彼の人の下

 二人は星花宮にいた。
「フェリクス師にお願いがあるのです」
 そう言ったエルサリスにイアンは微笑んでうなずいた。何を求めているのか、話を聞いてもよくはわからない。それでもエルサリスが「望んだ」という事実が大切だとイアンは思う。
 本来エルサリスはすでに星花宮とは無関係。だがかつて星花宮で学んだこと、そしてイアンが爵位ある貴族であることが功を奏し、さほどの困難もなく訪問の許可が出た。だから二人は星花宮にいる。
「うん、いい顔になったね」
 応接室と思しき部屋で待っていた二人の元、入って来たフェリクスは開口一番にやりと笑ってそんなことを言った。それには思わず頬を赤らめるエルサリスだ。
「そういうこと言うからガキどもに嫌われるんでしょうが」
 嘆かわしげに言ったのはエリナード。エルサリスはまた彼との会見も望んだ。イアンとしては若干、気が気ではない。そんな彼に気づいたのだろうエリナードが師とよく似た顔をして笑う。
「それって誰のこと? 僕は子供たちに嫌われてはいないと思うけど?」
「さてね。誰のことでしょーねー」
 ふふん、と笑うエリナードだったけれどエルサリスですら知っている。星花宮の子供たちはみなフェリクスが大好きだと。くすりと笑った声が聞こえたのだろう、フェリクスが肩をすくめていた。
「それで?」
 主客が席につき、茶など飲んで一息ついた後のことだった。そろそろ本題に入ろうとばかりフェリクスが眼差しを上げたのは。それにエルサリスがはっきりと顔を上げる。
「お願いの儀があってまいりました」
 今日のエルサリスはイアンが調えた一見貴族風の胴着姿だった。艶やかに撫でつけられた銅色の髪は星花宮時代とはまるで別人。口調も声も完全に男のそれだった。
「そんなに堅苦しく言わなくってもいいよ。言ったでしょ。うちの子なんだから、あなただって」
 すでに星花宮を退出している彼だけれど。フェリクスの言にエルサリスの目許がほころぶ。イアンはふと思う。
 彼の両親はいまだ不幸なことに健在だ。いまなおドンカ神殿の監視下にある。更生したとは聞いていない。だがエルサリスには少なくとも父親に値する人物がここにいるのだ、と。
「はい……」
 フェリクスは察していたのかもしれない。ほんの一言ではある。が、星花宮に来るまでの間エルサリスが必死になって男の口調で嘆願をしようと考え抜いてきたのだと。
「無理することはないだろうよ。お前はお前。だろ?」
「でも――。いままでのような口調では、イアン様に恥をかかせてしまうかもしれないと思うと」
「エルサリス、そんなことはありません。私のことは放念していただいて結構ですとも」
 フェリクスとエリナードの前だと言うのも忘れてイアンは彼の手を取る。すぐに変われるものでないのは当然のこと。イアン自身、自らのこととして実感している。ならばエルサリスとて。彼がためらいがちでなくなるのはまだまだ先のことだろうと。こほん、と咳払いの音がして、慌ててイアンはエルサリスの手を離した。それをフェリクスが悪戯のような眼差しで見ていた。
「あのな、エルサリスよ。お前、自分の口調が女っぽいって気にしてるみたいだけどな。けっこうそうでもないぜ? リオン師、覚えてんだろ。あの人だって喋り方は丁寧だぞ。似たようなもんだと俺は思うけど?」
「うん、リオンと一緒ってのは気に入らないけど。でもエリィに同感。最初のころに比べれば女の子って感じはなくなったね。普通に丁寧な喋り方になってる。声も、やっと戻したんだ?」
「あ……はい」
「その方がいいね。喉に負担がかかるよ、前の話し方は」
 それだけのことだから好きならば元の話し方でもかまわないのだと言うようだった、フェリクスは。そっけない言いぶりの中、イアンは師の愛情を聞いた気がする。視界の端、エリナードが満足そうに師を見ては微笑んでいた。
「それでお願いってなに?」
 お父さんに言ってご覧、そんな彼の声が聞こえるようでイアンもついに微笑む。エリナードなど思わずと言った様子で吹き出していた。気づかず真剣なのはエルサリスだけ。
「私の……、魔力を取り去っていただきたいのです」
 イアンはだから星花宮に行きたい、フェリクスと面談したいと言われていたから驚かない。逆に二人の魔術師が顔色を変えたのが不思議なほど。
「フェリクス師。エルサリスより話は聞いていたのですが、意味がいま一歩よくわかりません。教え願えますでしょうか」
「ん……、そう、だね」
 しばしの間フェリクスは天井を見上げていた。イアンはその間に不安が募っていく。平静な顔つきのままのエルサリスが不思議だった。
「危険を伴うことではあるんですよ、魔力を枯らすってのは」
 ぼそりと言ったのはエリナード。はっとしてエルサリスを見やればぎこちなく微笑んでいる。大丈夫、と言うように。信じられなかった。
「エルサリス、お尋ねしても? なぜ、そんな危険なことを望むのですか」
「それは、その……。イアン様と……、その。ですから……」
 ちらりとエリナードを見やったのはまだ考え込んでいるフェリクスと違い、彼にはこの言葉が聞こえているせいだろう。恥ずかしがっているのはわかるが、イアンとて人間だ、癇に障らないわけでは決してない。それをまたエリナードが笑うからしなくともいい嫉妬をする羽目になるとエリナードは知っている気がしてならなかった。
「誓約式の約束でもしたか?」
