彼の人の下

 降臨祭休暇がはじまれば研究などできなくなる。部屋にこもってしまえばいいようなものだけれど、エリナードは経験的にそれができない、と知っているからできるだけはじまる前に、と思っていたのだが。
「……眠い」
 結局、今日から休暇がはじまってしまった。子供たちの甲高い悲鳴じみた歓声で寝不足の頭が痛む。星花宮の食堂だった。
「エリナード。早いな」
 こちらも子供たちに起こされてしまったのだろうチェスターだった。あの日、少しばかり話をしたからと言って長年の隔意が消えるわけもなく、そうなったらそうなったで大変に気色悪いというもの。チェスターは相変わらず機嫌悪そうにエリナードを見やる。
 それでもこうして普通に話しかけてくるようにはなった。それはお互いにとって進歩だな、とはエリナードも思う。
 つらい体に鞭打って、食べたくもないのに食事を皿に盛る。料理人は頭を痛めていることだろう。降臨祭休暇がはじまると子供たちの注文が途端に増える。あれを作って、これが食べたい。そんな期待に応えるため、料理人は汗で体が細るほど働いている。それを食欲がない、と言って残すわけにはいかない。もそもそと食べるエリナードをちらりとチェスターが笑った。
「なんだよ?」
「疲れた顔をしているな、と思っただけだ」
「――研究が捗んねぇんだよ」
 意外そうなチェスターの表情にエリナードこそ驚く。自分はそんなに妙なことを言っただろうかと思って。
「いや……。お前でも捗らない、なんてことがあるんだな」
「あるに決まってんだろうが。十やったら九だめんなるのが研究ってもんだろ?」
 それはそのとおりだ。チェスターにとっても、と言うよりはすべての魔術師に経験があること。だがエリナードまでもがそうだとはチェスターは考えたことがなかったらしい。
 ――天才だと、思っていた。
 チェスターの内心の声。咄嗟に制御をしそこなったのだろう、エリナードは聞こえてしまったけれど聞かなかったふりをする。心の内側で小さく苦笑いをした。
 幼いころから、それこそ星花宮に引き取られてすぐから言われ続けている。才能の塊、魔術の天才と。エリナードはそんな風に思ったことはない、とまでは言わない。自分の才能それ自体を疑ってはいない。けれど言われるようなものではないとも知っている。だから他人の評価がたまには鬱陶しくもなる。疲れているな、ふと思った。
「エリィ、暇?」
 思った途端にこれだった。背後からかけられた声にエリナードは笑いだす。いまは精神が触れ合っているわけではない。それでもこの師は、自分がこんな気分のときには必ず側にいてくれる気がして仕方なかった。
「暇じゃないです。が、忙しくもないですよ。なんです?」
 振り返れば口許を引き締めて少し機嫌の悪そうなフェリクス。実際はさほど機嫌は悪くはない、とエリナードは見る。
「買い出し。手伝ってよ」
「へいへい、いいですよ。街?」
「そう。――チェスター、一緒に行く?」
 仏頂面のままだけれど、フェリクスはチェスターにもそう声をかけた。それに彼が背筋を伸ばすのがおかしい。
「いえ。遠慮いたします!」
「そう、じゃあまた今度ね。行くよ、エリィ」
 はいはい、と投げやりな返事をしつつ残っていた食事をかき込む。行儀が悪い、とフェリクスに叱られたのも気分がよかった。
 降臨祭休暇の賑わいも凄まじい城下町だった。どこを見ても人人人。見えている地面より人のほうがずっと多い、エリナードは頭痛がする。
「どこ行くんです?」
 フェリクスを横目で見やり、エリナードは溜息をつく。それに逸早く気づいたのだろう師が目顔で問いかけてきた。
「……別に。その姿、あんまり好きじゃないんですよ」
 城下町に出るときの常でフェリクスは幻影を被っている。エリナードはそれが好きではない。正確に言えばフェリクスが「素顔で外に出られないほど危険であるこの世界が」好きではない。
「それほど変わってないでしょ?」
「人間の皮かぶんなきゃならないってのが気に食わないんですよ」
「なにそれ。僕はお化けかなんかなの?」
 くすりと笑いつつフェリクスは気にした風もない。彼にとっては正に衣服のようなものに過ぎないらしい。
「いつか、師匠が普段通りにしてても平気な世界ってやつになればいいのにな、と思いますよ」
「無理じゃない? タイラントもそんなことを歌うけど」
「さすがタイラント師。いいこと歌うなぁ」
 エリナードの本心だった。フェリクスが闇エルフの子だからと言って迫害される意味がどうしてもわからない。あるいは、わかりたくない。
「そんな世の中になったらね、きっと。別の誰かが別の理由で迫害される。そう言うものだと思うよ、この世界はね」
「悲観的すぎますよ」
「あなたとタイラントが楽観的すぎるの」
 肩をすくめるフェリクスだった。本当に彼にとってはどうでもいいことなのだろう。そのくせ、魔術師が迫害されない世の中になればいいとは願っている。矛盾するようでエリナードはその理由に思い至り小さく笑った。
「どうしたの?」
