彼の人の下

 微笑みながら気安く近づいてくるその姿。エルサリスは呆然としつつもそれを見つめていた。この場で逃げることだけは、したくない。
「あなたがエルサリス・ドヴォーグ? お待ちしていましたよ」
 にっこりと笑った彼女にエルサリスは足を引いて礼をする。はじめてかもしれない、女性と間違えられてはならないと思ったのは。
「はじめてお目にかかります、エルサリス・ドヴォーグと申します。不測の事態をジルクレスト卿に助けていただきました。しばしの間ご迷惑をおかけいたします」
「どうぞお心安く、と私が言うのもおかしなものだが。セシル・ジルクレストです。仲良くしてくれると嬉しい」
「もったいないお言葉……」
 もう一度頭を下げつつエルサリスは内心で小さく笑う。男装したセシルと、いまでもまだ女性に見えるだろう自分。奇妙な面白味を感じないでもないな、と。
「改めて、こちらはセシルと言います。近頃我が家に迎えたばかりなので、どうかあなたも仲良くしてやってください」
 はい、とエルサリスはイアンに向けて微笑んだ。さすがにリジーだけは強張った顔をしている。どう言う意味だ、と問いたいのだろう乳母にエルサリスは目だけを向けた。それで彼女にはわかってもらえる。
 そつなくリジーが進み出て、エルサリスは彼らと別れて部屋へと案内された。すでにリジーや他の者たちが部屋を整えている、と言う。エルサリスは半分以上聞いてはいなかった。それを知りつつリジーは何くれとなく話しかけてくれる。そっと笑みだけを礼に代えた。
「こちらにございますよ、坊ちゃま」
 リジーはエルサリスの転居にあたって元々彼について行く予定だった。星花宮が保有するアイフェイオン館から身を退いて、そしてエルサリスと共にどこにでも行くはずだったものを。
「そんなことを言わないで」
 まさかこんなことになるとは。何度となくぼやくリジーにエルサリスは小さく笑ってみせる。自分でも虚ろだと思った。
「あぁ……」
 案内された部屋は、驚くべきものだった。あまりにも好みに適う部屋。ちらりとリジーを振り返れば珍しくもじもじとしている。エルサリスが気に入った、と喜んでいるのだろう。
「ありがとう、リジー」
 いっそすべてを忘れられたら。ここがジルクレスト邸ではなく、リジーと二人で住む家だったら。詮無いことを考えてしまう。
「とんでもないことにございますよ。リジーだけお褒めいただくのは違いますとも」
 どう言うことだ、問う間もなくリジーの合図に従って入ってきた人。あ、とエルサリスは息を飲む。ずいぶんと窶れていた。
「ベルティナ?」
 あの女中頭だった。三年以上、生家を離れたあの日以来会ってはいない。アイフェイオン館にいたリジーとは違い、エルサリスは生家には一度として近づかなかったのだから。
「……はい。エルサリス様もご壮健のご様子。なんと、嬉しい」
 涙ぐんだかつての女中頭にエルサリスもまた目頭が潤む。同時に申し訳なくなった。生家を守っていた召使たち。フェリクスが面倒を見てくれていた。エルサリスは考えたくもなかった。こんなに案じてくれていたのかといまになって知る。
「なんと、凛々しゅうなられましたことか」
 変わっていないだろうとエルサリスは苦笑する。いまでも姉の身代わりであった日々と何が違うのか、自分ではわからない。
 星花宮にいたころは違ったように思う。ほんの少し前なのに。朝まではあそこにいたのに。ベルティナには曖昧に首を振り、エルサリスは携えてきた革の鞄を開けて行く。
「旦那様、私が」
 飛びあがりそうになった。ベルティナがいまなんと言ったのか目を瞬く。そんなエルサリスを仕方のない坊ちゃま、とリジーが笑った。
「坊ちゃまはドヴォーグ家の御主でいらっしゃいますよ」
「そんなことは。ドヴォーグの商売は親類が引き継いだ、と聞いているけれど」
「関係ありません」
 ばっさりと切って捨てたとはこう言うことだろうか。ベルティナの断言にエルサリスは苦笑しかできない。こんな強さが欲しかった、ほんの少し思う。
「でも私はジルクレスト卿にお世話になっている身だから。旦那様はどうかと思う」
「それこそ関係がありませぬ。ジルクレスト卿は旦那様を客人としてもてなす、とは仰せになっておりません。私自身、ジルクレスト卿に召し抱えられた身でもありません」
 だから自分の主人はエルサリスだ。断言するベルティナにほんのかすかな羨望と、厭わしい過去の影。当時から彼女の話し方は変わっていないな、とふと思い出す。思い出しながらそれが思い出せる程度の過去、になっていることをエルサリスは驚いていた。
「……とにかく、それはそれとして。荷物は私にしか片付けられないから」
「そのようなことは――」
 ないと言い張るベルティナをどことなく面白そうな顔のリジーが眺めている。あのころには考えられなかったことだ、とエルサリスは感じてそれにもまた時間の流れを思った。
 何はともあれ、ベルティナを説得するよりは実行したほうがずっと早い。鞄の中身を散らかしておいてエルサリスは一つずつ触れながら合言葉を呟いて行く。そのたびに解呪された荷物が元の大きさに戻っていく。
