彼の人の下

 なんのことだろう、と言うようエルサリスが首をかしげる。いまのやり取りに不思議を感じたのだろう。が、二人ともに答える気がなかった。
「よし、エルサリス。質問をするぞ? ――好きな花はなんだ?」
 以前はためらった末に小声でなんとか絞り出した答え。好きなものひとつ答えられなかった自分。エリナードの精悍な笑みにエルサリスは毅然と顔を上げ、微笑む。
「夏霜草が、好きです」
「おう、いい答えだ。イアン卿、好きな花ってありますかね?」
「私も夏霜草が好きだが……?」
「そりゃ幸い。作り直さなくって済みますよ」
 笑うエリナードにエルサリスとイアンは悟る。この日が来ることを願ったエリナードが以前から用意をしてくれていたのだと。
「あ……」
 そして二人同時に声を上げる。エリナードが何かを呟いたとき、彼の掌には飾られた小箱が。それ自体が美術品のような繊細な造りにエルサリスは感嘆の声を上げていた。
「箱はミスティの力作な。中の――」
 見ろ、と言ってエリナードはエルサリスに箱を手渡す。彼の言葉どおり、そこには二つの指輪が。そして指輪を傷つけないよう支えている美しい織模様の布地。箱の内側に描かれた幸福を願う象徴的な絵画。いずれも伝統的な婚姻の模様。
「布はイメルが。中の絵はオーランドだ」
「あなた、うちの子たちの中ではものすごくまともな子だからね。この子たちも可愛い弟ができたって喜んでたんだよ、エルサリス。ちゃんと知ってた?」
 はい、と言うつもりだった、エルサリスは。けれど涙に喉が塞がれて言葉になどならない。こくりとうなずけば、それだけで涙があふれた。
「なんて、綺麗――」
 イアンに見せるよう、エルサリスは指輪を一つ取り上げた。そっと頬を拭っていたイアンは指輪の模様に気づいて目を丸くする。
「なんと……!」
「だから好きな花はって聞いたじゃないですか」
 笑うエリナードだったけれどイアンは驚愕に言葉もない。夏霜草は元々見栄えのいい花ではない。もっさりと固まって咲く花の塊。色味だとて決して美しくはない。それなのにエリナードが作りあげたこれは。
「木蔦は、イアン卿はご存じでしょ? けっこう古くからある婚姻の伝統模様だ」
「木蔦を模した結婚指輪って結構あるよね」
「でしょ、師匠? でもそれだけじゃ寂しいし、間に夏霜草を咲かせてみましたよ。ちょっとした会心作です」
 木蔦の葉で作られた透かし模様。その蔓の間に咲く夏霜草。あの花はこんなに美しくはない、けれどこれこそがあの花の本当の姿だ、そんな気にもなるこの指輪。
「……ありがとう、エリナード。みんなにも、お礼を言っておいて」
「そのうち遊びに行くと思うぜ。そんときにでも自分で言えよ、な?」
「うん……」
 まだ嬉しそうにエルサリスは指輪を見ていた。あるいは彼が慕ったと言う四人の思いを。イアンまで仄かなぬくもりを感じた、ような気がするほどエルサリスは幸福そうだった。
「残念だけどね。僕らは誓約式には参列はできないから。ちょっと早いけどお祝いだよ」
 星花宮の魔術師たちと繋がりがある、と言うのはジルクレスト家にとって大いに有利にも不利にも働く。だからこそのフェリクスの言葉。イアンは無言で頭を下げる。エルサリスを迎えるのだから同じだ、という面はあるけれど誓約式のような公の場に堂々と顔を出すのはやはり、違う。
「ま、だからな。師匠からってことにすると色々あるからよ。――これは俺たち四人からだ」
 言いつつそれこそ堂々とフェリクスの手からエリナードは別の小箱を受け取る。いつの間にどこから現れたものか、イアンは目を瞬いていた。その顔が硬直する。
「これ、は――」
「だから俺たち四人からの贈り物ってことで」
「だが!」
「ま、そう言うことにしておきなよ。ジルクレスト卿」
 フェリクスが肩をすくめてどうでもいいことのよう言った。そのようなはずはない。小箱の中にはぎっしりと宝石が詰まっていた。いずれも色といい輝きといい素晴らしいものが。
「子供の行く末を祈る親の気持ちってことで、快く受け取ってくれると嬉しい――と、師匠は思ってますよ」
 にやにやしながらエリナードが言った瞬間、なぜか彼がずぶ濡れだった。そっぽを向いたままのフェリクスが不思議と真っ赤になっている。エルサリス一人、くすくすと笑っていた。その間にも濡れ鼠のエリナードが乾いて行く。イアンには驚くことばかりだった。
「あぁ、フェリクス師。お願いがもう一つ、ありました」
「……なにさ」
「あの、お願いと言うよりは、お詫び、でしょうか。――このようなことになりましたから、以前お願いしていた私の家は……」
 ぷ、とエリナードが吹き出した。それにエルサリスが不思議そうな顔をする。さすがに今度はイアンにもわかる。
