夢のあとさき



 宴席から退いて、ほっと息をつく。夜の暗がりの中、深く息を吸えばそれだけで生き返った心地がした。
「息が詰まる――」
 宴の席で剣舞を披露する。ただそれだけの仕事。剣士として鍛錬を積んできた身にはいかにもくだらない。もっといかようにも働ける。そうも思うけれど、しかし生死の際からは程遠いありがたさ。
 そんな自分をちらりと笑い、彼は館から歩いて行く。ミルテシアの辺境とも言える土地だった、モルナリア伯爵の領地は。ほとんど左腕山脈に抱えられるような、そんな土地。
 だからこそ、館は広い。広大な敷地にあるそれは館と言うよりは城。かつては砦といった趣だったらしいけれど、今はそれほど武張ってはいない。
 闇の中、彼はのんびりと歩いて行く。客があるせいだろう、普段よりも警備は厳重だ。が、モルナリア伯に抱えられ、すでに新参でもない。兵たちも彼には軽く目礼をするだけだった。それに答礼しつつ目指すのは。
「あぁ……」
 やはり灯りがついていた、と思う。贅を凝らした館よりなお贅沢なもの。モルナリア伯自慢の温室だった。王都の街にもない、と言う素晴らしく広く美しい温室。
「贅沢だな」
 それが皓々と夜の中、光を漏らしていた。硝子のそれから漏れだす明かりのその眩しさ。なんとも贅沢で、けれどまず温室そのものがひどく贅沢なものだと思い出しては彼は笑う。
 ここに来るのも慣れたものだった。宴で疲れたとき、彼はいつもここを訪れる。はじめはただ迷い込んだだけだった。いつからだろう、こんな風に訪れるようになったのは。首をかしげてもわからない。
 きぃ、と小さな音が静かな夜に響いて彼は身をすくめそうになる。剣士というのに胆が細い、笑ったのは誰だったか。覚えてもいない昔の話でもあった。
 暑いほどに暖かい硝子の温室。こんな北では育たないはずの植物が旺盛に茂っていた。匂い立つのは甘く濃厚な花の香。土の匂い。青々とした葉の生気そのもののような香り。
 まるで葉をかき分けるようにして彼は進んでいく。モルナリア伯のこの温室は、人に自慢をするためのものではなかった。否、ある意味では自慢の種。だが見せて楽しもうというのではない。
 不意に現れたのは硝子の扉。温室の中にもう一つ温室があるといった風情。が、こちらは薬草師の工房のようでもある。至るところ何に使うか彼には見当もつかない道具だらけ。その中で一人、硝子の器具を手にする青年はまるで物語の妖術師めいていた。
「聞いたか?」
 開口一番、それだった。いまだ作業中だったのだろう青年は手元から目を離しもせず、現れたのが誰か確かめもせず、ただそれだけを言う。
「それじゃわからん」
 ちらりと笑っても視線は動かない。どうやら集中を要する仕事をしているらしい。小さく細長い硝子の瓶に青年は一滴、また一滴と雫を落としている。元々入れてあった液体からしてごく微量。彼にはそれが何かはわからない。けれど結果は素晴らしいもの、と経験的に知っていた。
 しばらくの間、両者ともに無言だった。彼はただ、青年の手元を見るともなしに見つめている。精密な手だった。自分ではとても敵わない。青年に剣を振るう腕はない。自分にはそれがある。そう思っても慰めにはならないほど精緻な仕事。思わず溜息すら漏れそうになるのを何度こらえたか。
「――留学生、だそうだ」
 唐突に言って青年は目を上げる。ひと段落ついたらしい。その証拠にできあがったばかりの液体が入った瓶を彼の鼻先につきつけた。
「うお。――なんだ、妙に……」
「なんだ?」
「いや……妙に、馴染むと言うか。嫌いじゃないな、この匂いは」
「嫌いじゃない、か。なるほど」
 何かが不満らしい青年の口ぶり。が、彼にはそのあたりがよくわからない。こんなにも素晴らしいのに、と。青年はモルナリア伯お抱えの調香師だった。そしてこの温室は調香師のために作られ、青年だけに与えられた調香のための資材。これこそがモルナリア伯の自慢だった。
「俺には充分いい香りだと思うんだが。――お館様の新しい香水か?」
「気分転換の調香、というところかな」
 肩をすくめた調香師は、その姿自体が彼の作り出す香りのようだった。色の濃い栗色の艶やかな髪。燃え上がる蛋白石の緑を取り出したかのような目。優雅で繊細。
「言いたくないが……。いいのか、ダモン?」
「なにがだ?」
「お前の趣味ってところなんだろう、それ? お館様の金で趣味は、まずくないのか」
「あぁ……」
 そんなことだったのか。さもそう言いたげなダモンの苦笑に彼は苦笑を返す。調香師ともなると特殊にも特殊を重ねた技能の持ち主。少々のことは大目に見てもらえるらしい。
「君こそこんなところで油を売ってていいのか」
「いいんじゃないか?」
「最近のお館様は明けても暮れてもバスティバスティ、だそうだが?」
 調香師が言った途端彼は顔を顰める。それをわかっていて言ったのだろうダモンはようやく晴れやかに笑みをこぼす。
「いまだにお館様は君をバスティと?」