「ほらね? 私にしかできないでしょう?」
 にこりと笑えば、仕方のない方だと言わんばかりのベルティナ。すとん、と主従としての在り方が落ち着いた、そんな気がする。リジーのおかげかもしれない。この乳母のことだ、前もっていまのエルサリスがどんな青年になっているのかベルティナに伝えていないとは思い難かった。
「便利なものにございますねぇ、坊ちゃま」
「えぇ、そう思う。――ねぇ、リジー。坊ちゃまもやめてほしいのだけれど」
「坊ちゃまは坊ちゃまです」
 こちらも断言されてしまった。ベルティナとは違う理由で、なにより子供扱いのようでやめてほしかったのだが。肩をすくめたベルティナがくすくすと笑っていた。明るくなったな、とエルサリスは横目で見つつ思う。
 解呪された荷物は今度こそエルサリスにはやらせない、とした断固たる態度でベルティナが配下の召使たちを動員してさっさと片付けてしまった。あっという間に片付いて行く荷物にエルサリスは笑い出したくなる。
「人手があるのはすごいね」
 リジーはそんなエルサリスに傍らで茶を淹れては勧めていた。ベルティナと役割分担ができあがっているらしい。リジーはここでエルサリスを食い止める役割、らしい。
「星花宮ではいかがお過ごしでしたか。あちらもたいそう大勢いると聞いていますが」
「あそこは魔術師たちの住処だから。人の手を使うより魔法を使ってしまうことのほうが多いように思う」
「それも楽しゅうございましょうね」
 リジーは若き日に見ているはずだった。当時のことを思い出し、変わっていない星花宮を思うのかもしない。
 エルサリスは出てきたばかりの星花宮がすでに懐かしかった。帰りたい、不意に思ってしまう。出てきたばかり。それを心に何度となく呟く。
 訓練の終了を言い渡されるとき、フェリクスが言っていた様々なことを思い出していた。
「あなたは最初、魔力を摘んでほしいって言ってたね。いまでも?」
「私には必要のないものですから……」
「でも、ここまでちゃんと訓練をしたならわざわざ枯らす必要もない。それはわかってる?」
 危険を伴うことだ、とフェリクスははじめから言っていた。だからあえてする必要性が薄い、と。それでもしたいのならばあなたの決断だ、と言いつつ。
「だったらね、エルサリス。しばらくそのままで暮らしてごらん。不都合が起こったり、あなたがやっぱり魔力のない生き方がしたいって決めたりしたら、僕を呼びな。それでどう?」
 ほっとしてエルサリスは返答をしたのを覚えている。決断はやはり、苦手だった。誰かに決めてもらうほうがずっと楽だ。けれどこれはどうあっても自分が決めなければならないことでもあった。
 ――先送りにしていただいて、よかったのかもしれない。
 魔力があるからこそ、通常化されてはいるとはいえ解呪ができた。そうでなければエリナードはもっと手間のかかる方法を取らざるを得なかっただろう。
 魔力があるからできること、やれることを今更になって色々と考える。星花宮に戻り、魔法の初歩を学び直す、と言う手段すらあるのだと気づく。
「ねぇ、リジー。魔法で生計を立てている人って、どんな風に生きているの」
「はて、私もさほど詳しくは。魔術師として身を立てているならば大きな商家や貴族のお家に入ってご用を務める、あるいは薬草や薬を商う、魔法の鑑定をする、など聞いたことがありますけれど」
「薬草を商うのは、楽しいかもしれない」
「坊ちゃまがそのようなこと……。リジーは止めはいたしませんが、どうしても、にございますか?」
 エルサリスが生きて行くには充分すぎる資産がすでにある。リジーやベルティナたちを連れ、あるいは妻子を養ってもまったく困らない。あえて働く理由がどこにもない。
「……考えてみただけ」
 魔法の薬を作って、少しずつ商う。星花宮との繋がりを切りたくない、それだけだったのかもしれない。いまは脱いで片付けられているオーランドが作ってくれた外套。いま着ているものも。ふ、と胸元に手を当てる。
「お気に入りにございますね」
 リジーの言葉に無言でエルサリスはうなずいた。少し強張ってはいただろうけれど笑みすら浮かべて。そこにはエリナードが作ってくれた夏霜草のブローチ。
 きっとリジーは思っている。それが夏霜草だから。イアンに繋がる思い出だから、エルサリスが大事にしているのだと考えている。
 間違いではなかった。いままでは、確かにそのとおりだった。星花宮で過ごす間、何度このブローチに触れて思い出を抱いていたことだろう。いまは、正反対に星花宮の思い出を抱く。
 フェリクスがいて、エリナードたち四人がいて。色々なことに巻き込まれたり、一緒になって楽しんだり。もしかしたらはじめて子供になって楽しんだ生活、だったのかもしれない。
 帰りたいな、思ったとき扉が叩かれた。恭しくリジーが開けた向こうにはセシルの姿。沸々と湧きあがってくるこの思いはなんだろう。笑顔でエルサリスは彼女を迎える。逃げ帰りたくない、それを内心に呟いた。




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