彼の人の下

 迷っていた。なにに迷うのかわからないほど、迷っていた。イアンの心を疑うわけではない。信じたくないわけでもない。それでもなお、蕩けるほどに迷っていた。
「私……」
 自分とは、なんなのだろうとエルサリスは自嘲する。ここまで来てまだ決められない。イアンこそ愛想を尽かして当然だと思うのに、どうして。そしてまた迷いに返ってくる。
「イアン様――」
 やはり、最初かと思う。彼が知っているのは「エルサミア」としての姿。姉の身代わりとしての自分しか、イアンは知らない。
 確かに彼の言う通り、と思いたい気持ちはエルサリスにもある。イアンと共にあり、心を育んできたのはこのエルサリスだと。けれどしかし。やはり、どうしても。
「この体は」
 男の体で、イアンはそれを本当に理解しているのだろうか。セシルを養女とまでしてくれた彼のことだ、理解していると囁くもう一人の自分。ならばなぜ迷うと別の自分が言う。
「わからない」
 なにに迷っているのかすらわからないというのに。どうしたらいいのかも、もうわからないというのに。そんな自分に呆れ果て、エルサリスは小さく笑う。
 寝室の中、一人きりでくつくつと笑い続けた。まんじりともせず悩み続けた挙句がこのざまだと思えば笑いしかないではないか。
 エルサリスは突如として立ち上がり、ぎらぎらとした刃に見入る。じっと見つめ続け、深く息を吸う。そして思い切り刃を振るった。ざくりとした鈍い音。朝になってリジーは腰を抜かすことになる。

