彼の人の下

 多忙なイアンに代わり、セシルは何かとよくしてくれている。事実としてエルサリスもそれは認めていたけれど、ちりちりと胸を焦がす思いだけは薄れようもない。それが何かはいまだ知りもしなかったが。
「付き合ってもらえるかな?」
 ジルクレスト邸に滞在してもう三日だ。まだ三日、とエルサリスは思う。それなのに早、星花宮に帰りたい。こうしてセシルが心配りをしてくれればくれるだけ、逃げて帰りたい。
「喜んで」
 それなのにこうして笑顔で応対するのはなぜだろう。エルサリスは自分で自分がわからない。逃げたくて、それでも逃げ出したくはなくて。
「あなたは博識でとても助かるな」
 ジルクレスト邸の庭だった。イアンらしい、とエルサリスは小さく内心でだけ微笑む。植物学が好きだと言っていた彼の言葉。いまでも胸の中に温かいはず。こうして同じ屋根の下にいる今、彼の顔を正面から見ることはできなかったけれど。
 そのイアンの屋敷だ、庭には多彩な植物が植えてある。薬草や香草はもちろん、温室には華麗な花々。まるで小さな植物園の様相だった。
「さようでしょうか」
 自分ではさほど詳しいとも思っていないエルサリスだった。が、実際問題としてエルサリスは一般的な範疇を超える程度には詳しい。なにしろかつて生家でエルサリスが彼として外出を許されていたのは自邸の庭のみ。それも早朝に限ってのこと。リジーと共に草花を眺め、摘んだ思い出。
「私は苦手でね。あまりにも花の名を知らないものだから、教えてもらえると助かるよ」
 闊達な女だと思う。女性としては度が過ぎている、と思う向きもあるだろうけれど、エルサリスにとっては羨ましいような性情だ。
 もしも彼女がイアンの元にいなければ。彼女と出会った場所が違えば。友人としてあれたかもしれない。そんなことを思ってはちらりと口許に笑みが浮かんで消えた。
「私でよければ。ですが、花の名など知らなくとも、困りませんでしょう?」
 セシルは貴族の女性だ。大勢いる召使にあれがよい、と言えば済むだけのこと。部屋に飾る花でもただそう言えばいいだけ。それなのに彼女は苦笑した。まるで違うとでも言うように。
「まぁ、問題はないのだろうけれどね。これでも私はジルクレスト家の人間になったわけだから。さすがに当主の好むことを知らない、と言うわけにもいかないよ」
「……さようですか」
「花など赤い黄色い、いい香りがするしない、で充分だと思ってしまう私はがさつなのだね」
 からりと笑うセシルをがさつだとは思わない。朗らかで明るい、よい人だと思う。思うぶん、胸の奥が痛い。
 これを望んでいたはずだった。イアンが幸福であるのならばそれでいい。星花宮でこの三年というもの言い続けてきた。いまイアンはセシルを得て、たぶんきっと幸福だ。ドヴォーグと言う、富裕ではあれど平民の家から妻を得るのではなく、セシルと言う貴族女性がジルクレスト家に嫁してきたのだから。たぶんきっとイアンは幸福。
 何度も心の中で呟く。だからそれでいい。それも呟く。それで充分だと、自分は思っていたはず。いったい何度そう言っただろう、己に、エリナードたちに。
「あれは?」
 セシルが指した枝をエルサリスは易々と答えて行く。この冬の時期にあって花をつけている草木はほとんどない。それでもエルサリスは間違わない、戸惑わない。
「すごいな、あなたは。私にはとても無理だなぁ」
「……ただ、草花が好きなだけです。お褒めいただくようなことでは」
「好きだと言うのは何より熱心になれるものだと思うよ。勉学として覚えたのかな?」
 えぇ、とうなずきつつエルサリスは一瞬だけ迷う。言っていいのだろうか。否、言ってもかまわない。たとえ問題があったとしても自分はいずれここを出る身だ。
「星花宮に身を置いておりましたので、そちらで」
 魔術師たちの離宮を彼女はどう思うことだろう。星花宮にいた間にエルサリスは様々な噂話を耳にする機会があった。驚くと言うより呆れるようなものも。哀しいものも。セシルはぱっと顔を輝かせる。
「あぁ、聞いているよ。素晴らしいな!」
 そんな顔をするからあなたが嫌いだ。心に呟いて自分で自分に驚いた、エルサリスは。必死になって押し隠し、曖昧な笑みを浮かべ続ける。
「ただ、魔力があっただけです。私は――」
 魔術師になりたいとも思えず、そんな気概もない。でき得ることならば今すぐリジーと二人、どこかに隠れて逃げてしまたい。
「いや、中々厳しい訓練をする、と聞いているよ。身体的なことのみならず、勉学もそれは厳しいと。あなたが少し羨ましいな」
「え――」
「いや、私は座って勉学に励むと言うのがどうしても苦手でね」
 照れたよう笑う彼女にエルサリスは答えられない。自分のどこにセシルほどの女性が羨む要素があると言うのだろう。黙々と冬の庭を歩き続けた。
「幸い、体を動かすのは好きだったから、女だてらに剣の鍛錬は積んだが」
 ぽん、と腰の剣を彼女は叩く。さすがに女性の使うものだ、細身の剣ではあったけれど飾りではなかったのだと改めてエルサリスは知る。
 ふと気づいた。彼女が剣を吊っていることに違和感がなかった理由。たぶん、エリナードたちのせいだった。彼らは一様に剣を使う魔術師だ。そのせいだろう、剣を持ったときの姿勢が綺麗に決まっている。セシルに同じ匂いを嗅いでいた。
