彼の人の下

 それでもしばらくの間チェスターは書架を眺めているふりをして悩んでいた。これでも子供のころからの長い付き合いだ、別に好きなように言えばいいだろうに、と思いつつエリナードも待っている。
 そうやって待てる自分、というものに少し、笑った。いままでチェスターが食ってかかるよう、エリナードもまたチェスターをからかったのだから。向かい合って言葉を探る、そんな時間ははじめてかもしれない。
「お前、なんでだ?」
 さすがにそれでわかるほど深い付き合いではない。苦笑が顔に出たのだろう、チェスターもばつの悪そうな笑みを浮かべる。
「……もう、お前だけじゃないか」
 それでわかった。チェスターが気を使っていることも。妙な気の使い方をする、とエリナードはつい、笑い声を上げてしまった。それに心底嫌そうな顔をした彼。理解はできるな、と思う。
「俺一人がなんだって?」
「わかってるくせになに言ってんだ。お前と仲のいい同期の連中。お前ひとりだけ残されて、あとは全員が名を許されてるじゃないか」
「だな」
 エリナードは肩をすくめる。気にしたことがない。イメルも気を使ってはくれている様子だったけれど、それも最初だけ。いまはもう同室でいるのは自分のほうが心細いせいだとエリナードも知っている。
「それが、気にならないのか?」
 気にするようなことだったのか、とエリナードは新鮮な思いでいた。チェスターがここまで気を使う。それはすなわち通常の感覚では気にするべきことだ、と言うことなのだろう。
「気にしなきゃなんねぇってのが、わかんねぇんだよ、正直言って」
「なんでだ? あの、お前だぞ。天才の名をほしいままにしたエリナードが、だぞ?」
「はい?」
「フェリクス師の愛弟子、稀代の天才がだ、どうしていまだ弟子の身分に甘んじていられる?」
 唖然とした。チェスターがそんな風に思っていたとは。否、これはたぶんきっと彼の思いではなく、世間の評価だろう。
「誰が天才だよ?」
「お前がだ。なんだ、才能なんかないとでも言うつもりかよ!」
「言わねぇよ。ここまで歩いて来ておいてな、僕には才能なんてありませんってか? どんな嫌味だそりゃ。あるに決まってんだろうがよ、星花宮の弟子なんだから」
 自分もお前も。真っ直ぐとした藍色の目に射抜かれてチェスターは視線を外す。どうやらイメル同様、あまり自分に自信がないのかもしれない。そんなことはないだろうに、とエリナードは思うのだが。
「だったら……なんで……」
 ぎゅっと机の上で拳を握ったチェスターにエリナードは危ういところで笑みをこぼすところだった。なんとかこらえきったのは僥倖というもの。
 エルサリスがはじめてできた弟のような気がしていた。むしろ「はじめてのまともな弟」だとエリナードは思っていた。なにしろ星花宮には弟がいくらでもいる。こうして一つ下の世代に属するチェスターだとて同じこと。年齢は変わらないのだが。これはエリナードが上の世代に属しているせいだ。
 だからこそ、チェスターを弟分、と思ったことがない。面倒なやつだな、と思っても弟扱いしたことがない。チェスターも同様だろう。
 だがエルサリスを思う。彼と知り合い、導き、同じほど自分も進んできた、そんな気がしてならない。エルサリスと共に自分も成長したのだろう、きっと。だからなおさら思う。まだ早いと。
「俺は弟子でしかねぇからだ」
「だってな、エリナード!? お前ほどの腕があって、なんでなんだよ! さっきだってそうだ。フェリクス師に思考を投げるあの精度! 子供たち全員に指先を引っかけておく? あれだけの人数をか!? それができるお前がなんで!」
「なに褒めてくれんの? そりゃありがてぇけど。でもよ、自分でまだまだだって思ってんのに一人前っておかしくねぇ?」
「だからお前のどこが星花宮の名に相応しくないんだって俺は聞いてるんだ!」
 なるほどチェスターは行き詰っているのか、とエリナードは得心した。自分の遥か先を歩いているように「見える」エリナードですら、アイフェイオンの名には遠い。それを思ったとき彼の前には無明の道が見えてしまったのだろう。
「お前、魔剣作れたっけ?」
「それくらいはできる!」
「んじゃ、それでいいか。俺の魔剣だったらな――集え凝れ大気の水、リエル<玉瑛剣>」
 詠唱と共に発動するエリナードの魔剣。美しい水作りの剣だった。師であるフェリクスのそれとよく似て違う、エリナードだけの魔剣。チェスターが仄かな吐息を漏らした。
「これが通常の詠唱なわけよ」
 わかるだろう、と言えば当たり前だと嫌な顔をされた。それににやりと笑い返しておいてエリナードは剣を消す。そして再び。
「リエル<玉瑛剣>」
「なに!?」
「はい、俺は何やったでしょ?」
 悪戯っぽいエリナードの言葉にも気がつかなかったのだろうチェスター。普段ならば食ってかかるところをそれどころではないとばかり真剣な顔。たった一言で再び出現した魔剣を食い入るように見ていた。そして青くなる。眼差しにエリナードはうなずく。
「さっきの呪文を、圧縮詠唱して、高速詠唱」
「事実上の、二重詠唱……か」
「で、俺にはこれが限界なわけ。でも師匠だったらこれ、聞こえない」
「は?」