 ダモンの問いに彼は肩をすくめて答えに代えた。モルナリア伯は何度言っても覚えてくれない。所詮は剣士などその程度と思っているのか、そこが貴族と平民の差なのか。
 彼は名をティアンと言う。バスティアンの省略でもガスティアンの省略でもない。正真正銘、ただのティアンだ。が、モルナリア伯はバスティアンの省略だ、と思いこんだらしい。そしてバスティアンでは呼びにくい、よってバスティと呼ぶ、どうやらそういうことのようだった。実に迷惑な話だったが抱えられた剣士の身としては名ごときで貴族に逆らえるはずもない。
「そう拗ねるな」
 言いつつダモンが差し出したのは熱い茶。しばらく前からよい香りがしていた。それにティアンは目だけで礼をする。真っ直ぐに礼をするには照れくさすぎた。
「君は、これが好きだな」
 呟くようなダモンの声にティアンはそっぽを向く。そのとおりだった。そして自分が来る頃合いを見計らってダモンがこの香草茶を煮出してくれていたことも。
「ずいぶん強い香りのはずなんだが」
 熱湯で淹れる香草茶より、煮出したこれは確かに強い香りがする。だがティアンには心安らぐ香り。宴席に侍って疲れたときには殊の外に。
「――なるほど」
 何を納得したのかダモンが一つうなずいた。それをティアンはただ眺めている。黙って茶を飲む。それだけでとげとげしい気分が静まっていくような。
「茶の効用だと思うが」
 以前そう言ったならばダモンには一刀両断されたものだったが。けれどこの時間がティアンは好きなのだと思う。静かで、特別な何かを話すでもないこの時間が。
「それで。留学生がなんだって?」
 あまりにもくつろいでしまうのを恐れるよう、口を開いたのはティアン。小さく笑われた、そんな気もした。
「だから、留学生」
「それがわからんって言ってるんだって」
「留学生が? それとも話題が?」
「両方」
 確かに、とダモンはうなずいていた。やっと自分の話が唐突だった、と気づいたのだろう。もっとも仕事中のダモンは常にこのようなもの。ティアンには慣れた姿だった。
「イーサウから、学問をしたいと言ってきているのがいるよ」
「それが留学生?」
「そう、留学生。どうやらイーサウの公費で派遣されているらしい。すごいことだな」
 淡々としたダモンの言葉にティアンは仰け反りそうになる。ダモンの言葉の印象からは貴族が学びに来ているという風ではなかった。否、そもそもイーサウだ。彼の国に貴族はいないという。ならば。
「平民が、国の金で学問をする。不思議だが……すごいことだと僕は思う」
 まったくだ、とティアンはうなずく。考えたこともない制度だとも思う。もしも自分がイーサウに生まれていたならば学問ができたのだろうか。
「なにがおかしい、ティアン?」
「いや……俺がイーサウに生まれててもやっぱり学問はしなかっただろうと思ってな」
「僕はどうだろう……?」
「お前は好きそうだけどな」
 言えば無言で肩をすくめられた。学問をしたいと思ってもできなかったのかもしれない、ダモンは。さほど長い付き合いでもない。さすがにダモンがどんな生まれ育ちをしてきたのかはティアンも知らない。知っていることはただ一つ、非常に優れた調香師であるということ。
「留学生は、歴史を学びに来ているそうだよ。だから、僕が彼でもその道には進まなかったと思う」
「歴史? そりゃまた、イーサウらしいと言うべきか」
「だな」
 軽くほころんだダモンの唇。いかにもミルテシア貴族が好みそうな容姿だ、とティアンは思う。仄かに色づいた唇はまるで女のよう。それでいて全体を見れば確かに精悍な男性でもある。一見は嫋やかな女のようでありながら凛々しい、というのがミルテシア貴族男性の理想らしい。それにダモンは充分以上に適っていた。
 その目がついとそれ、ついで苦笑めいたものが浮かんで消える。視線の先を追えばちょうど扉の前に見たことのない男がいた。軽くうなずいたダモンに男は嬉しそうな顔をして扉を開ける。律儀に入室の許可を待ったらしい。
「こんばんは、ダモンさん。相変わらずいい香りだ」
「飲む?」
「いただきます」
 嬉しげな男にティアンは内心で顔を顰める。どことなく、不満だった。自分のために淹れてくれた茶だったのに。そんな子供じみた不満。気づいたティアンが思わず肩をすくめれば男は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「件の留学生だ。イーサウの、ニトロさん」
「はじめまして、ニトロです」
「こちらこそ。お館様にお世話になっている、剣士のティアンだ。――が、お館様はバスティと呼ぶ」
「じゃあそっちで呼んだ方がいいですかね?」
 どちらでも。そんな意をこめて肩をすくめた。それをちらりとダモンが笑う。この館で自分をティアン、と呼ぶのは実のところダモン一人。もっともそれはダモンが滅多に人前に出ないからでもある。ふとそれに気づいてティアンはなぜか妙に照れくさかった。




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