扉を叩き、返答を待たずに開けた。乳母殿の意に染まぬことだろうな、とセシルは思う。が、会いたいと言えば彼女は謝絶するに決まっている。心の中ですまん、と詫びた。 「……セシル様」 案の定の乳母の眼差し。冷え冷えとしていてやはりイアンでなくてよかった、とセシルは思う。エリナードの言う通りだろう、ここに彼が来ても話が面倒になるだけで解決の目がまったく見えない。 「エルサリス殿に話があってね」 屈託なく言えただろうか。外見こそこのようなものだけれど、セシルとていまだ若い女性だ。若すぎる身でうまくなど言えるはずもない。 そんな困惑が一瞬で飛んで行った。長椅子に半身を預けていたのだろうエルサリスが無言のまま身を起こす。解き流したままの銅色の髪はあでやかに乱れ、涙に濡れた碧い眼差し。女の自分でもどきりとした。もっとも、こんなときめき方をされても決して嬉しくはないだろう、彼は。 「少し、いいかな?」 はい、と言うようエルサリスはうなずく。まだ零れそうになる涙を抑えているその様子。なまじの女などよりずっと女らしくてセシルは内心で苦笑した。 乳母の険しい目にもかまわずセシルはエルサリスの隣に腰を下ろす。わずかに怯んだような気配。それでも退きたくはない、そんな決心めいたもの。それがきっとエルサリスの心なのだろう。同時に、それを言えないのもまた。そんな彼の手をセシルは何気なく取った。やはり男の手とは思えないほど繊細だった。 「長居をするつもりはないよ、エルサリス殿。――私の立場をお教えしておこうと思ってね」 「――はい」 ただ、ほんの一言ばかりの返答を。まるでもう心は決めてしまったのだからとでも言いたげな。エリナードはいったい彼になにをどう言い、どのようになだめたのか。わずかに思ったセシルの視界の端にリジーが映る。リジーはエルサリスの決心がなんであれ反対らしいと知ってほっとした。 「イアン殿がきちんとお話になっていると思い込んでいた私の咎でもあるのだが。――私はイアン殿の婚約者でも、ましてや妻でもないよ」 「そんな……いえ、ですが、いずれそうおなりになるはずです」 「いいや、誤解だ。私はイアン殿の養女だからね」 「え――」 にこりと微笑んだセシルにエルサリスの目から最後であってほしい涙が零れる。思わず拭ってやれば、慌てたのだろう、自分でごしごしとこすっている。そんな姿はいささか少年めいていると思わなくもなかった。 「イアン殿は、あなたが星花宮からお戻りになったらすぐさま屋敷においでいただけるもの、と思っていたらしいね。だからこそ、養子ではなく養女をとったのだろうが。私自身の感想を言わせてもらえれば、どう考えてもこれは逆効果だろう?」 男のエルサリスを身近に置きたいがためにイアンは少々の無茶をした。それはセシルもわかっている。エルサリスが男性であるからこそ、幼い子供を養子とするのは無理がある。年古りたわけでもないイアンとエルサリスで養育に当たるのはいささか無茶だろう。たとえ貴族の慣例として実際の教育は乳母なりがするのだとしても。 結果として貴族としてのたしなみを一通り身につけた年齢の者を迎えることになる。若い男性ではそれこそ妙な不安を与えかねない、だから女のセシルを迎えた、それも一理あると思わなくもない。 だがイアンがそれを伝えていないとはセシルにも想像の外だった。これではエルサリスに怨まれても文句が言えない、どころか闇討ちされてもしかるべき話だったのではないだろうか。こんな考え方をするからこそ、生家では持て余されていたセシルではあるのだが。 「それにね、エルサリス殿。私にはこれでも婚約者がいるのだよ」 「それは――」 「もちろんイアン殿ではないよ? 今はとある騎士団で正書記を目指している。さすがにジルクレスト本家の養女の夫が平民と言うわけにもいかないのでね。騎士団の正書記ならば一代騎士の身分が与えられるから、彼はそれを目指して頑張っている最中だ」 そのことでもセシルはイアンに感謝をしていた。ジルクレスト本家に迎えられなければ、彼とは婚姻がかなわなかっただろう。同格の家に嫁がされる羽目になっていたはずだ、セシルは。どれほど相手を思おうがなんの関係もなく。だからこそ、ここはイアンのために一肌でも二肌でも脱ぎたかった。 「イアン殿は少々思い込みが激しい方なのかな? あなたに愛されている、とお思いのようだったけれど。それは違うのだろうか? イアン殿の勘違いかな?」 大らかに微笑むセシルにエルサリスは言葉もなかった。養女とは思ったこともない。まさか自分を迎えるためだったなど、想像したこともない。こんな自分を、なぜ。 「どうして……」 「言ったじゃないか。イアン殿はあなたを愛しているしあなたに愛されていると思っている。だからだよ」 「セシル様――」 「あなたは意外と顔に出るからね、考えていることが非常にわかりやすい。だからね、エルサリス殿。お悩みになっていることは気づいてはいたんだよ、私も。だがさすがに内容までは魔術師でもあるまいしわかりようもない」 肩をすくめるセシルにエルサリスはうつむく。ちらりとリジーが目の端に入った。その嬉しそうな眼差しに、エルサリスはけれどまだ戸惑う。 「さて、エルサリス殿。あなたはイアン殿を慕ってはいないのかな?」 