彼の人の下

 召使たちが大張りきりだった。エルサリスが身なりを改め、立ち居振る舞いを身につけようとする間、彼女たちは正に奔走していた。
 それも実に楽しげに。賑やかなお喋りの声と笑い顔。貴族の屋敷には相応しくないものかもしれないし、生家でも見たためしのないもの。だがおかげでエルサリスは居心地の悪い思いをせずに済んでいる。
 幸いエルサリスが滞在しているのはジルクレスト邸の中でもいわば客人棟であって、子爵家の人々はおろか、そちらの召使とも今のところ積極的な交流はない。せいぜいが食事の用意を頼んでいるくらいなもの。
「申し訳ないとは思うのだけれど」
 いまはまだジルクレスト家の人々に知られたいとエルサリスは思っていなかった。少しだけ待ってほしい、イアンにはそう言った。彼は微笑んで肯ってくれた。いつまで、と期限を切ることなく。
 それに甘えている形になっているのがまたも申し訳ないのだけれど、とてもこの姿で彼の前に出て行く勇気がいまはまだない。
「……なんと言うか、足のあたりが、その。落ち着かなくて、困る」
 言えばベルティナがころころと笑った。ほんの数日というのに彼女は本当に明るくなった。それにエルサリスもまた救われている。
「まぁ、旦那様。それではドレスをまとった殿方のような仰せです」
 言われて確かに、とエルサリスは苦笑する。日常的に足にまとわりつく布のあるなしは意外と大きなものらしい。いままでドレスか、それに近い長衣を着て過ごしてきたエルサリスだ、こうして脚衣というものを付けるとなんとも落ち着かなかった。
「セシル様に伺ってみたいね」
 男装をして過ごしている彼女はどんな気分なのだろう。ふとそんなことを思う。いままで女装をしていた自分と彼女と。いつか語り合えれば、とエルサリスは思う。
 召使たちは自分たちの主を磨き立てることに熱心だった。みるみるうちに貴公子と言いたくなるほど美々しくなって行くエルサリス。それが彼女たちの目を楽しませているらしい。
「おかげで私も気が楽かな」
 苦笑すれば少しばかりは騒ぎを申し訳ないと思っているのかベルティナが頭を下げる。反対にリジーは大らかに笑っていた。
 そうして過ごしながらエルサリスは最大の難関が残っていることに気づいている。それを遅らせるわけにはいかないことも。だからこそ、ゆっくりと息を吸い、リジーとベルティナだけがいるいま、決心をする。
「リジー、驚かないでね」
 なんでしょう、と言いたげな乳母の微笑み。ずっと傍らにあって支え続けてくれていた人の笑みにエルサリスは意を強くする。改めてもう一度呼吸を深くし、強張った笑みを浮かべた。
「リジー」
 呼び声に、乳母が体を固くした。あっという間に溜まっていく涙。エルサリスはそっと手を伸ばし、その頬を拭う。ベルティナが呆然とそれを見ていた。
「サリス様……サリス様。なんと……」
「その、お声は――」
「――そう、だね。大人の声になってから、はじめてかもしれない」
 エルサリスはいま、はじめて本来の声で話していた。姉と似た作り声ではなく、彼自身の声で。リジーが感極まってぎゅっと彼の手を握っていた。
「声が、大人になって変わって、それを、咎められて。――リジーの前でも、姉と同じ声で過ごしていたから」
「一度だけ、お聞きしたことがございますよ。あの日以来でございます、サリス様」
「そう、とても叱られたね」
 互いに目と目を見かわす主従にベルティナが痛ましそうな顔をした。叱られた、で済んでいたはずはないと彼女もまた知っている。どれほどの暴力を彼は受けたのだろう。抵抗することなく作り声を続けたのはそのせいに違いない。それでもいま立ち上がろうとしている主人のその強さ。ベルティナは静かに目を閉じていた。
「なんだか、とても変だね」
 自分の声のはずなのに、聞き覚えのない声。思えば作り声を命じられてから、たとえ一人きりであろうともエルサリスは本来の声を出そうと思ったことがなかった。
 臆病だった、と思う。けれど仕方なかったとも思う。そうする以外、生きる術がなかった。姉を思うとき、エルサリスはそう感じる。
 あれほど溺愛されていたエルサミア。けれど父にとっては道具でしかなかった彼女。「壊れた」ゆえに見殺しにされた姉。もしもあのとき逆らっていたらエルサリスのいまはなかった。
「坊ちゃまはお強うなられました」
 まだ涙の残る目をしたリジーにベルティナが少々勢いがよすぎるほど激しくうなずいていた。直後にそんな自分に気づいたのだろう、頬を赤らめる。
「本当に、旦那様はお強い。見習わせていただきたいと思うこともしばしばです」
 口々に言う彼女たちにエルサリスは疑問だった。自分のどこが強いのか、まったくわからない。戸惑い立ち止まり、立ち尽くす。いまだに一歩が踏み出せない。
「こうして本来のお姿に立ち返ろうとなさること一つとっても、努力とお覚悟が必要であったこと、リジーにはわかっておりますよ」
 乳母の言葉にエルサリスは苦く首を振る。覚悟などあるかどうかわからない。いまだにただの開き直りだろうと思っている。それなのに。
「サリス様。サリス様はずっとジルクレスト卿にお心を捧げてまいりましたね?」