「俺の二重詠唱、聞こえただろ? 師匠のは聞こえない。これが鍵語魔法である以上、絶対なんかは言ってるはず。でも言ってるように聞こえない。舌打ちでもしたのか程度だ。それこそ事実上の無詠唱だぜ」
 息を飲んだまま絶句したチェスター。気持ちはわかるエリナードだった。秋口に重量軽減の魔法で見せてもらった二重詠唱。やっとここまできたエリナードだった。一つの季節で到達したと言えば他人はやはり色々と言うだろう。が、エリナードは満足できない。上がいる。
「師匠みたいな無詠唱化は、俺にはまだ手が届かない。なんかあるはずなんだけどよ、そのなんかがわっかんねぇんだよな」
 お手上げだとばかり剣を放り投げたままにがりがりと鮮やかな金髪をかきむしる。その背後で剣は蕩けるように消えていく。チェスターは言葉もないままエリナードを見ていた。
 ずっと、天才だと思っていた。いまもやはり、思っている。エリナードにはあふれんばかりの才能があり、だからこそフェリクスがあれほど愛している。
 そう思っていた。違うとはやはり思わない。それも一面の事実ではあるだろう。けれどいま、目の前で見た。
 エリナードの努力を。師に追いつこう、その先を行こうとする彼の魔道を。断じて才能だけではないのだと思い知った。
「……お前、努力してたんだ」
「そりゃ、好きでやってることだし。研究も鍛錬もするだろ、当然」
「見たことなかったからな」
「努力を人に見せてどうするんだっての。そんなもん陰でやりゃいいんだよ。ここまで頑張ったんです、評価してくださいってか? 甘いだろ、それ。結果がすべてとは言わねぇけどよ、結果の出ない努力ほど無駄はねぇだろ」
 切って捨てられた気がした、チェスターは。お前はどんな努力をしているのだと言われた気がした。いま、先が見えないでいる。それをエリナードには感づかれている。その上で彼は言っているのだろう、最善は尽くしたのかと。できることをすべてやった上で言っているのかと。
「……お前みたいな、やつが、その。まだ弟子で、だったら俺はって、思うんだよ」
 エリナードのような天才が。言いかけてチェスターは言葉を変えた。それにエリナードは内心で微笑む。
 才能などあって当たり前。だから星花宮にいる。それをエリナードは疑わない。けれど魔法はそれだけではないと思う。才能がすべてであったのは真言葉魔法の時代。いまは研究が物を言う。チェスターだとてわかっているはずの事実。迷う気持ちだけは、エリナードにはわからなかったけれど。
「俺は好きで弟子やってんだ」
「フェリクス師に、まだ追いつけないから?」
「追いつける気がしねぇんだよ、いまはまだ。事実上の無詠唱ひとつとっても。魔法精度ひとつとっても。どうやってんのか見当もつかねぇ」
 否、見当くらいはついている部分は無きにしも非ず。が、その技術がない。いまだ到達不能の高みにあるフェリクス。その技術を得るためになすべきこと。なすべきことの前に横たわる様々な壁。エリナードには見えている。
「俺はいつか必ず師匠を越える。その先に行く。くたばれクソジジイって言ってやんのが弟子の義務ってもんだろ」
 自分がいるから彼の魔道は続いて行く。そう言えるようになりたい。鼻で笑うエリナードの表情とは裏腹の甘い思い。チェスターこそ鼻で笑った。
「そう言うことを言うからお前はフェリクス師の浮気相手なんだ」
「どーしてそうなんのか、とっくり聞きてぇもんだけどよ」
「言って通じる気がしないから言わない」
 喉の奥でチェスターが笑う。気が楽になったとは言わない。エリナードと自分の間にある技量の壁は厚く、溝は深い。それが理解できただけでも収穫かもしれない、そんなことを思う。
「俺の同期だって……そろそろ名前をってのは、いるんだ」
「へぇ、そっか。早いやつはそんなもんかもしれないな」
「まぁ、外に出る連中だけどな」
 それはそうだろう、とエリナードはうなずく。イメルやオーランドのような例外があるから一概には言えないが、アイフェイオンの名を得て星花宮に残るにしてはいくらなんでも早すぎる。が、市井の魔術師としてやっていくのならば充分な研鑽を積んだことだろう。
「俺は……外に出たいとは思わない。でも……アイフェイオンをいつか名乗れるのかって聞かれたら、迷う。そこまでたどり着くって、即座に言う自信がない。お前は?」
「悪い、迷ったことがない」
「だよな、お前はそう言うやつだよ!」
「だって俺、魔術師になるために生まれたと思ってるもん。俺は魔法のために生まれて、魔法のために生きてる。その俺が現代の魔法の最高峰を目指さない理由がどこにあるよ?」
「……ない、な」
 ここまで断言できるエリナードに感嘆した。己のすべてを魔法に捧げたとは彼のようなことを言うのだろう。
「それもこれも大好きなフェリクス師のために、か?」
「なんでそうなるんだよ!? いや。別に間違っちゃいねぇけどよ」
「間違ってないのかよ!?」
「師匠の先に行かなきゃ話にならねぇんだから間違ってねぇだろうが」
 軽い頭痛を覚えたチェスターだった。けれどなぜだろう、自分が大きく笑い声を上げているのは。目の前にいるのはエリナードだというのに、どうしてこんなに朗らかな気分なのだろう。考えるのを忘れるほど気分がよかった。




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