 昨夜はあのようなことがあったのだ、少々の寝坊は見逃すつもりであったリジーだった。だが意外とエルサリスはいつもの時間に起き出してくる。
「おはようござ――」
 そのまま絶句したリジーにエルサリスは困ったよう微笑む。すとん、と抜けてしまった腰にも気づいていないのだろう乳母に手を貸せばのろのろと差し出された手。
「リジー、そんなに驚いた?」
「お、驚きましてございますとも! 坊ちゃま、いかがなされました!? その御髪は、いったい……! どなたがそのような、無惨な!」
 今にも泣き出しそうな乳母だった。エルサリスの長い髪は肩のあたりでぼろぼろに断ち切られている。まるで無体を働かれたかのように。リジーの顔色が変わった。よもやとは思うがイアンかと。それを見てとったエルサリスこそ慌ててしまう。
「違うの。リジー、違うったら。……その、自分で切ったのだけれど、うまく、できなくて……」
「なんと」
 そのまままたも絶句する乳母にエルサリスはどうしたものかともじもじとしていた。背中が実に落ち着かない。こんなに短い髪は幼少時代以来のこと。頭が軽くてそれもまた、落ち着かない。
「……男のね、姿に、戻ろうと言うか、なってみようと言うか……そんな気持ちになって。切ってみたのだけれど……こんな風になってしまって」
 情けなさそうにエルサリスはざんばらになってしまった髪の一房を手に取った。もう少しうまくできるかと思ったのだけれど、どうにも酷いものだった。否、上手に、などとは考えていなかったかもしれない。ただ、切りたかった。切れば切れるものだとなぜか思い込んでいた。
「こんなことにも上手い下手があるなんて、思ったこともなかったから」
 どうにも自分は考えなしなところがあるらしい。今更ながら新しい自分を知った気分だった。だからこそ、エルサリスは悩みを遠くにやることができた、ような気がする。あるいはそれは開き直った、と言うのかもしれなかったが。
「リジー。誰か上手な人、いないかな?」
 ゆっくりと喋るのは、姉とは違う話し方、を心がけるせい。丁寧な話し方なのは致し方ない。これは姉がどうのではなくてたぶん、性分だ。が、女言葉はやめようと思う。気づいたのだろうリジーが目を見開き、けれどにこりと笑った。
「ようございます、お待ちくださいませ。ベルティナさん、ベルティナさん!」
 ジルクレスト邸に来て、リジーとベルティナは友好を新たにしたらしい。生家では長きにわたってよそよそしかった二人だったけれど、今となっては仲間なのだろう。お互いにベルティナさんリジーさんと呼び合って協力しつつ仕事をしているのをエルサリスも見ていた。
「なんでしょう――。なんと!? 旦那様、いったいどなたがそんなことを。このベルティナ」
「私が自分でしたの。……ではなくて、自分でしたん、だ? うまく、言えなくて」
「坊ちゃま、一朝一夕に上達するものでもありますまいよ、お心がけるだけでいまは充分と言うことになさいませ」
 くすりと笑うリジーをエルサリスは小さく睨む。けれどほっとしてもいた。この乳母が男の言葉を話す自分をどう思うか、不安でないと言ったら嘘だった。それがまた、おかしくもある。男の身が男の言葉を操ってなにがおかしいものか。女言葉を話す方がよほど不思議だというのに。エルサリスの戸惑いと苦笑と。それにようやくベルティナも事情を把握しては息をつく。
「――とにかく、自分でしたから。誰か、整えてくれる人を知らない?」
「お任せくださいませ。私に心得がございます」
「……よかった。さすがに人前に出られる格好ではないから」
 ほっとしたエルサリスをベルティナが微笑ましそうに見つめていた。そんな彼女をリジーが嬉しそうに見やる。ふと、愛されているな。エルサリスは思う。こんなにも大事にされている自分だと、噛みしめる。
「おかけくださいませ」
 手早く準備を整えて戻ったベルティナだった。あっという間に用意ができて、軽やかな音を立てて鋏が使われる。有能な彼女が、どうして別の雇い主を見つけず自分などを待っていてくれたのだろうと思う。
「ベルティナ。――今更だけれど、どうして私を待っていてくれたのか、聞いてもいいかな?」
「お首はそのままに、旦那様。――お待ち申し上げていたのは、あの日、ご自身の身を顧みずジルクレスト卿をお救いになった旦那様のお志に打たれたから、ではいけませんでしょうか」
「そんなたいそうなことではなかったように思うけれど」
「――人は、弱いものですから。あの恐ろしい旦那様奥方様の下で、エルサリス様はお心を折られることなくご自分の芯を通されました。――この方は必ずお戻りになる、ならばお待ち申し上げお家を守る者が必要、と」
 淡々と語るベルティナを、エルサリスの前で鏡を支えつつリジーが聞いていた。その目に涙が、口許には笑みが。
「リジーさん、そんなにうなずいていては旦那様が鏡をご覧になれませんよ」
「おやまあ、いけません」
「――いかがでしょうか? あまり短くいたしましても旦那様のお顔立ちは優しくていらっしゃいますから痛々しくなってしまいます」
 リジーの差し出す鏡を改めてエルサリスは見つめる。知っていて知らない顔がそこにある。目を瞬けば鏡の中の顔も瞬く。
「私、こんな顔だったんだね」
 思わず笑ってしまった。姉と同じ顔をしている。それはきっと変わっていない。それでもこうして髪を男の形に改めるだけで印象と言うのはずいぶん違うものだと思った。ならば、とエルサリスは思う。
「ありがとう、ベルティナ。ついでのようで申し訳ないけれど、身なりも改めたいと思う。男の衣服は仕立てないとならないと思うのだけれど……」
 いままで言わば女装しかしたことのないエルサリスだった。生まれてこの方、男物を身につけた覚えがまるでない。
「まぁ、坊ちゃま。お持ちでございますよ」
「……え?」
「星花宮からお持ちになりましたお衣装の中にありましたとも」
 その驚きと言ったらなかった。思わず立ち上がれば、ベルティナが慌ててまだ肩に残っていた髪を払い落す羽目になる。それにも気づかずエルサリスは衣装室に。
「こちらにございます」
 示したのは飛んできたベルティナ。リジーはさすがに老齢とあって彼女の後ろだ。が、エルサリスは呆然とかけられた衣装を見ていた。知らず手に取る。
「坊ちゃまのお持物では?」
 不安になったのだろうリジーにエルサリスは淡くうなずくだけ。次第に口許に笑みが浮かんでくる。それにほっとした二人だった。
「えぇ、私の、だと思う」
 体に当ててみればわかること。どこから見ても自分のものだった。何よりたぶん、似合う。乳母の眼差しにエルサリスはそれを知る。
「きっと、オーランドの悪戯だね」
 星花宮の魔術師たち。みなが悪戯好きで卒倒しそうになったことも一度や二度ではない。まだほんの数日前なのに、ひどく懐かしい。けれど逃げ込む場所ではないと決めた。
「オーランドさんの? なんと、まぁ」
「あぁ、リジーは知っているのだものね。あの、オーランドが、ね」
 くすりと笑えば不思議そうなベルティナの顔。だからエルサリスはオーランドがどのような男なのか話してやる。
「丸々三年は星花宮にいたけれど、彼が話す言葉を聞いたことが何度あったかな? 思い出せないくらい、無口」
 それでもなにを言いたいか、なぜか伝わってくるオーランドの笑みを思い出す。無口ではあるけれど、狷介ではなかった。驚くべきことに、イメル以上に悪戯好きの一面もあった男。
「このお屋敷についたときに着ていた外套、あれもオーランドが作ってくれたものなの」
「魔術師で、いらっしゃるのに、ですか?」
「星花宮の魔術師は自分の衣服も自分で整えるものだと言って。私にも色々と作ってくれたから。ここにある服のほとんどがオーランドだね」
 染色はミスティがしてくれた。ぶっきらぼうで寄り付きにくいところもあった彼だったけれど、きっとエリナードが頼んでくれたのだろう。なにが好きかを言う練習の一環だ、と言って好きな色はと尋ねてくれた。そのたびに思うままの色合いを染めてくれたミスティ。その糸を巧みに織り上げてくれたイメル。縫いあげてくれるのはいつもオーランドだった。
「魔術師と言うより、職人さんたちみたいだね」
 くすりと笑えばいつも一人つまらなそうだったエリナードを思い出す。布を織るのは苦手だと言って、服には携わらなかった彼。その代わり。
「はじめて、なにが好きかを言ったのは、エリナードにだった。――これを作ってくれたのも、エリナードだった」
 いつも胸元に留めてある夏霜草。エリナードに勇気をもらい、イアンに心を捧げ続けてきた夏霜草。そっと手を当てれば彼の励ましが聞こえるような気がした。




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