彼の人の下

 その夜のことだった。何度となく様子を見に行ったのだけれど、エルサリスは晩餐にすら出てこない。イアンは部屋にも入れてもらえず丁重に追い返されるだけ。そして。
「旦那様、お客様がおいでです」
 予定のない訪問者にイアンは怪訝な顔をした。ちょうど困惑をセシルに語っていたところだったのも都合が悪い。が、客はそこまで来てしまっていた。
「なんと……!」
 椅子を鳴らしてイアンは立ち上がる。それにセシルが驚いて目を見開いていた。彼のそんな表情など見たことがなかったのだろう。
「夜分突然に申し訳ない」
 一応は身なりに気を使ったと見える、それはエリナードだった。こうして見るとどこぞの良家の子息のよう。イアンは知らず体の脇で拳を握る。
「ようこそ、我が家へ。――何のご用か聞かせていただいても?」
「そう警戒せずに。星花宮の用事ではありませんから」
 苦笑しつつエリナードはその場にいたセシルに自らの名を告げる。それに彼女のほうがなぜか納得した顔をした。
「セシル?」
「いえ。エルサリス殿が何度か口になさった名だな、と。あなたを彼はとても慕っているらしい」
「それはありがたいですね」
 にこりと微笑むエリナードの目にイアンは何を見たのだろう。背筋に嫌なものを感じるエリナードとしては誤解だと精一杯に叫びたい、というところ。もっとも、これからまた誤解をされるだろうなとも思った。
「早速ですが、用件です。――エルサリスに呼ばれまして」
「なんだと!?」
「魔法的に、ですがね。あいつの魔力じゃ俺に届かせるには相当な苦労をしたはずなんですが。……まぁ、あれだけ泣かれりゃこっちも飛んでこざるを得ず」
「……どういうことだ。エルサリスが、泣いている? そんな」
 馬鹿な。イアンは思った。瞬間に、エリナードに同意してしまっている自分。体調が芳しくない、など言い訳だとわかっていた。エルサリスがなにをどう感じているのか、イアンはわからずただただ困惑を深めて行くばかり。
「なので、申し訳ないですが少し勝手をさせてもらいます。――部屋に上がらせてもらいますよ」
 一応は断ると言わんばかりのエリナードだった。彼ならばエルサリスの部屋に転移することができるのではないだろうか。イアンは疑う。それをせず断りを入れてきた彼の心がわからない。
「あなたは――」
「言いましたよね? 俺はエルサリスを弟だと思っています。それだけです」
「ならばなぜだ。なぜ私ではなく、あなたに――」
 そんな悲痛な顔をしないでほしかった。こちらが悪者のような気がしてくる。エリナードは内心で溜息をつきつつ、案外本当に悪者かもしれない、などと嘯かないでもなかった。少なくともイアンにとっては完全に悪者だろうと。そうと決めてしまえばあとはにやりと笑うだけ。
「それはジルクレスト卿の愚痴をご本人に言っても仕方ないからでは?」
「――貴様!」
「事実でしょうが。では、行ってきます」
 片手を上げて自分の屋敷のようにエリナードは行ってしまった。怒りに震えるイアンなどなんのその。本当は彼がひやひやしていたなどイアンもセシルも知らない。
「……イアン殿」
 立ち尽くすイアンの背があまりにも切なそうでセシルは溜息まじり彼を呼ぶ。そのまま腕を引いて元の椅子に座らせた。
「……なんですか」
 今頃エルサリスはエリナードに何を語っているのだろう。驚いているだろうか、彼が来てくれたと。喜んでいるだろうか、エリナードの来訪を。彼の腕の中で涙にくれるエルサリスを思うだけで飛び出して行きたくなる。
「エルサリス殿のことですが」
 セシルの落ち着いた声に正気づく。醜態をさらした、と目礼をすれば苦笑する彼女。これではどちらが年上かわかったものではなかった。
「ここ数日、何度かご一緒して感じたことがあります」
 多忙なイアンに代わってエルサリスと共にいたのはセシルだった。できるだけ早くこの屋敷に馴染んでほしいと言うイアンの心配りだったのだけれど、セシルとしては首をかしげることがいくつかあった。
「エルサリス殿は、私の立場を誤解しておいでではないでしょうか」
「誤解?」
 訝しげなイアンにセシルはまたも苦笑する羽目になる。彼にとっては自明のことなのだろう。だがエルサリスには違ったのだろう。
 セシルが感じたことを一つずつ上げて行くたびにイアンの顔色が悪くなっていく。彼はやはり、感じてはいなかったらしい。
「私は……」
 エルサリスが誤解をしているのならば今すぐにでも釈明に向かいたい。けれど彼の部屋にはエリナードが。万が一、エリナードと親しくしているエルサリスを目の当たりにしたりすれば自分がどんな態度に出るかイアンには自信がなかった。
「冷静で、落ち着きのある人間だと思っていたのですがね。私は」
「落ち着いてらっしゃると思いますよ、イアン殿は。ただエルサリス殿のことになると物が見えなくなる、それだけでしょう」
「そう言うものですか」
「だと思いますが、迷惑を被るのはエルサリス殿です。できれば改めた方がよろしかろうかと存じますが。おっと、差し出口でしたね。これだから私は父母に頭を抱えさせていたわけですが」