 言えば途端にベルティナよりも鮮やかに、彼女よりも慎ましく頬を染めるエルサリス。こうして男の姿になってもやはり彼は淑やかとしか言いようのない姿を見せる。けれど女性ではなくなった。女性的ではあったとしても。
「ですがいまこうして、ジルクレスト卿のお心を求めることをなさりはじめました」
 リジーの目をエルサリスはじっと見つめた。イアンの心を自分は求めているのだろうか。そのためにはじめたことではきっとない。
「いいえ、坊ちゃま。こうして本当のお姿はこうなのだ、とお見せしてなおジルクレスト卿のお心が変わらないのか、サリス様はお確かめになりたい。そうでいらっしゃいましょう」
「そんな……お心を試すようなことは」
「してらっしゃるんですよ。それでリジーはよろしいと思います。多少の行き違いがあったお二人ですからね、サリス様がこうして秘密の大変身をお遂げになったいま、ジルクレスト卿がどんなお顔をなさるのか、リジーはとても楽しみですよ」
 エルサリスは息を飲む。言われてみればそうなのかもしれない。求めていいのかすらわからない彼の心を試すまねまで自分はしているのか。震えんばかりに青くなったエルサリスにリジーはうなずいていた。
「お心を捧げる一方だったサリス様。サリス様に愛されている確信でしょうか、サリス様のお心を求め続けたジルクレスト卿。ようやくジルクレスト卿は待ってくださるようになられました。サリス様は求めることをはじめました。――リジーは、それが愛というものだと思っておりますよ、坊ちゃま」
 求めるだけでも捧げるだけでもなく。互いにそうすることを愛と言う。リジーの言葉が少しだけわかる気がした、エルサリスも。
 三年と言う短い期間ではあったけれど星花宮で過ごした。あそこにはフェリクスがいた、伴侶のタイラントと共に。意地悪を言い、反論をし、いつも喧嘩ばかり。そして呼吸のように仲直りを繰り返していた二人。それをエリナードが肩をすくめて笑って見ていた。
「もしも、あれが愛だと言うのなら」
 自分がしていたことはやはり愛ではないと思う。自嘲的な言い方をするならば自己満足かとエルサリスは思う。イアンに心を捧げる、ただその思いに縋っていただけのような気がしなくもない。
「まだお若いのですからね、サリス様は」
「まして旦那様は一般的な社会から隔離されてお過ごしになっていたも同然です」
「そうそう、ベルティナさんの言う通りですよ。坊ちゃまはお年のわりには幼くていらっしゃる、そう言うものでしょう」
 そんなものではないだろう、さすがに乳母の言には苦笑する。ベルティナまで笑っていた。それにリジーが不満そうな顔をするものだから笑いは本物になっていく。いまならば、問えるかもしれない。エルサリスの唇を言葉がついた。
「ねぇ、リジー。私は、幸せになどなっていいのかな」
「なんと!」
「考えてみて。姉さまは、あんな亡くなりかたをした。姉さまの最期を思うとき、私は幸せになど――」
「それは違いますよ、サリス様」
 リジーに黙って首を振る。彼女の目にも焼き付いて離れないはずだった、姉の死に顔は。苦悶と呪詛と。エルサリスに向けてだったのか、両親に向けてだったのか。最後の最後にあんなことを聞かされた姉。すべてを呪ってもおかしくないとエルサリスですら思うものを。
「エルサミアお嬢様のことはご両親様が責を負うべきことです。サリス様が責任を感じられるようなことではありますまい」
「でもね、リジー。姉さまは、亡くなった。私は生きている。それは覆しようがないもの」
 生きている実感もなく、姉の身代わりとしてただ息をしていた過去の自分。姉が見殺しにされ、救い出され、エルサリスとして生きはじめた自分。それを姉は呪いはしないだろうか。
「仮に姉さまが私を呪ったりなさらなくとも――そうだね、姉さまならば私のことなどもう面白くもないとただ軽蔑なさるだけのような気もする。――それでも、私には幸福になる資格があるのかどうか、やっぱり、わからない」
 エルサリスは自分の手を見ていた。歪んでいたのだろうと思う。生家のドヴォーグと言う家は歪み切ってあのような形でしか決着がつかなかったのだろうと思う。いずれ自分か姉か、あるいは両親か。誰かの破滅をもってしか誰も解放され得なかったあの家。こうしてエルサリスが生き残ったのはただの偶然でしかないとも思う。それをぽつりと言えばリジーがしっかりと顔を上げた。
「サリス様。これは、リジーがまだ王宮に勤めていたころのことです。当時、フェリクス様は仰いました」
 遥かな過去を思い出すリジーの眼差しは優しい。エルサリスにとっても星花宮の日々は安らかなものだった。二人して柔らかな眼差しをかわしあい、それを確かめたかのようリジーは言葉を継ぐ。
「生まれたことも出会ったこともすべては偶然。ならば生きている限り必死になるべき、と」
「……そう」
「なぜ必死になるべきなのか、サリス様はおわかりになりますか? 人は幸福になるべきだからだ、とフェリクス様は仰せになりましたよ」
 いつの間にか乳母の声ではなく、フェリクス自身に語られているかのようエルサリスには聞こえた。星花宮を巣立つ日、額に寄せられた彼の唇。祝福がいまになって胸に熱かった。




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