チェル村訪問より先、エルサリスは訓練の終了とそれに伴う星花宮からの旅立ちを告げられてはいた。数年間すごした星花宮。自分はここで「エルサリス」になったのだと彼は思う。そこからの旅立ちに不安がないはずもない。それでも歩き続けて行くのだとは言えるようにはなった気がする。 転居先はフェリクスが探してくれることになっていた。元々資産管理も彼が行ってくれていたもの。エルサリスは安んじてすべてを任せていた。それにしても、こうも早いとは思わなかったものを。チェルより帰ってから数日と経たずエルサリスは転居を告げられた。まだ双子との面談で得た混乱など癒える余裕もないままに。 「え……」 そう言ったきり、エルサリスは何も手につかなくなった。出て行くことはわかっていた。訓練自体は終了している、とみなが知っている。別れを告げ、励まされ。それでもふわふわとした覚束なさ。結局そのまま当日を迎えた。 「あぁ、来たね」 星花宮の玄関にほど近い部屋。外部からの来客を一時留めるための部屋だった。ここからエルサリスは旅立って行く。 「フェリクス師――」 何を言っていいのかわからなかった。だからエルサリスは無言のまま頭を下げる。それでいいよ、とばかり彼は小さく笑っていた。それから少しばかり困ったような顔をする。 「ちょっと不測の事態が起こってね。あなたには申し訳ないんだけど、僕が考えてた家が使えないみたい」 エルサリスはここまで一緒に来てくれたエリナードを振り仰ぐ。今更ながらどうしよう、と戸惑う表情に彼は笑って肩をすくめた。 「で、師匠?」 話には続きというものがあるのだ、とエルサリスにいまでもまだ教えるような言葉。それを見たフェリクスがくすぐったそうに笑っていた。 「うん、ちょっとね。あなたには悪いけど、しばらく僕の知り合いのところに滞在してくれない? 悪いようにはしないから」 「それは……かまいませんが……。先方は」 「問題ないよ。大丈夫、向こうも納得ずくだから」 だろうな、とエリナードは思っている。考えが顔に出たはずはない、心に軽く触れて来たフェリクスの精神の指。それがエリナードをそっとたしなめる。無言のままに肩をすくめた。 「じゃあ、顔合わせしてもいいね?」 はい、とエルサリスがうなずくに至って、来客が入って来た。どこからか合図を受け取るものがいたのだろう、などエルサリスが考える余裕は一息でなくなった。 「……ひっ」 それはないだろう、とエリナードは憐れになる。ここでそんな悲鳴を上げられればどれほど面の皮の厚い輩であろうとも多少なりとも傷つきはしないかと。 「エルサリス、元気でしたか」 だが面の皮が厚いとも見えない彼はそう微笑んでエルサリスの手を取っただけ。緊張も極まり過ぎてエルサリスの反応が目に入っていないらしいとさすがにエリナードは気づいた。 「イアン、様……」 イアン・ジルクレストだった。どう言うことだとフェリクスを振り返る。彼は何事もなかったかのようそこにいるだけ。つまりこれは、そう言うことなのかとエルサリスは困惑する。 「あなたの知り合いかもしれないけど、僕の知り合いでもあるからね。嘘は言ってないよ?」 「どんな……お知り合いなのでしょう」 言い返すようになったものだとエリナードは嬉しく思っている。せめてエルサリスは問う、と言うことができるようにはなった。 「ジルクレスト卿の従騎士訓練をしたのが星花宮の子だったんだけど? エリィは覚えてるでしょ、ジョウナス・マコーリアン」 「あぁ、あのいじめっ子。覚えてますよ。俺、さんざんいじめられましたからね。そうだったんですか、卿の訓練ねぇ」 それほどまともな騎士になっていたのかとの驚きが一つ。いままで隠していた師への驚きが一つ。茶目っ気たっぷりにフェリクスが笑った。 「まぁ、とりあえずお前にとっても見ず知らずの他人ってわけでもねぇ。それほど気ぃ使わなくっていいだろ」 嘘だろうとエリナードは言っていて思う。イアンの屋敷に滞在するとなればエルサリスは非常な緊張にさらされる。