彼の人の下

 嬉しくないわけではなかった。ジルクレスト家の紋章付き馬車が軽快に王都を行く。軽やかな車輪の響き。隣に座すイアン。嬉しくないわけもない。それでも。
「……ようやく」
 ぽつりとと言うには押し出したようなイアンの声。はっとしてエルサリスは顔を上げる。いままで伏せていたとも気づかなかった。心持ちが三年前に戻ってしまった、そんな気がしてならない。それほど不安だった。
「イアン、様?」
「ようやく、あなたに会えた」
「え――」
 会いたいと、なぜ彼は思うのだろう。自分は婚約者であったエルサミアの弟に過ぎない。ただ、それだけのはず。否、優しいイアンだ。あのような状況で別れたのならば心配くらいはしてくれていたのかもしれない。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
 表情を隠すよう頭を下げたエルサリスにイアンは唇を軽くではあったが噛んでいた。こんな顔が見たかったのではない。黙って彼の手を取れば、痙攣するよう竦んでいた。
「違うのです、エルサリス。――何度もあなたに会いたいと、フェリクス師にはお願いしたのですが……。叶わず」
 ようやくこうして会うことができた。微笑むイアンにエルサリスは言葉がなかった。ただ、唇が震える。取られた手が温かくて、今すぐにでも逃げ出したい。
「先ほどの、エリナードとは仲良くしていたのですか」
「……えぇ。彼と、他にも数人。エリナードの同期とのことでしたが、みな可愛がってくださいました」
「そう、ですか」
 イアンが問いたかったのはそこではなかった。エルサリスが答えたくないのかはぐらかしたのかさすがにわからない。三年と言う時間が二人の間に横たわっている。ふと思い、違うかとも思う。イアンとエルサリス、そうして過ごしたことは一度としてない二人だった。
「星花宮では心安く過ごせていましたか」
「はい。フェリクス師はお笑いになるかもしれませんが……私にとってはいまでは実家のようなものです」
 ちらりとエルサリスは口許だけで微笑んだ。イアンはそれ以上に、彼の言葉こそに驚く。エルサリスの口から実家と言う言葉が出るとは思わなかった。彼にとって家とは、家族とはそれだけ忌まわしいものでもあったはず。
 それが、星花宮で過ごしてきた間にエルサリスが決めた覚悟だった。いずれここを出て生きる。叶うことならばリジーと二人、どこかでひっそり隠れ暮らす。そのための芯を作り続けてきた三年間。気づけば星花宮は「家」となっていた。フェリクスが言ったよう、正にこれは巣立ちだったのだとエルサリスは思う。
「……おかしいですね」
「それほど、おかしなことを言いましたでしょうか」
「あぁ、いえ。違います。あなたではなく。……再会したら何を言おうか、どんなことを話そうか。色々と考えていました」
 ふ、とイアンの目許がほころんだ。照れたような、苦笑のような。その表情からエルサリスは目をそらす。あのころ感じた胸のときめき。いまもまだこの心に熱い。
 ――エリナード、恨みます。
 何度となく彼は言ったものだった。好きならば好きでいいだろうと。行動に移すかどうかは別にして、心に思うだけならばかまわないだろうと。だからこそ、安堵して胸に抱き続けてきた思い。
 二度と会うことなどないと思っていたからこそ、イアンへの思いは捨てなかった。捨てられなかった。こうして再び会ってしまえば、あのころと同じよう胸が騒めく。それが嬉しくて、哀しくて。
「それなのに……なにを言っていいか、わからなくなりました」
 当然だろうとエルサリスは思った。三年間、自分は変わったのだろうか。変わっていないのだろうか。それでもここに流れた時間はある。イアンはどう過ごしていたのだろう。不意に思う。自分もまた、なにを尋ねていいかわからないと。イアンと同じ理由だとは、思えなかったけれど。
「だから、ゆっくりとすごして行きましょう。――おかえり、エルサリス」
 握られたままだった手。そっと撫でるようなイアンの手。愛されているのだと錯覚したくなる彼のぬくもり。震えながらエルサリスは引き抜いた。
「……イアン様にはご迷惑をおかけいたします。まさか、フェリクス師に手違いがあるなど、想像したことも」
「エルサリス、そんなことを言わないでください。迷惑だなど、なぜあなたは」
「ですが」
 迷惑以外の何物でもないだろう。婚約者の、それも彼を謀り続け殺害まで計画した婚約者の弟だ、自分は。
「なるほど、エルサリス。あなたは、エルサミア嬢の、ドヴォーグ夫妻のことを気にしているのですね」
「……はい。私は、イアン様を害そうとした家のものです」
 家の者、と言ったのだろう彼は。イアンにもそれはわかっている。ごく普通の表現でもある。だが不思議と者、ではなく物に聞こえた。
「あなたはエルサリスです。誰かの道具でも、身代わりでもない。私にとってあなたはエルサリスです」
 答えられなかった。心の奥底が歓喜に震えている。イアンがどんなつもりでそう言ってくれたのか、知りたくて、断じて知りたくない。ただただ、胸の中でだけ抱いていたい。聞いてしまえば誤解の余地などなくなるのだから。
