彼の人の下

 晩餐が終わり、今日もエルサリスは姿を見せない。それでもイアンは落ち着いたものだった。居心地のよい居間に移り、セシルを前に様々な話をしている。なにしろセシルがこの家に迎えられてからそう時が経っていない。ジルクレスト分家の出身であるだけにまったく馴染みがないと言うわけでもなかったけれどセシルには本家のしきたりや執務、わからないことがいくらでもある。
「落ち着いていらっしゃいますね、イアン殿」
 元が学究肌なイアンのことだ、どうしてもこうして話をすれば講義調になってしまう。が、セシルは悠然としたものだった。当主の前で軽く足まで組んで座っている。
「そうでもありませんよ」
 それを咎めるでもなくイアンは苦笑していた。エルサリスに求愛してからすでに十日。彼は滞在している棟から一歩も出てこない。散策が好きであった彼なのに、庭にすら出ていないのだ。心配なのは当然だった。
「このところ薬草茶の世話になっています」
 それでもイアンは微笑んでいた。胃のあたりが痛むのだろう、わずかに手を当てて見せたりするけれど、セシルにはどうにも演技くさいような気すらするほどに彼は平静だ。
「以前ならばそう……イアン殿はもっとあれこれとエルサリス殿をかまったような気がするのですよ」
「そうですね。そのとおりだと思います」
「ですから今のあなたは落ち着いていらっしゃるな、と思うのです」
 傲然と微笑むセシルだった。これではどちらが当主で、それ以前にどちらが男性かわかったものではない。
 それをイアンは咎めようと思ったことがない。セシル自身のおおらかな性質もあるのだろう、だがそれ以上に彼女の果断さが羨ましくもあったのかもしれない。そんなことを思うようになった。
 彼女は分家の中でも浮いた存在だった。本来であるのならば分家の娘だ、イアンが妻を娶るとなったときに候補に挙がってもおかしくはない。他家の娘を娶るほど政治力も経済力もないジルクレスト本家だ、セシルの名が出なかったのは不自然ですらある。
 その理由が、これだった。男児として育てられたセシル。娘の年齢となっても一向に改めることのない態度。これでは婚約の目途も立たないと嘆く親を尻目に本人は生き生きと生きていた。
 結果として、イアンはそこに目を付けることになる。聞けばセシルには思う相手がいるとのこと。ならばその男込みで本家で面倒を見る。話を先に通したのはセシルの親ではなく、セシル本人だった。
 変われば変わるものだとイアンは思う。エルサミアが貴族女性に相応しくない態度をとる、とたしなめたこともあった自分。セシルだとて「貴族女性として正しい」生き方では断じてないはず。それでもエルサリスを迎えるために致し方なくセシルを迎えた、のでは決してない。セシルならば、と迎えた。物の見方感じ方が変わったせいだ、とイアンはやはり思う。
「あなたの爽やかさ、決断力。私にはいずれも羨望の的ですよ、セシル」
 言いつつもイアンは笑う。心配してくれているらしいセシルに大丈夫だと言うつもりで。それに彼女はかすかに眉を上げて見せた。
「あなたはあなたでしょうに。私はイアン殿にはなれないし、そうなればジョエルが大変に困ることになるでしょう」
 婚約者の名を出してセシルは笑う。もっともだ、とイアンもまた笑う。それでもやはりイアンには影があった。
「――私はようやく、待つと言うことを覚えた気がするのですよ」
「だから落ち着いて待っている、と?」
「そうできればよいな、というところでしょうね。――エルサリスが星花宮で学んでいる間、ずっとフェリクス師に言われていたことがやっとわかった、そう思います」
 待ってほしい。エルサリスの気持ちを汲んでほしい。フェリクスは言い続けていた。汲んでいると思っていた。こうして星花宮に乗り込みもしないで待っていると思っていた。
「――エリナードに言われたことが切っ掛けでしょう。私はエルサリスを知らない。もっともです」
「そう、なのですか?」
「えぇ、私が知っていたのは彼でありながら彼ではない人物でしたから」
 セシルもイアンを襲った悲劇を聞き知ってはいる。エルサリスが誰より哀れで、できることならば今後親しくなりたいと思ったのもきっとそのせいだ。あのような思いをしたのだから、これから後の人生は幸福であるべきだ、と。
「あなたはやはり、立派だな」
 自分の思いを語るセシルにイアンは溜息をつく。養女とはいえ、年齢で言うのならばせいぜいが年の離れた妹だ。その彼女が成熟した思考を持っているというのに自分はと言えば。
「イアン殿は学者肌でいらっしゃるからな。なに、私のジョエルも同じこと。彼が書類に向かっているときのあの目のきらきらとしたことと言ったら。代わりに俗事がまったくできないのですよ、ジョエルは」
 しかも剣となれば間違いなく持っただけで怪我をする、セシルは笑って酷いことを言う。それでもジョエルはいま、彼女と共に生きるために騎士団で励んでいる最中だった。
「見ればエルサリス殿も内向的なご様子。ならば他の者がお助けすればよいだけのこと。一族とはそう言うものでしょう」
 胸を叩いて言うセシルにイアンは軽く頭を下げていた。一族の間でもセシルを養女と為すことに反対の者も当然にしていた。そのすべてを振り払い、半ば強引に彼女を迎えたことに感謝したい気持ちでいっぱいだった。
「エルサリス殿は、あまりに優しいお心持ちをしておいでですな」
「まったくです。だから彼は苦労をする」
「おや?」