「ほれ、見ろよ。イアン卿はお気づきだぜ?」
「え……イアン様?」
「いや、その――」
「ねぇ、エルサリス。あなた、まだ気づいてないの? はじめから僕はあなたの家なんて探してないよ。元々探してないんだからだめにもなってないし、いまでも探してない」
「え……」
 星花宮を出たのち、リジーと二人ひっそりと暮らすつもりでいたエルサリスだった。フェリクスの言葉の意味が知れるにつれ、みるみるうちに赤くなる。
「いずれ遠からずこうなると思ってたしね。無駄な努力はしたくないんだよ、ただでさえ忙しいんだし」
 あっさりと肩をすくめたフェリクスにエルサリスは何を言えようか。こう言う男なのだし諦めろ、エリナードが朗らかに笑っていた。
「フェリクス師は、はじめからおわかりだったのですね」
「むしろエリィだけどね。僕は恋愛関係は疎いんだよ」
「だから最愛のタイラント師とも四六時中――」
「ねぇ、可愛い僕のエリィ? ちょっとイメルの無駄口がうつってる気がするんだけど僕の気のせいかな? なんだったら氷の彫像になってみる? あなただったら食べちゃいたいくらい可愛いのができると思うんだけど」
「俺を可愛いって言うのは師匠ぐらいだと思いますけどね!」
 ふん、と鼻で笑ってエリナードは胸を張ってその師を見下ろす。小柄な魔術師はにっこりと笑って愛弟子を見上げる。
「薄ら寒いような景色なのにどうしてでしょう。とても温かなものに見えるのは。――あなたがすごしてきた場所、と思うせいかもしれませんね」
「イアン様――」
 見つめ合う二人の前、師弟はいつもならば華やかな言い合いをしただろう。が、さすがに毒気を抜かれたらしい。同時に溜息をついて肩まですくめている。
「エルサリス」
 そして近づいて来たフェリクス。ちょこん、と首までかしげているから本当に少年のよう。けれどこの人にどれほど助けられたのか。エルサリスは感謝と共に見つめ返した。
「幸せになりなね」
 小さく笑うのは照れたせいか。ぽんぽん、と子供にするよう、フェリクスに撫でられた頭。両親に撫でられた経験はなかったけれど、いまこうして与えられ、自ら獲得した家族に似たもの。
「イアン様と一緒に――」
 幸せになります。あるいは星花宮のように幸福な場所を作ります。エルサリスの言葉にならなかった声がイアンに聞こえたのだろう。
「あなたと共に」
 見つめ合い、眼差しをかわし。二人ならばきっと生きる道筋を見つけられる、切り開ける。そんな覚悟。二人の姿に、ここまでの道のりを思ったのかフェリクスが安堵の息を漏らしていた。
「ほんとね、あなたがたには手間がかかったんだし。幸せになってくれないとさすがにちょっとね」
 肩をすくめるフェリクスにエリナードが笑う。エルサリスもイアンも、自分たちの言動が褒められたものでなかったことはよくよく理解している。どことなく困り顔のまま、それでも笑っていた。

 イアン・ジルクレストが伴侶を迎える、という噂は宮廷を多少なりとも騒がせた。貴族が同性の伴侶を迎えるのはさすがに多くない。
 だがそれもすぐに収まった。それだけの事前工作をイアンがしていたせいでもあるし、イアンが知らない別の味方が実はいた。
 おかげでジルクレスト邸で執り行われた誓約式こそ静かなものだったが、それは信仰する神がマルサド神のせいだ。元々武門の家柄だけあって、謹厳実直な神官が誓約式の司祭となってくれた。けれどその後の披露の宴は。
「まぁ、まぁ、坊ちゃま」
「リジーさん、そろそろ旦那様とお呼びするべきでは……」
「あらまぁ、ベルティナさんの言う通り。坊ちゃま、お支度が整っておりますよ」
 嬉しげに立ち働くリジーに苦笑するベルティナ。彼女もまた嬉しそうだった。エルサリスの元で働いていた召使たちはそのままジルクレスト邸の侍女となることが許された。エルサリス付きの侍女、と言うことになるだろう。
「いいから、リジー。少しは落ち着いて」
 すっかりと準備も整い、あとは広間に出て行くだけのエルサリスだった。イアンはいま、どうしているだろう。
 楽しみと不安と。彼は彼で彼付きの侍女が磨き立て、飾り立てている最中だろうと思えばどことなくおかしい。イアンは学者肌だけあってさほど身を飾ることを好まない。それでも今日だけは侍女の言いなりだろうとエルサリスは思う。
「こういうことはやはり、女性のほうが好きみたい?」
 周囲に女性がいるのが当たり前、と言うよりは女性として過ごしてきたエルサリスだ。侍女にたかられ衣装を整えられ髪を撫でつけられ。そうしていてもあまり気にならない。なんと言っても女物のドレスは一人では中々着るのが難しいのだから。部屋着ならばともかく、人前に出るときにはずっとリジーの手を借りて衣服を整えていたエルサリスだ、今更どうと言うこともない。