「あり、がとうございます……」
 微笑んでいるのに悲しげなエルサリスだった。イアンはどうしていいか、わからない。先ほど見たばかりのエルサリスの表情。エリナードならば彼をゆったりと微笑ませていたのに。そう思えばぎりぎりとどこかが痛い。
「ずっと待っていましたよ、エルサリス」
 何をだろう。わからないままエルサリスは礼を言っていた。よもや自分が待たれていたとは一片たりとも思わないエルサリスだった。
 二人の間に沈黙が満ちる。イアンもまた戸惑っていた。あれほど再会を願っていたエルサリス。きっと彼もまた会いたいと思ってくれているはず。そう思っていたはずが。
「いまも、大事にしています」
 もうそろそろジルクレスト邸だった。かつて訪れたことがあるあの屋敷。書庫の中で彼が見せてくれた淡い微笑み。エルサリスは隣に本人がいるのにそればかりを思っていた。現実を見たくなかったのかもしれない。
「え――」
 何をだろう、とイアンを見やればはっきりと照れたとわかる彼がいた。それに動揺してしまう。あるいは、何かを察知してすでに動揺していたのかもしれない。
「あなたの手になる手巾を、大事にしていました」
 エルサリスの顔色が馬車の中でもわかるほどに青ざめた。イアンなど体調を崩したかと不安を覚えるほど。無言で首を振り、エルサリスはうつむく。
 信じがたかった。一度だけ、衝動のようにイアンに捧げた秘密の手巾。姉にも意味は知れないように、あの夏霜草を刺繍した。いまイアンが袖口から出して見せたのは、正に自分の手になるものだった。見間違えるはずもない。
 エルサリスはじっと胸元を押さえる。オーランドが贈ってくれた外套の中、胸元に留められているエリナードのブローチ。ずいぶん前になる、好きなものを言う練習だとエリナードが笑ったのは。あのとき作ってくれた夏霜草のそれ。思いのよすがに、大事にしてきたのは自分のほう。
「屋敷の庭に、夏霜草を植えました」
 イアンは言う。まるで二人で見た花を懐かしむように。あのとき自分は何を言っただろう。思い出せるのに思い出したくないエルサリスはただうつむき続ける。
「花が咲くたび、また今年もあなたに会わせてもらえなかったと、フェリクス師を恨みました」
 嘆願し続けていた、とイアンは言う。隠れて一度、新市街で散策を楽しむエルサリスを見たことはあった。フェリクスに見せられた。
 けれど、それだけ。待てと言われて待った。待ち続け、それでも請願も続けた。もういいだろう、まだだめなのか。言い続けた。そのたびにフェリクスにすげなくあしらわれながら。
 それでもイアンは諦めなかった。意地ではない。ただエルサリスに会いたかった。婚約者のふりをして共にあった彼。夏の植物園で夏霜草の花が好きだと言った彼に恋をした。そのときは女性と疑っていなかったけれど、それが婚約者の弟と知れたからと言って変わるものでもなかった。
「あなたに、会いたかったのです」
 それをうまく伝えられたならば、エルサリスは笑ってくれるのだろうか。こんな風にうつむかせたいわけではなかったのに。
「ありがとう存じます」
 まるでエルサミアのように彼は顔を上げて微笑んだ。違う、イアンは言いたくて、言ってはならないと自制だけはした。エルサリスが何を隠して、どう心を抑え込んだのかがわかれば。だからせめて。
「フェリクス師はあなたを案じたのでしょう。屋敷には懐かしい人もおりますよ」
 そう言ってイアンは馬車から下りた。エルサリスに手を差し伸べてしまってから、女性扱いをしてはならないかと後悔をする。だがエルサリスは気づきもしなかったのだろう、ふんわりと指先を委ねてきた。
「お帰りなさいませ、旦那様。坊ちゃま」
 はっとした。イアンに取られたままだった指先が、屋敷の内に入った途端滑り落ちる。悲鳴を上げないよう口許を押さえ、それでも嬉しげにエルサリスは駆け寄る。
「リジー!」
「まぁ、坊ちゃま。そんな風になさるものではありませぬよ。変わらずお元気そうでらっしゃいますね」
「もちろん」
 ようやくエルサリスが笑った。イアンはそれを浮かべさせたのが自分ではなかったことに忸怩たるものを覚えはしたけれど、安堵はする。
「お覚えですか、エルサリス。ベルティナも我が家で預かっていますよ」
 あの女中頭も。エルサリスに好意的であった生家の召使たちは多くはない。数少ない例外が彼女だった。生家を処分したときフェリクスは召使の身の振り方も面倒を見る、と言ってくれた。ならば、とエルサリスは悟る。リジーがそれに黙ってうなずいた。
「おや、イアン殿。お帰りでしたか」
 屋敷の大階段から悠然と下りてきた人がいた。短い髪も、その身にまとう衣装もいずれも貴族男性のもの。エルサリスは目の前が白むのを見たように思う。イアンを親しく呼んだその人は男装をした女性だった。




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