「そう疑わなくともよろしいでしょうに。――あなたの想像通り、私の言葉ではないが」
「ではフェリクス師が?」
 セシルは星花宮の四魔導師の一角たる氷帝に会ったことがない。噂話だけではさぞかし恐ろしい人物だろうと思うのだが、案外そうではない様子だった。
「違いますよ、エリナードです」
 言った途端だった、セシルがこらえきれないと言った顔をして吹き出したのは。イアンもまるで町の若者のよう肩をすくめてしまう。
「意外と言ったら申し訳ないが、イアン殿は意外と焼きもち妬きでいらっしゃるんだな」
「自分でも知らない一面でしたよ」
「ではエルサリス殿に感謝すべきですね」
「あぁ……本当に。そのとおりです。彼に出逢って私の世界は広がった」
 書物と植物園で構成されていたイアンの世界。時折社交に勤しむことはあってもそれは貴族としての義務でしかなかった。イアンが好んで過ごしたのはやはり本の世界。
「――エルサリスと共に、色々な本を読み、学問をし、互いに感想を言い合ったり、教え合い学び合う、そんな風に生きて行かれたならば、そう思います」
 呟くよう言うイアンの手指が震えていた。それを隠そうと握り込み、けれど体に衝撃でも走ったか、腹のあたりを押さえる。どうやら本当に胃を傷めているらしい。それをセシルが面白そうに見やっていた。
「不思議なものですね、イアン殿」
 家政の話をし、エルサリスにまつわる話をする。それでイアンは気を紛らわせているのだろう。それがセシルにはわかっていた。
 いまはまだ平民のジョエル。彼と共に生きる道筋をつけてくれたのはイアン。ならばせめてイアンの心を幾許なりとも軽くしたい。セシルの大らかな笑い声にはそれだけのものが秘められていた。
「何がです?」
 落ち着いて見えているようでいて、イアンの内面は相当に動揺しているのだろう。エルサリスが現れる以前のイアンならばセシルの笑い声に含まれているものに気づいたはず。が、いまはただ首をかしげるだけ。
「これほどのことがあり、迷うこともあったでしょう?」
「そうですね、ありましたよ」
「それでもあなたはエルサリス殿の思いを疑わない。それは尊敬に値します」
 意外なことを聞かされたと言わんばかりだった、イアンは。彼には珍しく大きく目を開けてまじまじとセシルを見つめる。赤々と灯る燭台の炎に照らされ、緑の目が夢のように輝いていた。
「私に、そのようなところがありますか?」
「ありますとも! 長く離れていた、しかもよくよく考えてみれば面識がないも同然の人でしょう、エルサリス殿は」
「……えぇ」
「それでもイアン殿はエルサリス殿の思いがご自身に向けられていることを決して疑わない。それは立派なことだと思いますよ」
 イアンは無言で首を振る。逆のことを言われていた。フェリクスにも、エリナードにも。なぜあなたはエルサリスに愛されていることを疑わないのだとずっと。
「星花宮の方々には色々と言いたいことがおありでしょうよ、それは。なにしろ三年というものエルサリス殿を養育なさってきたのだから」
 イアンはセシルの言葉に心の目を開かされる思いだった。養育してきた、彼女は確かにそう言った。エルサリスを見ればそのような年齢ではないことが彼女にわからないはずもない。それでもなおそう言うのは。
 生家で存在を消されていたエルサリス。はじめからいないものとして、ただ姉の身代わりとしてだけ生きることを許されていた彼。両親に名付けられることもなく生かされていた。
 だから星花宮で確かに彼は「エルサリス」となった。彼として生きはじめた。正にフェリクスが彼を養育してくれた。はじめてそれにイアンは思い至った。
「ですが、それは親兄弟の言い分というものでしょう」
「セシル?」
「エルサリス殿を慈しむならばこそ、イアン殿が不安にもなる。それが親兄弟の言い分、というものです。ですがイアン殿は違う言い分がおありのはず」
 あるだろうか。あるとは思いたい。ただ突き進み、エルサリスの愛だけを盲目的に求めてきた年月。いまもエルサリスの思いを疑ってはいない。が、以前とは違うと言いたい。言えるだろうか。それが不安ではあった。
「愛する人の心を疑わない。できるようで難しいことです」
「あなたはジョエルを疑いますか?」
「それはもう! 私はこれで嫉妬深い質ですから。こうして離れて暮らせば誰かが言い寄ってきてはいないだろうか、私から心が離れてはいないだろうか。不安で一杯ですとも」
 それを胸を張って言うものだからどうにも嘘のよう。それがセシルの虚勢だと幸いにしてイアンは気づくことができた。
「ですから一心に信じることができるイアン殿のお心の強さを私は学びたいと思っていますよ」
 そんな立派なものではない。多大なる迷惑を振りまき、エルサリスを傷つけてきたここまでの道。できることならばあの求愛を受け入れてほしいと震える思いでいるものを。迷い続ける愚にイアンは無言で首を振る。
「そろそろ薬草茶を持ってくる頃でしょうか。ずいぶん遅くなりましたね、セシル」
 うら若き乙女をこんな時刻まで引き留めて学ばせ、あまつさえ雑談につき合わせてしまった。困惑にも似た後悔を浮かべるイアンにセシルもまた黙って肩をすくめる。
「――薬草茶をお持ちしました」
 扉の向こう、従僕らしき声がして、なぜかほっと二人の間に微笑が流れた。




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