「セシル様はその鍛錬のせいでしょうか、佇まいがお綺麗で、羨ましく存じます」
 すっきりと伸びた背筋。並んで歩けば彼女のほうが背は低い。思えば姉はずいぶんな長身だったのだと思う。だが並べばこそ、セシルの挙措の美しさが際立つ。とても及ばない、そう思ってしまうほどに。
「そうかなぁ? 私はどうしても女らしくはなれないからね」
 肩をすくめたセシルに、それはどう言う意味だと言いたくなった。どうもこうもないだろう、内心で自答する。
 いまでもやはり女性にしか見えない自分というものを呆れるような、厭うような、不思議な感覚。男装してはいても美しい女に、お前のほうが女らしいと言われるのはなんとも言い難い気分だった。
「あぁ、いや。あなたが女らしいと言っているわけではないよ。誤解させたかな」
 黙ってしまったエルサリスにセシルは慌てて言葉を添える。そんなところも配慮のできる人間の大きさを感じさせた。少なくとも自分よりはずっと。エルサリスは笑みを浮かべたまま首を振る。
「確かにあなたは見目形こそとても美しい女のようだけれどね。なんと言ったらいいかな。やはり男性だと私は思うよ」
 どこがだろう。言われたエルサリスが驚いた。男性である自覚はあるものの、そう言われた覚えがないせいかもしれない。星花宮でも覚えがない。たぶん彼らにとっては性差というものが関係のないもののせいだろう。
「横顔、かな。時折、引き締まったとてもよい顔をするよ、あなたは」
 にこりと微笑むセシルに褒められて、ぎょっとするほど胸が痛んだ。これは正妻の余裕だろうか。そんなことまで思ってしまう。思った途端、恥ずかしくなる。
「……とんでもない」
 羞恥に赤らんだ頬、とでも思ってくれただろうか、セシルは。実際、恥ずかしさが極まって赤くなった頬。けれど内情は違う。褒められたことにではない、セシルのいるいまならば愛人の立場にだけは立てるか、そんなことを思った自分が恥ずかしくて恥ずかしくてならない。
 イアンは、そんなことは思いもしていないだろう。きっと婚約者であった姉とのかかわりから無視できなくなってしまったエルサリス。それだけだ。何度となく姉の身代わりとして会っていた自分に手を差し伸べてくれているだけ。
 本当は。少しだけ期待した。あの馬車の中、会いたかったと言ってくれたイアン。もしかしたらと思わなかったと言ったら嘘だった。
 セシルがけれど屋敷にはいて、それもまた当然だとエルサリスは思った。イアンは子爵位を持つ貴族で、自分のような後ろ盾のない平民が、まして男の身がどうにかできるものではない。
 けれども、思い出す。キャラウェイ・スタンフォード、チエルアット男爵の言葉を。あの時彼は何を言ったか。
「……私は」
 意志さえあればどうにでもできる、そう言った彼の言葉。意志などない、エルサリスは思う。イアンが幸福であれば、それで充分。呟けば本当にそうか、と問いかける別の声。
「エルサリス殿?」
 こんな自分に敬意をもって接してくれるセシルが、刻一刻と嫌いになってくる。それを笑顔で押し包み、エルサリスは何事もなかったかのよう指を指す。
「いまは葉も落ちて寂しい姿ですが、あの木は春になると素晴らしくよい香りの花が咲くのです。私は、とても好きです」
「そうか、楽しみだな。――イアン殿もお好きかな?」
「えぇ、きっと。香りも素晴らしいものですけれど、蕾には薬効がありますから。ジルクレスト卿はそちらのほうをお好みかもしれません」
「なるほどなぁ。私には少し、無理かな」
 肩をすくめるセシルにエルサリスも微笑む。できるだけ早いうちにこの屋敷を出ようと思う。逃げるのではない。自分で対策を立てるだけだ。フェリクスに任せきりにしておくのはよくない、そんな言い訳を考える。
「二人とも、ここにいたのですか。今日は冷えると言うのに」
 はっとして振り返る。外出から戻ったのだろうイアンだった。まだ平服にも戻っていない。そんなにも急いでセシルの顔が見たかったのだろうか。エルサリスは無言で頭を下げていた。
「少しは慣れましたか、エルサリス」
「はい、セシル様には大変にお世話になっております」
「お世話されているのは私だと思うな、イアン殿」
「仲がよくて安心していますよ。――エルサリス、お茶でもいかがですか」
 一歩だけ、近づいてきたイアン。緊張しているのがエルサリスにも見てとれた。なににだろう。どことなく朦朧としたような気分のままエルサリスは顔だけは上げた。だが返答の前に。
「駄目だよ、イアン殿。彼と遊んでいるのは私なのだから。あなたには貸して差し上げない」
「セシル、あなたと言う人は……」
 呆れた苦笑いを浮かべ、それでもセシルの眼差しか、二人の関係が良好なことにかイアンは諦めて引き下がろうとする。ちらりとセシルが笑ってエルサリスに目を向けた。
「意地悪を言ってしまったかな?」
 たぶん、その言葉のせいだ。セシルに他意はないだろう。からかっているだけだ。理性では、理解している。
「いえ……。申し訳ありません、少々気分が優れず」
 誰の答えも待たずエルサリスは部屋へと逃げ帰る。扉を閉めて顔色を変えたリジーを見て、はじめて逃げたと気づいて彼は泣きたくなった。




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