彼の人の下

 暗くなったジルクレスト邸の庭は深々と冷えていた。冬のこんな時期だというのに、エルサリスは外套もまとわずただ一人、そこに立つ。
 迷っていた。なにをどうすればいいのか、どう考えればいいのか。なに一つ、選択できずに。そんな自分を厭いながら。ふとの眼差しが明かりへと。
「……常人の、世界か」
 ぽつりと呟く。庭には高価そうな魔法灯火が灯されていた。あちらに一つ、こちらに二つ。庭を更に美しく飾ろうと。
 そんなところが星花宮とは違うのだと改めてエルサリスは元の世界に戻ってきたのを知る。魔法灯火ならばあの離宮にもあった。当然のように、燭台よりなお易々と。当たり前の灯りとしてそこにあったものを。
 こうしてジルクレスト邸の庭を見ているだけで、一人きりになってしまったような気分。エリナードは、もう帰ってしまっただろうか。
「……嬉しかったのに」
 ありがとうも言えなかった。愚痴くらいならばいつでも聞いてやる、と笑って星花宮から送り出してくれたエリナード。まさかこんなに早く泣きわめいて彼を呼ぶとは思いもしなかった。それなのに応じてくれたエリナード。
「ごめんなさい」
 忙しかっただろうに。星花宮で過ごすうち、弟子とはいえあの階梯まで達した彼らの忙しさをエルサリスは知っている。それなのに、こんな私用で、他愛ないことで、呼んでしまった。
 それでもきっと笑って気にするな、と彼は言うのだろう。エリナードだけではなく、イメルも、ミスティも、オーランドすら。丸三年と言う短い時間ながら星花宮がもう故郷のよう。あるいはそれはこの屋敷に戸惑うせいかもしれない。
「だめだね」
 長く深い溜息をつけば白い。思わず指先に息を吹きかける。それでも戻ろうとは思えなかった。何か、一つを、せめて何かを決めるまでは。
 セシルの言葉、イアンの態度。聞けば聞くだけ腑に落ちる。それでも迷うのはなぜだろう。たぶんきっと。
「嬉しい、から……?」
 嬉しいのだろうか、自分は。この胸の奥で騒めくものは歓喜と言うのだろうか。ぎゅっと胸元に手を置けば、鼓動を感じた。
 イアンに自分は想われているのか。セシルはそう言う。それがまず、信じられないのだとエルサリスは思う。なぜ、自分を。どうして。ただそればかり。
「だって」
 自分は外見こそこのようなまま。イアンが知っていたエルサミアにいまだ酷似したまま。姉が亡くなり、両親の軛から解かれてもなお、エルサリスは自らとして立つのが怖い。そっと喉元に触れる。
「声だって」
 星花宮ではみなが見守ってくれていたのだろう、いまにしてわかる。エルサリスの声は、彼自身の声とは程遠い。姉の身代わりとして過ごしていたころの、姉と同じ声を作り続けている。幸か不幸か、それで区別など誰もつかなかった。いまもまだ、そのまま。
「急に」
 男の声で話しだせば、イアンはどうするのだろう。戸惑うだろう、やはり。気味悪くさえ思うかもしれない。途端に、身をすくめた。
「やっぱり」
 それが怖いのだと思う。イアンに見離されることが、怖い。たぶんきっと、それは。
 ぽ、とエルサリスの頬が寒さだけではないものに赤らむ。それでもまだ、首を振る。求めていいのかが、わからなかった。ずっと祈り続けてきたイアンの幸福。いま自分はどうするべきなのか。
「あ――」
 いつだっただろう。リジーが言っていた言葉。求めるだけ、与えるだけと言うのは愛ではない、彼女はそう言っていたはず。なぜ急にそんなことを思い出したのか、エルサリスにはわからない。ただ、原因は理解できる気はした。
「与える、だけ――」
 いままでただイアンに愛だけを捧げてきた。自分一人、そっと、遠くから。イアンに知られなくともかまわない、否、知られることを望まずに。ただ心だけを。それはリジーに言わせれば、与えるだけ、ではないのか。不意にそんなことを思う。
「求めて」
 いいのだろうか。そんな資格が自分にあるのだろうか。こんな、出来損ないの身で、成り損ないの心を抱えて。ただ心のままに男としての一歩を踏み出すこともできない自分だというのに。知らず自分の体を両腕で抱えていた。
「寒い――」
 魔術師はいいな、と思う。こんな程度の寒さではエリナードは普段着のままだろう。胴着一つで何事もない顔をしているだろう。震えるほど寒いというのに。骨まで冷えて、指先の感覚がなくなりそうだった。
「エルサリス」
 寒さをこらえて指先を握り込んでいたところだった。声にきつく握りしめれば鋭い痛み。感覚の薄れた指先は容易に掌に食い込んだ。
「あまりにも冷えます」
 イアンだった。他に誰がいると言うのか。いつの間にか薄く張った氷を踏み砕き、イアンが傍らに。それからふわりとエルサリスの外套を広げては彼の肩へとまとわせた。
「……申し訳、ありません」
 淡くとも、自覚めいたものが生まれたいま、イアンの顔が正面から見られない。こんな自分を彼はどう思うだろう。そればかりが気にかかった。
「謝らないでください。悪いのは、私のほうです」
「いいえ!」