「……それは。ですが、私は」 「あなたが男性だから?」 「はい」 それだけはきっぱりと言うエルサリスに、意外と頑固なところもあるとセシルは思う。それが奇妙に好ましい。にこりと笑いかければ頼りなくうつむく彼だったけれど。 「思い出してほしい、エルサリス殿。私は誰だ? イアン殿の養女だぞ。跡取りは問題ない。あなたが身を退かざるを得ない理由はこれでないはずだよ。もっとも、事実上、私はこれでも女の身だからね。イアン殿の跡取りではないが」 「でしたら!」 「だから、私と婚約者が無事婚姻を結んで、私の息子がジルクレストを継ぐ、と言う形だな。特に問題はないだろう、それで」 本当は色々あるのだが、そのためにイアンはいま奔走している。わざわざエルサリスに言う必要を感じなかっただけだ。言えば言うだけ、エルサリスが逃げる気がしてならない。ここは既成事実を作るに限る、そんな思考の筋道を立てる自分をやはりセシルは笑った。 「あなたはイアン殿が嫌い? どうしても逃げたい、と言うのならば手をお貸しするに吝かではないがね。どうしても、ならだが」 「……嫌い、では……」 「だろう? 逃げる理由はどこかにあるかな?」 ぽ、と頬を赤らめたエルサリスに、自分はどうしてこのように生まれつかなかったのだろうとセシルは思う。お互いにないものねだりかもしれない。ふとそんなことを思えばエルサリスに対する親近感が一気に増した。 「……エリナードと」 「あぁ、星花宮の彼だね。中々の美青年だ」 今頃エリナードはイアンに何を言っているのだろう。さすがに養女の身とあっては諫言はしにくいが、あの率直にもほどがある青年ならば、と思う。 「もしかしてイアン殿より彼が、という話かな」 言われてエルサリスは顔を上げる。愕然と言っていいその表情にセシルが片目をつぶった。それにエルサリスは小さく笑う。笑ったことで気が抜けたのか、次第にくすくすと笑い出しはじめた。 「エリナードと、同じことをおっしゃると思って。逃げる理由はどこにある、とずっと叱られていましたから」 「なるほどね」 「逃げている、つもりはないのです。ただ……イアン様のお側には……。私がいても……。だから……」 「うん、これは言っておこうか。と言うよりイアン殿がお話になっていてしかるべきことだと私は思うんだがね。いまイアン殿はお忙しくなさっている」 「はい」 「なぜだと思う? あなたと共に生きたいからこそ、だよ。エルサリス殿」 それだけは言っておくか、とセシルは溜息をつく。無論内心で。どうにも手がかかるな、と思ってしまう。エルサリスではなくイアンが。仮にも養父なのだが。 「私と……」 「そう、あなたと。あなたのお気持ちを聞くことなく、あなたにご相談もせず、ことを勝手に進めたイアン殿にも責はある。でも、言い方は乱暴だが、結果としては変わらないのではないかな?」 いずれ相思相愛だろう。言ってセシルはからりと笑った。またも赤くなるエルサリスの乱れた髪を手で直せば、驚いて身を引くさまの愛らしさ。 「あなたが聞いて気分のいいことではないだろうね。だが、あなたは女性以上に女性らしい立ち居振る舞いをなさる。少々羨ましいよ」 「……私は。……私は、セシル様が羨ましい」 口にしてエルサリスは本当にそうだと思う。この闊達で、屈託のない人が羨ましかった。明るく、朗らかに生きている人が羨ましかった。不意にセシルが片目をつぶる。 「エルサリス殿。あなたの生い立ちがどのようなものか、私はいまは聞かないよ。いずれ話してもいいと思う日が来たら聞かせてくれればそれでいい。だから、私はいま自分のことを話してみたいんだが、いいかな」 ことん、とうなずくエルサリスにセシルは些細なことだけれど、と言いおいて生い立ちを語る。次第にエルサリスの顔が青くなっていった。 「男児がいないからと言って男装させた両親を責めるわけではないがね、こうして育てておいて今更嫁の貰い手がないは酷いだろう? だがこんな私でもいいと言ってくれる男はいたわけだ」 軽く肩をすくめるからこそ、セシルの生家での苦しさが伝わってくるかのよう。明るく朗らかなど、誰が思えるものか。 「……みな。同じなのですね。生きているのは……つらく苦しいこと。でも、たまには少し、楽しいこともある」 「そのとおり、わかっているじゃないか、エルサリス殿も」 「いいえ、エリナードの言葉です。私には、実感がなくて。でもいま少し、わかった気がしました」 困ったように微笑むエルサリスをセシルは力づけるよう笑い返す。ぎゅっと手を握って大丈夫だと請け合う。自分は味方だと、なによりイアンがいるではないかと。こほん、と咳払いが聞こえた。 「僭越ながらセシル様。エルサリス様。そのなさりようではどこから見ても美男美女が愛を語らっているようにしか見えますまい。誤解を招きますよ」 リジーのもったいぶった言いぶりに赤くなったのがエルサリス。豪快に笑い飛ばしたのがセシル。リジーの言ももっともだった。 「それは困るな。私はこれで婚約者を熱愛しているんだ。彼に泣かれるのは困る!」 笑いながら立ち上がりセシルはエルサリスの肩をぽん、と叩く。最低限、イアンに関する誤解だけは解けただろうと言わんばかりに。それにはエルサリスもうつむきがちながらうなずいていた。 |