彼の人の下

 そして入ってきた青年にイアンは呆然とし、セシルはにやりと笑う。美しく整えた髪、よく似合う栗色の衣装。いずれも男の身なりに改めたエルサリスだった。
「――薬草茶をお求めと聞きましたので、調合を任せていただきました」
 堂々と、と言うにはいささかためらいがちな足取りだった。それでもエルサリスはしっかりと二人の前まで歩いてくる。
「セシル様には香草茶を。味見をしていただけると嬉しく思います」
 にこりと微笑んで茶を差し出す。強張った口許をしていた。イアンはそんな彼をまだ見つめ続けている。はじめて見たエルサリス、それでいてずっと知っていたような気がする彼。
「おや、嬉しいな。ありがとう」
 セシル一人が緊張もなく笑う。それがエルサリスにどれほどの力を与えているのか。彼女は知っているのだとエルサリスは思う。そうして励ましてくれている彼女の心を感じた。
「いい香りだ。イアン殿も試してごらんになったらいい」
「え……、あぁ。そうですね、ありがとう、エルサリス」
「……いえ」
 イアンの前に茶を置き、所在なく立ち尽くすエルサリスをそつなく座らせたのもセシルだった。一瞬だけエルサリスは拒もうとした、イアンの隣に座すのを。が、セシルが笑顔でその行動を封じる。最後には小さく笑ってセシルに肯う。
「本当に、いい香りだ」
 薬草茶がイアンはさほど好きではない。どうにも薬臭いと言おうか、薬効があるのは認めているのだが、美味と思ったことが一度としてない。だがエルサリスのそれは。
「……よかった。――星花宮で学んだことが一つ、役に立ちました」
 ほっとしたエルサリスだった。ジルクレスト家の召使に無理を言って用意をさせてもらった甲斐はある。イアンのそのかすかな笑みを見ているだけで本当に。
「星花宮では茶の淹れ方まで習うのか? それはなんとも言いようがないね」
「いいえ、セシル様。植物学を学びました。その過程で薬草や香草のことも。――友人が色々と処方も教えてくれて」
 飲みにくい茶を無理して飲んでもいいことは何もない、と星花宮の魔術師たちは言う。神官が処方する薬ならば話は別だが、日常的に飲んでも問題のない程度の効能しかない薬草茶ならば美味に越したことはないだろうと。
「なるほど、合理的な考え方だな」
 それにしても旨い、とセシルは口許をほころばせる。セシルは薬草茶はおろか、香草茶も好んでこなかった。青臭い臭いが苦手だったのだが、エルサリスの茶は口にあう。
「さて、エルサリス殿。そのポットをいただけるかな?」
「え、あ。はい。お淹れいたします」
「違うよ、エルサリス殿。私は退散しようと言っているのさ。イアン殿とちゃんとお話になるといい」
 言った途端だった、エルサリスがぽっと頬を赤らめたのは。こうして男の形に改めても彼は美しい、セシルは思う。目に楽しい美だった。
「そうそう。その格好、とてもよく似合っているよ。イアン殿もそうお思いでしょう?」
「もちろんです!」
 勢い込んで言うイアンにエルサリスは目を向けられないでいる。それが微笑ましいと思いつつセシルは片目をつぶって居間を後にした。
「……イアン様」
 しばしの間、沈黙が続いた。互いに何を言っていいのかわからないのだろう。あるいは言いたいことが多すぎて。口火を切ったのは意外なことにエルサリスだった。
「はい」
 はたと顔を上げ、イアンは真正面からエルサリスを見つめる。そこにはかつての婚約者に酷似した女性ではなく、思わず居心地が悪くなるほどの美しい青年がいた。
「――申し訳ありませんでした」
「何を! どうしたのです、エルサリス」
「私のせいで、お体を損ねさせてしまいました。――ご心配をおかけして、お待たせして……」
 きゅっと唇を噛んだエルサリスの手をイアンは自然に取っていた。先ほど気後れしたのなど忘れた顔をして。
「あなたのせい、と言うのは感心しません。私自身の咎です」
「いいえ!」
「……三年、あなたを待っていたつもりでした。が、ここに来てようやく私は理解した、つもりです。私は、あなたを待っていたわけではなかった」
 握った指先が急に冷えた気がしてイアンは慌てる。誤解を招く表現だったと気づくも遅かった。そうではない、と必死に首を振れば、どこか頼りない顔をしたエルサリスがそっと微笑む。
「あなたを待っていた、つもりになっていた、のだと気づいたのです。ようやくあなたを待つことを私は覚えました。たった十日です。あなたを悩ませた年月に比べれば、どうと言うこともない」
 あえて言うのならば、そんな自分の不甲斐なさに体を壊した、それだけのことだとイアンは思う。決してエルサリスのせいではない。
「それに、これも誤解を招きそうですが……。あなたの召使たちがとても楽しそうにしていましたから。あなたに不都合が起きている心配だけは、しませんでした」
 棟が別れているとはいえ、同じ屋敷内のことだ。イアンとて何度となくベルティナやリジー、その他の彼に仕える者たちを見かけている。いずれもが嬉々として立ち働いていた。
「――みなが私を飾りたてるのに夢中で。お恥ずかしく思います」