「そう、でしょうねぇ」
「それに旦那様はお美しくていらっしゃいますから。磨き甲斐があります」
「男の私が美しくても、ね」
 苦笑をすればそんなことはないだろうと一斉に首を振られてしまった。ここはなすがままにいるべきだ、と判断するだけエルサリスは自立してきているのかもしれない。姉の身代わりであったころならばきっと、そのまま流されていただけだったろうから。現象は変わらない。傍目には同じこと。それでもエルサリスの意識が違った。
 イアン付きの侍女がエルサリスを迎えにきたとき、彼女まで息を飲んでいたのにエルサリス付きの侍女たちが誇らしげ。広間に向かう控えの間ではイアンまでもが絶句する。
「イアン様……。その、おかしいでしょうか」
 いささか飾られ過ぎだ、とエルサリスも思わなくはなかったのだ。ジルクレストの人間に相応しくはないと言われてしまうかもしれない。それにイアンは勢いよく首を振り続ける。
「とても……。とてもよく、お似合いです」
 喉に絡んだ何かを払うようイアンはこもりがちな返答。エルサリスが戸惑ったのは一瞬だけ。すぐに仄かな笑みへと変わっていく。
「行きましょうか、エルサリス」
 差し伸べられた手を取る。はい、とうなずいてイアンの手を取る。それだけのことに輝かしい光を見た、そんな気がした。
 美々しいお仕着せを着た召使たちが広間の扉を大きく開き、そして誓約式を済ませたばかりの二人は足を進める。客たちの眼差し。竦んだエルサリスの足だったけれど、イアンに導かれるままに。
「これはなんとも美しいな、エルサリス殿」
 一番に声をかけてくれたのはセシル。今日の日のために休暇を取ってくれた彼女の婚約者も一緒だった。
「ありがとう存じます、セシル様」
 磊落に笑うセシルとほんのりと頬を染めたエルサリス。わずかに客たちの間から失笑が漏れ、イアンは体を固くする。
「主殿のお許しも得ずに押しかけてしまった。一言、祝いが述べたくてな」
 つい、と進み出てきた人影に周囲が息を飲む。イアンは誰だかわからなかったのだろう。が、その衣装に目が留まる。
「誉れ高き近衛騎士、チエルアット男爵キャラウェイ・スタンフォード卿でいらっしゃいます」
 さっと近づいてきた家宰の言葉にイアンは驚く。近衛騎士の紋章も鮮やかな美しい男性。知人ではなかった。
「キャラウェイ、様……?」
「エルサリス、あなたの――?」
「はい。星花宮時代にお世話になりました」
「なに、エリナードに引きずり回されているこの人と話をしただけのこと」
 それでも祝いに来てくれた。エルサリスは込み上げてくるものを抑えかねる。あまり表情の変わらないキャラウェイとイアンがそれでも言葉を交わしている。それを見ているのがたまらなく嬉しくて。
「――私にも伴侶がいる。平民の、男と。双子の、弟とが、私の伴侶だ」
 奇妙に抑揚をつけキャラウェイは聞こえよがしにそう言っていた。イアンははっと気づく。そう言うことかと。
 星花宮か、それともキャラウェイ自身かはわからない。どこからかエルサリスを迎えるという話が国王の元に達したのだろうと。そしてキャラウェイがいまここにいる。
「ご宸襟を騒がせ奉り恐縮いたしております、と」
 小声で言えばにやりとキャラウェイの目が笑った。幸いエルサリスには聞こえなかったらしい。これで国王の追認を得たも同然だった、二人は。それとない使者を遣わせてくれたありがたさにイアンの頭が自然に下がる。それは王宮を向いていた。
「ジルクレスト卿は草花にご興味がおありとのこと。我がチエルアットは自然の豊かな土地です。いずれお二人でおいでください」
 近衛騎士としてではなく、チエルアット男爵として、タイデル子爵とその伴侶を招きたい、と彼は言う。じわり、エルサリスの胸に染み込んできたもの。
「いずれ、必ず伺います。エルサリスと共に」
 そう朗らかに笑うイアンと共に生きて行く。見回せば、育ててくれたリジーが広間の中、立ち働いている。助けてくれたセシルが婚約者と談笑している。
「必ず、いきます。この方と共に」
 キャラウェイには通じたらしい。青灰色の目がほんのりと笑みになった。戸惑うイアンに内緒です、と笑うエルサリス。こうして自分は生きて行く。幸せになる。そっとエルサリスはイアンの手を取り、ふと微笑んだイアンもまた、エルサリスの手をしっかりと握った。



 後年、政争に巻き込まれ亡命の危難に陥ったジルクレスト家は懐かしい顔に再会することになる。
 イーサウと言う新しい国で。




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