イアンには魔力の封印と枯渇、どう違うのかは理解できない。あるいはエルサリスにもはっきりと区別ができているわけではないのかもしれない。ただ、完全に自立したい、その願いの表れとして彼がその行動を選択したのだと言うことだけは、わかった。励ます気持ちで手を取ればほんのりとしたエルサリスの微笑み。 「よし、じゃあ。やろうか」 見てとったのだろう、フェリクスは。そのエルサリスの表情を。その決意が固いことを。一度だけ溜息をつき、そして真剣な顔になる。そのまま体を伸ばしてはぽん、とエルサリスの手を叩いた。師の変化にエリナードがすらりと立ちあがって窓へと。 「おー、チビども。雹降るぞ、雹。あぶねぇから避けてろよ」 大きく開けた窓から下に向かって叫ぶのはそんな長閑なもの。中庭で遊んでいるのだろう子供たちの楽しげな返事が聞こえた。 「おいで、エルサリス」 長椅子から立ち上がり、フェリクスはエルサリスを呼びつつ自分こそが彼の傍らに。そしてはっきりと顔を顰めた。 「フェリクス師。何か、不都合があるのでしょうか」 不安になったイアンの問いに笑ったのはエリナード。少しばかり苛立たないわけでもなかったイアンに申し訳なさそう、エリナードが笑みを浮かべた。 「いや、師匠。ちっちゃいでしょ。エルサリスの頭に手が届かないんですよ、そのままじゃ」 「届かないわけじゃない。別にそこまで小さくない!」 「だからエルサリス、ちょっとかがんでやってくれ。あぁ、それでいい。いや、いっそそのままでいいぜ、お前は座ってろ」 「え……あ、でも――」 「……いいよ、エルサリス。座ってて」 むつりとしたフェリクスの声。イアンは思わず微笑んでしまって氷帝に睨まれる羽目になる。それでもどこかくつろいだ気分だった。のんびりと佇んでいるエリナードのせいかもしれない。危険はない、とその態度で示すような彼の。 そして視線を戻したとき、エルサリスの足元に浮かびあがる文様。何かの魔法だと言うことはイアンにもわかる。ひどく美しい形で、なぜかイアンは植物の成長のようにも見えた。 「エルサリスに危険がないようにね、これが準備ってやつです」 ちらりと笑ったエリナードの言葉にイアンはただうなずくことしかできなかった。魔法陣なのだろうその文様に目を奪われる。 正にそれは魔法陣だった。師の仕事の緻密さに、平静な顔つきのままエリナードは驚嘆している。いずれここまで到達して見せる、そんな憧れ。同時に内心で顔を顰める羽目にもなった。万が一にもエルサリスに危険が及ばないよう、フェリクスは魔法陣内での不測の事態がすべて自分に向くよう陣を構成していたのだから。弟子が見とったことに気づいたフェリクスが小さく笑った。 そして座ったままのエルサリスはじっとフェリクスを見上げていた。その目の中、決心だけはせめて読み取ってほしいと願うような碧。フェリクスは口許だけで微笑み返す。そっとエルサリスの頭の両側を手で包んだ。 「星花宮の魔導師、カロリナ・フェリクスの名において。エルサリス・ドヴォーグの魔力を枯渇せしめん。この者二度と再び魔力持つこと能わじ」 危険を伴う、と聞いていたせいだろうか。イアンはもっと禍々しいような、恐ろしいようなものを目にするのかと思っていた。 だが。フェリクスの静かな詠唱と共に現れたのは優しい霧。エルサリスの体から立ち上り、床に渦巻く。 「エリィ」 合図だったのかもしれない。次第に増えていた霧がエリナードのかすかな一言で動きをつけられる。イアンが目を瞬いたときには霧は窓辺に。 そしてそのまま今度はフェリクスが何かを言った。霧が少しずつ動きを速めて行く。あ、と思ったときにはいまだ開かれたままだった窓から天空へ。高く、高く。どこまでも高く。 息を吐いたのは誰だったのだろう。緊張していたのかもしれないフェリクス。あるいはエルサリスの安堵。 「大丈夫です、イアン様」 気づいたときにはイアン自身の大きな吐息。エルサリスに励まされて、これでは逆だと知らず苦笑していた。 「わぁ!」 そして、歓声が聞こえた。中庭から。高く澄んだ子供たちの声。何事かと驚いたイアンはもう一度、驚く。 「だから雹が降るって言ったでしょうが」 どことなく楽しげなエリナードの声。悪戯が成功した、とでも言いたげなそれにイアンは驚愕が隠せない。これが星花宮の魔術師か。はじめて理解した気がする。 イアンには何かが理解できたわけではない。ただ、前後関係から察しただけだ。エルサリスから魔力がなくなったこと。そしてフェリクスの手によって雹が降らされたこと。その不思議さ偉大さ。打ち砕くようなフェリクスの長い溜息だった。 「エリィ、雹はないじゃない、雹は。おかげでわざわざ高空で弾ませる羽目になったんだからね、わかってるの。あなた?」 「でもチビども、楽しそうですよ?」 ならば師として本望だろうとでも言いたげに笑っているエリナード。弟子の態度に肩をすくめ、それでもどこか満足げな師。 「あなたが、学んでいたのはこの、星花宮なのですね。エルサリス」 「えぇ……。巣立ってからまだほんの少しだというのに。とても懐かしくて。私にとっては、実家のようなものです」 「あなたの新しい家が安らげる場所になれるよう、最大限の努力をします。