彼の人の下

 路地から路地へ。なんとか走り切って喧騒から逃れたときには二人して肩で息をしていた。ぜいぜいと呼吸を荒らげつつ、イメルが物言いたげにエリナードを睨む。
「お前さー」
「悪い」
「ほんとに思ってる?」
「巻き込んだからな。それは悪いと思ってるぜ? ついお前連れて逃げちまったわ」
「って、そうじゃないだろ!?」
 悲鳴じみた喚き声。そんなところまでタイラントに似ずともいいだろうに。笑うエリナードにイメルが肩を落とした。
「ほんっとにさー。――いいの? フェリクス師」
 いいのではないか、と返答をするエリナードを冷たいやつだと罵るイメル。本気でないのは二人ともが承知のこと。
「それにしてもお前、なにしてたの? こんな混む時期にさ、師匠と逢い引きってお前も熱心だよね」
「誰が逢い引きだ!? 師匠とだけはねぇよ。世の中から男が絶えてもそれだけは絶対にねぇわ!」
「お前とフェリクス師の場合、そこがまず信用ならない」
 からりと笑うイメルに悪意はなく、本人はただの冗談のつもり。聞いているエリナードもそのとおりに受け取る。が、生憎と星花宮の中ですらイメルの「言葉どおり」に受け取ってしまうものがいる始末。溜息をつくエリナードをまたイメルが笑った。
「買い物だよ、買い物。付き合わされてただけ」
「買い物? あぁ……あれか。降臨祭のおやつ。フェリクス師、すごいよな。あんなに苦手なのに、それでも子供たちが喜ぶからって毎年ちゃんと作ってくださる」
「なのにどういうわけか絶対に上達しない。わざとか? わざとなのか?」
「とか言って。一番喜ぶの、お前じゃん?」
「否定はしない」
 にやりと笑ったエリナードを処置なし、とイメルが肩をすくめた。路地裏は人の熱気からは遠く、けれどそこそこ賑わっている。やはり降臨祭のせいだろう。どこもかしこもそわそわと落ち着きがない。
「悪かったな、タイラント師と演奏の約束、してたんじゃねぇの?」
「ん? してない、してない。偶々商売してたら師匠が見つけてくださってさ。それだけ」
 吟遊詩人でもあるイメルにとって降臨祭の人出は書き入れ時と言える。日常の魔術の研鑽、鍛錬より楽しそうなのは息抜きの側面もあるせいだろう。
 イメルは違うと言ってくれたけれど、エリナードは後悔をしなくもない。自分が師とすごす時間を貴重だと感じるならばイメルとて。勘づいたのだろうイメルがくすりと笑った。
「俺はお前ほど師匠べったりじゃないんだって。買い物に付き合ってあげるなんていい子じゃないしなー」
「ま、親孝行みたいなもんだからよ」
「だったら逃げるなよ、あそこで」
「逃げるだろ、普通? 痴話喧嘩に巻き込まれてやるほど孝行息子じゃねぇよ、俺は」
 間違いなくフェリクスとタイラントは事前に喧嘩でもしていたに違いない。エリナードは知っている。フェリクスほどの魔術師が、あれほど近くに伴侶が接近していて気づかなかったなどあり得ないと。イメルのほうこそが偶然だ。つまるところ、真実の意味で巻き込まれたのはイメル一人、と言うことになる。
「そう言いつつ、お前はいい子だよ」
 フェリクスに言われてもそのようなものかと思うだけだがイメルに言われるとどこなく癇に障る。兄ぶるイメル、が気に障るのかもしれない。
「フェリクス師はお前が可愛くって仕方ないんだろうしさ」
「まーな。つか、あれだ。あの人だって気にしてんだよ。俺らの同期で名前もらってないの、もう俺だけだろ?」
「あー、まーな」
「別に俺は気にしてねぇんだけどよ。名前に関しては師匠も、だな」
 ならば何を、とイメルが見上げてきた。不思議なものだった。少年時代にはさほど身長が変わらなかった。むしろ三歳ばかり年長のイメルのほうが大きかった。今となってはエリナードのほうが少し背が高い。
「遠からず俺が一人前になる、それが気になってんだろ。名前もらって一人前んなって。そしたら今みたいにしてらんねぇ。寂しいんだよ、師匠は」
「うーん、そう言うもの?」
「だよな。俺だっていままでどおりでいいと思う。別に無理して親離れ子離れする必要もねぇだろうし。時期が来れば離れる。そういうもんだろ。なのに師匠ときたら」
「いまから可愛い息子が遠くに行っちゃうって? ……想像しちゃっただろ!?」
 鳥肌を立てるイメルをエリナードは笑った。それを実際に聞かされた身にもなれ、と思ったのだけれどエリナードは言わない。これは師弟の会話。二人だけの会話だった。
「……お前、すごいよな」
「なにがだよ?」
「こうやってさ、同期がみんな一人前になってさ、お前だけってなっても、全然気にしてないだろ。だからどうしたって修行に励んでるだろ。それがすごいなって。俺にはさ、できないと思うし」
「俺は俺。お前はお前」
 イメルと知り合ってから何度この言葉を口にしただろう。時折エリナードは思う、言われたいのかもしれないと。そうして自分の立つ位置をイメルは確認しているのかもしれない。
「ま、それもそうなんだけどさ」