「――私です。エリナードに、ずいぶんと怒られましたよ。あんなに叱られたのは、幼いころ以来のことです」
 少し懐かしい思いがした、イアンが力なく笑う。エルサリスは目を丸くして彼を見つめていた。いつの間にか真っ直ぐとイアンを見ているのも気づかずに。
「先走り過ぎたのは、私です。――あなたが我が元に来てくださるのを疑っていませんでした」
「……いえ」
「あなたのお心は私にあると、思い込んでいました」
 エルサリスは答えられない。ある、それは確かにあるのだ。けれど。イアンの言葉をどう受け止めていいのか、決められない。
「ですが、エルサリス。私が会っていたのは、確かにあなたでもあると、思うのです」
「……イアン様にお目にかかっていたのは」
「えぇ、わかっています。それも、エリナードに言われました。あなたであって、あなたではなかったと。私はあなたを、このエルサリスという人を知らないも同然なのだと」
 そんなことまで言ってくれたのか、エリナードは。ほんのりと胸が温かい。そのとおりだった。イアンがもし自分を思ってくれたのだとしても、それは本当に自分だろうか。
「――あなたの悩みを、エリナードはあなた以上に知っている。それが少し、いえ……とても、悔しい」
 驚いて見上げたイアンは遠くを見ていた。もしかしてそれは、否、そんなはずは。惑うエルサリスの眼差しに気づいたようイアンは小さく言う、嫉妬だと。
「笑ってください、エルサリス」
 くらくらとした眩暈を感じていた。エリナードが嫉妬される理由。言葉の意味。わかるようでわからない。あるいは、わかることが、怖い。
「すでにセシルが話してくれたとは思いますが」
 改めて自分の口から言いたいから、そう言ってイアンはセシルのことを話してくれた。養女であること、なぜ彼女を迎えたのか。いずれ彼女の子が家名を継ぐこと。
「あなたを迎えるにあたって、障害となるものはすべて潰したつもりです。ですが、先走り過ぎました。――あなたのお心を確かめもせず」
 それをイアンは詫びると言う。エルサリスこそ、どうしていいかわからないというのに。嬉しいと思う。嬉しいけれど、ただ一歩がやはりどうしても。
「イアン様がご存じだったのは――」
「えぇ、エルサミア殿の身代わりとしての、あなたでした。でも思い出してくれませんか、エルサリス? 何度、散策を共に楽しんだことでしょう。語り合ったことでしょう。私が惹かれたのは、あなたでした」
「えぇ……」
 疑ってはいない。エルサリスだとてあの時間を胸に抱き続けて今日この日まで生きてきた。あの時間をイアンもまた大事にしてくれていると知って嬉しく思う気持ちは当然にしてある。けれど。
「イアン様」
「はい」
「イアン様がご存じだったのは、女性としての、私です。――私は、男の身です」
「わかっているからこそ、環境を整えたつもりです」
 そうではないのだとエルサリスは首を振る。そうしてみてはじめて自分の戸惑いの断片がわかった気がした。結局はやはりただひたすらに怖いのだと言うことが。
「……この外見は、作られたものです」
 そっと胸元に手を当てる。指先がエリナードの夏霜草に触れた。それだけで勇気をもらった気がした。静かに顔を上げれば、イアンはじっと自分を見ている。その眼差しにエルサリスもまた眼差しを返した。
「男として生きる術を知らない私は、いまでもまだ姉の影のまま。この影から一歩を踏み出すことができません」
「待ちます。いつまでも。エルサリス」
 ふ、とイアンの目許がほころんだ。なぜだろうと思う。思うそばからただその目を見ていられることが嬉しいと思う。それが怖くて視線を切った。それでもイアンが自分を見ているそのぬくもりだけは感じていた。
「あなたのお心は私にある、と確信しました」
 何一つ言っていない。自分でもわからない自分の心。ただイアンへの思いだけは捨てなかった。捨てられなかった。それを彼は汲んでいるのかもしれない。そんなことをエルサリスは思う。
「あなたが我が元にあるを当然とは思いません、もう。いつまでも待ちます。ですから、エルサリス」
 ぎょっとしたのを顔に出さずにいるのが精一杯だった。イアンはその場に片膝をついたのだから。冬の庭の、薄氷の張った大地に。じわりと溶けた氷がイアンの膝に染みて行く。さぞかし冷たいことだろう。慌てて手を差し伸べたエルサリスのその手を取り、イアンは彼を見上げる。
「どうかエルサリス、我が伴侶になっていただきたい」
 答えられなかった。よもやこんな自分が、男と知れたこの身が正式な求愛など受けることがあろうとは。震える手でただイアンの指先だけを握る。
「……どうか少しだけ、時間をください」
 まだ迷うのか。どこかで誰かが呆れた気がした。こんなにも想われて、それなのにまだ立ち止まってしまう自分を。それなのに微笑んだイアンは優しく指先にだけくちづけて立ち去ってくれた。




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