「いや、なんと言うか。師匠、自分のことはどうでもいいって思ってるのに、ガキどもが迫害されるのはだめだって言う。らしいなって思って」
「……らしい?」
「そうでしょ? 自分のことより先に人のこと。人って言うか、子供のこと。師匠らしいですよ」
「そんな僕が大好きって言いたいの? 僕もあなたが大好きだよ、可愛いエリィ」
「そんなことは言ってねぇでしょ!」
 にこりと笑ったフェリクスにからかわれたのだと思った、一瞬は。違うとすぐさま悟る。にやりと笑ったエリナードは師の赤く染まった耳を見ていた。
「で、なに買いに行くんです?」
 するりと違う話題に移っていくエリナードにフェリクスは内心で微笑む。タイラントならばここで必ず追い打ちをかけてくる。嫌がってはいないのだけれど、エリナードとタイラント、違う方法だなとは思う。
「干し果物とか、砂糖とか。色々。あと粉も」
「あぁ、菓子、焼くんですか? 星花宮にあるやつ使えばいいでしょうに」
「……僕だってね、エリィ。ためらいがあるんだよ。食べられるかどうかぎりぎりってものになっちゃうのに官物使うのは、さすがにちょっとね」
 自覚はあったらしい。星花宮にあるものは粉ひとつから魔法具に至るまですべてが国のもの。確かに下手に使えば横領だ。
「律儀だなぁ」
 とはいえ、普通はそれほどうるさくはない。ましてとりあえず星花宮の子供たちの口に入るものだ、咎め立てされるようなものではない。
「こういうことはきちんとやっとかないとね」
 不機嫌そうに、あるいは照れくさそうに言うフェリクスにエリナードは目を瞬く。こう言うことを正しく行うのが大人だ、と言われた気がして。
 いつか自分も一人前になるだろう。そのとき星花宮の物と自分の物、どう区別を付けるのかフェリクスに教えられた気がした。
「どうかした?」
「んー、なんと言うか。いつか俺も一人前になるんだろうな、と」
「あぁ、そのことか……」
 人混みを縫いながらフェリクスが行く。それに従いつつエリナードも遅滞がない。なにせこの王都で育ってきている、人混みには慣れたものだった。時折無茶な進み方をするものがフェリクスを突きのけようとし、その小柄な体をエリナードは自分の体で庇う。それもまたいつものこと。そのたびにちらりとフェリクスが笑うのも、そんな師の顔を見なかったふりをすることも。
「あなた、気にしてる?」
 フェリクスが何を言いたいかわからないエリナードではなかった。だから苦笑してしまう。よもやとは思うが師までそんなことを言うかと。案の定フェリクスは首を振る。
「僕がって言うより、他の評価、かな。あなたの同期はもうみんな名前を得てるからね」
「俺は気にしてないんですけどね」
「でもほら、あなたの世代だと一番才能があるのは云々って言われ続けてるでしょ?」
「だからなんです? あろうがなかろうがそんなもん、俺の魔道には関係がないですし、今んところはまだまだ師匠の側で――」
「ふうん、まだ僕の側で一緒にいたいんだ、あなた?」
「だから! そうじゃなくて!? 師匠の側で学びたいことがあるからって! 俺はそう言う意味で!?」
「エリィ、大きな声を出さないで、恥ずかしいでしょ」
 子供をたしなめているかのようなフェリクスの声音。そのフェリクスのほうが頭一つ分は優に小さいのだから笑える。わざとらしく見下ろしてエリナードは溜息をついた。
「まぁ、だから別に一人前にさっさとなりたい、とは思ってませんよ。だいたい、俺がアイフェイオンの名を名乗れないってのは想像してないんで」
「自信家だよね、あなた」
「そんなんじゃないです。事実?」
 それを自信家と言うのだ、フェリクスは笑う。けれど言いつつも違うことを考えていた。それで正しいと。自信でもなんでもない、エリナードの正確な自己評価だとフェリクスは思っている。それを他人が聞けばエリナードには甘いと言われることだろうけれど、あとになれば自分たち師弟が正しいことが証明されるとフェリクスは信じて疑わない。
「ちょっと大人になったかな、あなたも。チェスターともお話できるようになったみたいだし」
「あれは俺が悪いんじゃないです。突っかかられてただけですし」
「それを誘発してたのがあなただと言うことは自覚するように」
 こつん、と背伸びまでしたフェリクスが頭を叩く。師の悪戯にエリナードは小さな笑みを漏らした。冗談に紛らわせてはいるけれど、確かにフェリクスの言う通りではあるとの自覚が彼にもあった。
「いいんだよ、わかってるならね」
 どこでもないどこかを見たままのフェリクスの小声。エリナードはその小さな背中に無言で頭を下げる。首だけ振り向けたフェリクスが笑っていた。
「ほら、危ないですって」
 照れくさくなったエリナードのぶっきらぼうな声。腕を引いて人波から救い出してくれた。不意にフェリクスは思う。あとどれくらいこうして息子と共に過ごせるのだろうと。




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