンの緩んだ唇に押し込まれたもの。なんだと驚く間もなく、別の驚き。 「……やたらいい匂いだな、これ」 味は焼き菓子。甘くてさくさくとした、普通のそれだ。けれど香りが。ダモン調香の香料だろう。淀んだ思いが吹き飛ぶような、よい香りだった。何よりなぜか妙に嬉しかった。 |