 にやりとするセシルにイアンは力なく笑う。頼りになる、と思ってしまって、けれどこんな自分をエルサリスはどう思うだろう。エルサリスがエリナードを頼るよう、自分がセシルを頼っていてはどうにもならない。ぎゅっと拳を握り息を吸う。
「……あなたのような女性は慮外なもの、と思っていましたよ」
「と言うと?」
「その態度です。女性が男と同じテーブルでカードをする、と言うだけに顔を顰めてた私ですが考えを改めました。改めてみれば……あなたの存在は天からの贈り物としか思えない」
 エルサミアをたしなめたあの時と同じ自分とは思い難い、それほど考え方が変わった。それもこれもすべてエルサリスのため。彼と共にありたい、その望みゆえ。セシルは黙って肩をすくめていた。
 それからは他愛ないことを話していた。むしろ、話していないと本当にエルサリスのところに乗り込みかねない。それをセシルのほうが案じていた。話題がつきかけるころ、やっとエリナードがおりてくる。
「やあ、エリナード殿。エルサリス殿のご様子はどうだね?」
「泣きやみましたよ、ようやく。それで……。イーアーンーさーまー」
 嘆かわしげと言うには恨めしすぎる声でエリナードは頭を抱えていた。がりがりと見事な金髪をかきむしる。呆気にとられたセシルが大きく笑っていた。
「な、なんだ……?」
 イアンも同様らしい。そんな声でなじられる覚えがないのだろう。あるいはそれ以上にエリナードへの反感が先に立ったか。
「率直に言わせていただきますが、イアン卿。言わなきゃならないことを仰せになっていないでしょうが。卿には自明のことでもエルサリスはまったく完全に、何一つとして把握してませんでしたが」
「それは――」
「エルサリスの一番の悩みを教えて差し上げます。反省してください。あいつは自分が男だからこそ、卿の元にはいられない、と思って、思い込んでるんです。そこでセシル様の登場ですよ? さてどうなりますか」
「それは当然にして身を退こうとするだろうな、エルサリス殿は」
「仰せの通り。セシル様のほうがよくおわかりですね。――と言うわけで、申し訳ないですが、ご自身の立ち位置をあいつに教えてやっていただけませんか、セシル様」
「喜んで」
 からりと笑って立ち上がるセシルの腕をイアンは咄嗟に掴む。厳しい形相が、けれど目だけは嘆きに歪む。セシルは知らず息を飲んだ。
「行くべきは、あなたではない、セシル。私です」
「いいえ、セシル様。行ってください。イアン卿が行けば話がややこしくなるだけですから」
「……イアン殿の望みを容れたいのはやまやまなれど、私もそんな気がするな。申し訳ない、イアン殿」
 そっと手を振りほどけば傷ついた顔。それでもセシルは毅然と背を伸ばしたままエルサリスの元へと向かった。残されたのはイアンとエリナード。口をつぐんだイアンの前、エリナードは礼儀もそっちのけにして座り込む。
「なぜです?」
「……なにがだ」
「どうしてセシル様のことをあいつにちゃんと言ってやらなかったんです?」
 言われてもイアンにはわからなかった。言っていないわけではない。否、言わなくとも、この自分の心などエルサリスにはわかっているはず。
「それはね、イアン卿。思い込み、というものです」
 顔に書いてあるぞ、と指摘してエリナードがちらりと笑う。その明るい笑顔からイアンは目をそらす。もしもエルサリスが彼を選んだら。
「それもないです」
「あなたは!」
「イアン卿、わかりやすい方ですからね。それなのになんでエルサリスが卿をわかって差し上げないのか、とも思いますけど。あいつの性格的にそれは無理かと」
「……あなたのほうが。エルサリスのことはよく知っているだろうからな」
「そこですよ、問題は」
 突如として真剣な表情を浮かべたエリナードだった。イアンですら敵意を置き去りにして見惚れそうになる。それほど見事な変わりようだった。
「卿は、エルサリスをよく知っているつもりかもしれません。でもね、エルサリスはそうは思っていないんです」
「そうは言うが、私と何度も逢瀬を持ったのは」
「それは姉君でしょ。エルサリスじゃない。姉君の身代わりをしていたエルサリスです。厳密に言えば卿が知ってるエルサリスは星花宮に引き取った日の最後の一瞬、あいつが自分は男だって言ったあの瞬間のエルサリスでしかないんですよ」
 エルサミアのふりをさせられていた彼。誤解をしていた自分。身代わりだと知れ、妹だと思い込んだ自分。本当は、双子の弟だった。すう、とイアンの顔から血の気が引いて行く。
「――個人的には、卿が思いを寄せたのはエルサリスで間違いないと思いますよ、俺はね。でもエルサリスはそう思っていない。卿がご存じなのは、女のふりをしていた自分でしかない、そう感じています」
 そんなときに曖昧なままのセシルがいた。エルサリスはどう思うのか。今更言われるまでもなかった。意を尽くし、言葉を尽さなかった我が身を殴れるものならば。
 青ざめたまま拳を握ってうつむくイアンを前にして、ようやくエリナードは安堵の息を吐いていた。




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