 単刀直入なエリナードの言葉。ぽ、と赤くなったままエルサリスはこくんとうなずく。羞恥に耐えかねているらしい。ほんのりとした眼差しだけがイアンを捉え、それだけで嫉妬など馬鹿馬鹿しくなる。イアンはそう思う自分を内心で笑った。
「なるほどな。つまり?」
「えぇ……。私の、覚悟、かもしれません。いえ、覚悟、です。イアン様と、生きて行く。その覚悟のために、私は……変わりたい」
「だったら枯らす必要はないぜ? 封印で充分だ」
 その方が安全でもある。かつてのよう、魔力制御ができないわけではないエルサリスだ。ならば封印しても日常生活に障ることはない。言うエリナードにイアンもそうしてもらえばいい、うなずきそうになる。だがエルサリスの目。碧の目が真っ直ぐにエリナードを射抜いていた。エリナードはその藍色の目でエルサリスを受け止める。二筋の眼差しに、ふとフェリクスが視線を戻した。
「エリィ、喧嘩しないの」
「子供じゃないんですから。喧嘩じゃないでしょうが」
「してたでしょ。エルサリス、でもいいことだからね。あなたは自分の意志を通すってことをようやく学んだわけだし」
 はじめて自分のしたことに気づいたのだろうエルサリスだった。驚いたよう目が丸くなり、次いでほんのりとした笑み。それにフェリクスが嬉しそうに笑った。転じて眼差しはすぐに厳しくなる。
「でもね、エリィが言った通りだよ。危険なことだ。封印じゃなくて枯渇を望むのは。僕ら魔術師が魔力を枯渇させる相手って言うのはね、エルサリス。犯罪者だよ。じゃなかったら、今後魔力を使った犯罪を犯す可能性が極めて高い相手だ。いまのあなたはもう理解しているはず」
「そういうの相手だったら枯渇させるのに遠慮なんかしないしな」
「だよね。準備もなんにもしないよ? ばっさりいきなり枯らす。だって廃人になってもどうでもいいからね。――そう言う相手にするんだよ、枯渇って言うのは。あえてそれを望むのは、どうして?」
「……他愛ないこと、だと思うのです」
「たとえ他人にとって他愛ないことでもあなたには大事なことなんでしょ? いいから言いなよ」
 ぶっきらぼうな言葉の中、エルサリスはフェリクスの愛を聞くのかもしれない。イアンにすらそれは聞き取れたのだから。
「……イアン様と、多少の行き違いがあったのは、エリナードからお聞き及びのことと思います」
「多少? あれが多少なら僕とタイラントの喧嘩は赤ん坊のそれだよね」
「……どっちもどっちだと思いますけどね。――いいから続けろ、エルサリス。この人の戯言は聞かなくっていいから」
 酷いことを言うね。フェリクスが愛弟子を睨む。睨まれた当人は涼しい顔をして笑っていた。星花宮で見慣れた景色にエルサリスは意を強くして話を続ける。
「あの時、私はエリナードに頼ってしまって」
 絶叫のような悲鳴だった、エリナードは思い出して顔を顰めたくなる。エルサリスは決して魔力が強くはない。それこそ未訓練のまま二十歳に至るまで無自覚に制御できていた程度でしかない。七歳にして暴走寸前の魔力を抱えたエリナードとはわけが違う。その彼がジルクレスト邸から星花宮まで声を届かせるとは、どれほどのことだったか。イアンには決してわからないだろう。
「私……。もう、あんなことはしたくない……」
「どうして?」
「だって……。イアン様と生きて行きますから。なにかあったからといって、すぐにまたエリナードに頼ってしまったりしないように。だから」
 悔いになっているのだろう、今となっては。あの日エリナードに縋ってしまったことは。仕方ないことだったと言ってもエルサリスは聞かないだろう。
「あれは、あなたの咎ではないと、私は思います。悪かったのはあなたではなく、私でしょう」
「ジルクレスト卿が励ましてるのはわかるけどね、僕にも。でもね、経験談として言わせてもらうと。そう言うときってどっちが悪いんじゃないんだよ。両方とも悪いの、わかる?」
 エリナードのぼそりとした呟き。自覚があったのかとの声にイアンは呆気にとられ、エルサリスは驚いた末に笑いだす。意外と星花宮での生活は楽しいものだったのだとイアンはなぜか安堵した。そんな自分が少し、嬉しくなる。
「エリィを簡単に呼ばないようにって言うけどね。そもそもあなたが泣くような思いをしなければ済むわけで。だいたいエルサリス、わかってる? あなたの魔力は弱いよ。ましてあなたは魔力があるだけの素人だ」
「え――?」
「そのあなたがね、星花宮の結界突破してエリィに声を届かせたって、そんなことが一生で二度もあると思うの? ないと思うよ、僕は」
 不慮の事故、あるいは類い稀なる例外。フェリクスの断言にエルサリスはほっとする。それでもまだ、どうしても。ちらりとエリナードが笑った。
「師匠、諦めた方がいいですよ。知ってるでしょうが。こいつは意外と頑固ですからね」
「知ってるけど。危険を伴うことなんだし子供たちを危ない目に合わせたくないのは親の心情なんだってば」
「どっちかって言えば母親のね。父親でもあるんだし、とりあえずは子供のしたいようにさせてやったらいいじゃないですか」
 む、とフェリクスが唸る。それほど危険なことならばやはり止めたくなる。イアンの眼差しを読み取ったエリナードが悪戯のよう片目をつぶる。やはり師の顔によく似ていた。
「しょうがない、かな……。エルサリスの気持ちもまぁ、わからなくはないかなってところではあるし」
 長い溜息だった。ほっとしたエルサリスと緊張するイアン。大丈夫だとエリナードが請け合っていた。




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