約束します」 「いいえ、イアン様」 そっと首を振り、エルサリスは微笑む。強張ったまま自分を見つめるイアンの眼差し。姉の身代わりであった当時には彼のこんな顔を見たことはなかった。それを知ることができたのが嬉しい。彼は自分を知らないと言うけれど、自分もまた彼をよく知りはしないのだと改めて思う。 「一緒に、作りあげて行くことができれば、と思います」 はっとしたイアンと、まだそんなことを言っているのかと言わんばかりのフェリクス。双方を見やってエルサリスは微笑む。 自分の中から魔力が完全に消えているのを感じていた。心に思うだけで途轍もない不安感がやってくる。 「だろうね、エルサリス。あなたは自覚はなくっても生まれてからずっとその魔力と共にあったんだよ。自分の一部を切り離したわけだしね」 「それに、魔力持ちってのはそれで無自覚に感覚を補ってるところがあるからな。いま、急に暗くなって耳が遠くなったような、そんな気がするだろ?」 「……はい」 「すぐ慣れるよ」 慣れなければならない、それをエルサリスは理解していた。これは自分の選択。生きるために踏み出した一歩。 「さすがフェリクス師、と申し上げればいいのか。危険なことなど、ありませんでしたから」 イアンは自らの決断にもかかわらず頼りない気分になってしまったのだろうエルサリスのため、強いて明るい声を出す。それを彼が優しい眼差しで見ている気がした。 「違いますよ、ジルクレスト卿。これは師匠の技量が途轍もなく優れているからです。危険は危険でしたよ? なにしろ、言ったじゃないですか。エルサリスの一部なんだから、魔力も」 要は指を切り落としたようなものだ、とエリナードはあっさり言い放つ。エルサリスは感覚的に理解していたのだろう、少しばかり青い顔ながら応ずるよううなずき返す。 「エルサリス、あなたは――」 「大丈夫です、イアン様。エリナードは、大袈裟なんです。私、フェリクス師をご信頼申し上げていますから。フェリクス師に間違いなど、ありませんし」 「普通は封印で済ますもんなんだぞ、エルサリス? 師匠にちゃんと頭下げろよ」 「偉そう、エリィ」 ぼそりと言うフェリクスにエリナードが肩をすくめた。その頬がほんのりと赤くなっていて、兄ぶったところを師にからかわれたのだとイアンは知る。そしてフェリクスこそ、そんなエリナードを見ては嬉しそうに微笑んでいた。 「フェリクス師には、何度お礼を申し上げても――」 「言ったでしょ、エルサリス。あなたはうちの子。子供の面倒は親が見るもの。独り立ちするまでは親の責任でしょ」 エルサリスにその言葉がどう聞こえたか。はらはらとイアンは彼を見つめる。エルサリスはただ嬉しげに微笑んでいた。 「フェリクス師、伺っても? 先ほどの雹が、私の魔力なのですか?」 「ちょっと違うね。魔力を物質化させたのがさっきの霧。僕は水系だからね、あのほうが扱いやすいし」 「で、そのまま霧をほっとくわけにもいかない。かと言って放り出すとここは星花宮だからな。魔法事故が起きかねねぇ」 「だから上空に放り出せば、この時期だし。雪でも降るかと思ったんだけど。エリィのせいだよね、わざわざ雹にさせられちゃったよ」 「だから師匠!?」 「別にいいよ、楽しかったからね」 にこりと笑う師にエリナードがたじろいだ。三年の間見慣れた光景だった。エルサリスはこれが家族を懐かしいと思う感覚なのだと知る。 「イアン様。――イアン様と私と。セシル様と。セシル様のご婚約者もいらっしゃいましたね。他にも大勢。みなで、こんな風に生きて行かれたなら……」 「どんなに日々が明るいことだろうと私も思います」 「……はい」 ほっとして、そして莞爾と微笑むエルサリス。イアンは気づけば見惚れていた。女の形でなくなったのはまったく気に留まらなかった。そしていま、それなのにいま。 「また、あなたに一目惚れをした。そんな気分です」 呟いた言葉にエルサリスが耳先まで赤く染めた。くすくすと笑うフェリクス。にやにやするエリナード。それでもイアンは幸せだった。 「エルサリス、嫁に行くんだろ? 指輪作ってやるよ」 「語弊があるでしょ、エリィ」 「誓約式を執り行うのかって言うより早いじゃないですか」 「まぁね。認めるけど」 ちらりと笑うフェリクスにエルサリスはどうしようとばかりイアンと顔を見合わせる。イアンの緑の目が笑っていた。 「あなたのいいように。兄に当たる人に作ってもらう、と言うのもよいものでしょう。それに星花宮の魔術師殿だ。御利益がありそうですよ、エルサリス」 冗談を言うイアンにエルサリスは驚いたらしい。それから本当に、とイアンを覗き込む。それにはしっかりとうなずくイアンだった。 「俺は魔術師だから御利益はないと思いますよ? でもイアン卿が許してくださるなら――」 「あなたにお願いをしたいと思う、エリナード」 にこりとイアンは微笑んだ。エリナードに対して嫉妬の炎を燃やしたことが一度ではない。今後ももしかしたら、あるかもしれない。 「じゃ、そうさせてもらいますかね」 口許だけで笑うエリナードはイアンの心すらわかっているかのよう。それでもかまわない、エルサリスを幸せにしてやってくれるなら。そんなエリナードの思いが不意に聞こえた気がした。うなずくイアンにエリナードの笑み。 |