 晴れやかな笑い声にイメルがまた何かに悩んでいることをエリナードは悟る。いずれ必要があれば言うだろう。そのときに手を惜しむエリナードではないと彼は知っている。
「ちょうどいいや、エリナード。ちょっと付き合えよ」
「どこ? ――まぁ、いま戻ると巻き込まれること確定だから俺も時間は潰したいけどよ」
「だろ? だからさ、エイシャ神殿。付き合えよ」
 普段ならば神殿に誘うことはない。イメルはエリナードに信仰がないことを知っている。イメルは信仰こそしていないけれど吟遊詩人として、時折エイシャ神殿には詣でているらしい。
「いいぜ」
 今うなずいた理由を二人ともが悟り、にやりと笑みをかわす。狭い、どことも知れないような路地を歩いていたけれど彼らの足は迷わない。この王都で育ったも同然の二人だ、どんな路地でも熟知していた。
 昔はエイシャの本神殿はこの王都アントラルにあった。むしろいまだに総司教座は王城内にあるのだが。けれどかつての本神殿はいまは「少し大きな神殿」になっている。
「移転したのっていつだっけ?」
 知らない、とエリナードはそっけない。さほど興味があることではなかった。信仰であり、政治でもある。魔術師のエリナードに興味を持てる分野ではなかった。
 リオンの発案だ、と言うことだけは知っていた。伝統的にマルサド信仰の強い王宮だった。その一角になし崩し的にエイシャの総司教座があるのだ、なにか微妙な問題が頻出していたらしい。
 それでリオンは本神殿そのものを大陸中央のハイドリンへと移転させた。神話の昔、神人がおわしましたと言う三叉宮のある地。いまは神殿の町となっている。なにも不思議なことではなかったけれど、その裏には政治があった、と言うわけらしい。
「だからあんまり興味ねぇんだよ」
「それだけ知ってりゃ充分だと思うけど?」
「興味がないのと全然知らないのは別もんだろうが」
 魔術師らしい言い分をイメルも笑う。彼自身、そのとおりと思っているのだろう。ほどなくエイシャの神殿が見えはじめた。吟遊詩人の信仰も篤いエイシャ女神だ、そこかしこにそれらしい姿が散見された。
「なんか奉納、する?」
 イメルは歌を捧げるつもりらしい。エリナードはしばし考える。その間に、とイメルが神像の前で演奏をはじめていた。
 さすが王都の神殿だった。神像のエイシャ女神は美しく神々しく、エリナードは顔を顰めてしまう。何かに耳を傾けて聞き惚れているのだろう女神の似姿。口許のほんのりとした笑み。
 ――似合わねぇなぁ。
 思わず浮かんでしまった内心での呟き。聞こえただろうか。誰に、とは考えなかった。イメルの演奏の間にエリナードは思考を凝らす。ここは星花宮ではなくアイフェイオン館でもない。さすがに多少は苦労する。
 が、チェスターには天才と罵られ、誰にもフェリクスの愛弟子と言わしめたエリナード。少々の困難、と言うだけで魔法は発動する。イメルの演奏が終わるまでの間に掌の中、小さな銀細工ができあがっていた。
「少し腕が上がったか?」
「って、聞いてたのかよ!?」
「仕事しながらでも耳は空いてるからよ」
 ふふん、と笑えば嫌味なやつ、言いながらイメルが手の中を覗き込んでくる。そして顔を上げたイメルはまじまじとエリナードを見つめた。
「なに俺、口説かれんのかよ?」
 茶化したのは急に照れくさくなったから。それほどの表情をイメルはしていた。あるいは畏怖にも近い。そんな顔をこの兄弟のような友にされたくはない。気づいたのだろうイメルが小さく笑って詫びた。
「すごいな、お前。それって……」
 それでも素晴らしい技術技量、イメルは褒める。淡々としているエリナードだったけれど、どれほど彼の魔道は進んでいるのだろう。自分と彼と、どれほど位置が違うのだろう。それでも同じ魔道を歩いている、その確信がイメルにはあった。それが笑みになる、力になる。
「おうよ、夏霜草。何度か作ってるからな、慣れたもんだぜ」
 肩をすくめたままエリナードは神像の前に。奉納品を乗せる台の上、無造作に作り上げたばかりの夏霜草の細工を乗せる。
「……メリリ、気にしてただろ? ちょっと会っただけだけどよ、エルサリスの決着見ないで帰っちまったからな」
 あんなに早く帰るのならばあの遠足にエルサリスも誘うのだった。あの時はあれが最善と信じていたけれど、エリナードは思ってしまう。きっと喜んだだろうに、と。
「――メリリ。エルサリスは自分のいるべきところに帰ったぜ。そっちで見てるかな。ちゃんとうまくやってる。近いうちに誓約式もするらしいぜ」
 お前からも祝福してやってくれよ。心の内側で呟いた声が聞こえたかのよう、イメルが楽器を爪弾く。彼もまた、あの日の少女を思い出しているに違いなかった。そしてはっと顔を上げ、エリナードと二人見つめ合う。ついで浮かぶ笑み。
 神殿の中、くすくすと少女の笑い声が聞こえた気がした。両手で口許を押さえたおしゃまなあの笑い声が。




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