「とんでもない。その、とても……よく、似合います」
「いえ――」
 セシルがいてくれたら、とイアンは情けないことを思った。二人きりになってしまって、どうにも会話が続かない。言いたいことはいくらでもあるはずなのに。
「声も……はじめて聞かせていただけましたね」
 あ、とエルサリスが顔を赤らめた。イアンの元に現れるにあたって、エルサリスはリジーたちと練習をしたとおり、声も本来のものに直している。知らずエルサリスは身じろいでいた。
「それがあなたのお声だったのですね。――エルサミア殿に似せた声より、私は、その……好ましく思います」
 なんとかそれだけを言いきればエルサリスが顔を伏せる。恐る恐る横目で窺えば、伏せた眼差しのままエルサリスは耳まで赤くしていた。が、意を決したよう顔を上げる。
「――これが、私です。イアン様がご存じのなかった、私です。本当の私であるのかは、わかりませんが。女の形ではない、こうありたい私に少し近づいた、私だと思うのです」
 これが自分自身だ、と言えるだけの思いがエルサリスにはまだなかった。「エルサリス」とは何者で、どんな生き方をしたいのか、彼にはまだわからない。それでも「エルサミア」ではいたくないと決めた。結果が、この形だったような気はする。
「イアン様は、男の私を目の当たりにされて――」
 彼が知らなかった男の自分。求愛までしてくれたけれど。エルサリスは震える唇を隠しもせず、イアンを見つめていた。そのイアンが小さく笑う。
「これもやはり、酷い言い分だと思うのですが。――私はきちんと物を見ると言うことをしていなかったのでしょう。元々あなたとエルサミア殿の区別がついていなかったのですから」
「――ついていたら、困ります」
「それでもです。そもそもが男女の双子。まして愛したあなただ。その気になればわかったはずだと思います。――それなのに、区別ができなかった」
 当然だとエルサリスは思う。だからこそ、成人してからも身代わりを務められてきたのだから。エルサリスは男にしては線の細いほうであったし、エルサミアは女にしては長身だった。それが不幸のはじまりだったのかもしれない。
「ですが、以前も申しました。私が愛したのはあなただと言う確信があります。ですから、私は見目形であなたを見ていたのではないと、思うのです」
 散策をしていたとき。共に本を覗いていたとき。かわす言葉眼差し。それがイアンが惹かれたものだと彼は思う。
「見目形で区別がついていなかったのです。――あなたの外見が変わっても、私は問題を感じていません」
「ですが――」
 反論をしかけて、けれどエルサリスは言葉を失う。何を言いたいのかわからない、と言うよりも言いたいことなどたぶんない。おそらくは、ただひたすらに恥ずかしいだけ。
「――私は、幸せを求めてはならないのだと思っていました」
「そんなことはありません」
「えぇ、みながそう言ってくれました。殊に乳母は何度となく言ってくれていたように思います」
 そのとおりた、と力強くイアンはうなずく。反対に、自分がただ求めすぎていたのだと思い出しては内心で羞恥に震える思いでもいた。
「求めていいものだと、知らなかったのです。――三年というもの、フェリクス師が、あるいは友人たちが教えてくれていたのは、こう言うことだったのだと、少しわかった気がします」
 イアンの手を求めたい。できれば彼と生きて行きたい。心の中、ようやくの思いで形にした、それがエルサリスのいまの願い。
「エルサリス」
「はい」
「改めて、お尋ねいたします。私の伴侶になっていただけますか? ――私はこの通りの愚か者です。あなたに求めすぎることが多々あるでしょう。できる限り改めます。あなたを傷つけることすら、あるかもしれません」
 エルサリスはうなずかなかった。イアンに傷つけられることが想像できない。愚かだとも思えない。だから真っ直ぐとただ彼を。
「――それでも私は、あなたを、エルサリスを、思い切ることができません。いずれ私が行った多少の無茶があなたの耳にも入ることでしょう。それでも、どうしてもあなたを諦めることが、できなかった。愚かな私とお笑いください」
「……いいえ。笑いません。――愚か者は私こそ。生きてすら、いなかった私なのですから」
「ではエルサリス、これから私と共に生きてくださいますか?」
 微笑んだイアンはエルサリスの返答を確信していたのかもしれない。そしてそんな自分に気づいたのだろう、内心で溜息をつく。
 まただった。どうして自分はこうなのだろうか。エルサリスの感情を己が決めてはならないというのに。求めすぎてはならないといま口にしたばかりだというのに。
「イアン様」
 ふっとエルサリスが微笑んだ。まるでイアンの心の動きを知ったかのように。そして取られていた手を握り返す。ようやくの思いで口にしたイアンへの返事はあの日の夏霜草のよう控えめで、けれどその香りのように鮮烈だった。




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