無論、フェリクスはわかっていてやっている。根本的な問題として、探していた家がだめになったと言うことがまず嘘なのだから。事前に師に知らされていたわけではない、今ここで接触によって悟らされたエリナードではある。それでもこの師弟にとってはなんの問題もなかった。 「……えぇ」 イアンに取られた手をそれとなく引きはがし、エルサリスは所在なく佇む。その手を今度はエリナードが取る。ぽんぽん、となだめるよう叩けばイアンの鋭い眼差し。気づかないふりをしてエリナードは笑っていた。 「ほれ、荷物な」 三年以上もの間ここで暮らしたのだ。当初は何一つ持たなかったエルサリスであっても細々としたものが増えている。彼はそれを持ち出すつもりがなかった。旅立ちに当たって荷造りをしろ、と言ったエリナードにエルサリスはきょとんとしたのだから。 「はい。……エリナード」 「なんだよ?」 「ありがとう、色々」 おうよ、と笑いつつエリナードは背筋が寒い。わかっていてやっていることではあるのだが、イアンにそのような目で見られるのはできる限り全力で遠慮したいところだと思う。それをまた師が楽しげに見ているのだからたまったものではなかった。 エリナードから渡された荷物は小さな鞄一つきり。革の頑丈な鞄ではあったけれど、三年分の私物としてはいかにも小さい。 「解呪は通常化してあるからな。お前でもできる」 が、それこそが星花宮に籍を置く魔術師ならでは。多くの衣服やエルサリス自身が筆写した本。そんな嵩張るものであっても魔法で縮小しておけばこの程度。しかもエリナードは言った、通常化、と。魔法ではなく、通常の言語で解呪できるようにしてある。それがどれほどの技術か。ここで理解できるただ一人であるフェリクスは一人もぞもぞと体を動かしていた。 そんな師をちらりと視界の端に納めたエリナードは文句でも言おうかと思う。だがその瞬間、戸が叩かれる。正に叩いただけで入室の許可も待たずに入ってくるあたり、星花宮の魔導師だと思わないでもない。 「オーランド?」 エルサリスが驚いた顔をしていた。彼と親しかったエリナードの同期たちとはすでに別れを終えている。しかも無口の権化と名高いオーランドだ、今更改めて別れの言葉があるとは思い難い。そして驚愕する羽目になる。オーランドが携えてきたものをふわりと広げ、エルサリスの背へとまとわせる。そのまま意外と繊細な手が襟元を留めてくれた。 「外は、冷える」 それだけを言って彼は出て行こうとする。一度だけイアンに目を向けたのは一応は来客だ、との思いがあるせいか。かすかな目礼にイアンが反射のよう礼を返していた。そして本当にそのまま彼は出て行く。 「……ほんっとに無口にもほどがあるよな」 「オーランドもエルサリスのことは可愛がってたみたいだしね。旅立ちに贈り物があげたかったんでしょ」 「愛される性質ってやつですかね。これ、染色はミスティだな。……いい腕してやがる」 ふん、と鼻を鳴らしたエリナードをエルサリスが笑った。それにイアンが目を瞬く。こんなにも朗らかな彼は知らないとでも思ったか。 「……綺麗」 気づかずエルサリスは胸元を押さえていた。オーランドが贈ってくれたのは上等な外套だった。以前彼が作ってくれたのより遥かに上質なのは彼らの思いなのか技術なのか。たっぷりと取られた襞は相変わらず柔らかな印象を与えたけれど、いまのエルサリスには非常によく似合う。あながち女性的とも言い難い形に仕上がっていた。しかも目の覚めるような美しい青。エルサリスの銅色の髪が非常に映えていた。襟元から裾へ、ぐるりと真っ白い兎の毛が飾られているのもまたエルサリスによく合う。 「似合ってるぜ」 にこりと言えばまた背筋が冷たい。このあたりをエルサリスが理解する日が来るのだろうか。できればさっさと来てほしいエリナードだった。 「ありがとう」 ぽ、と頬を染めたりするものだからイアンが刻一刻と不快さの度合いを強めている。気づいているのかいないのか、エリナードとしては後者だと思うのだがエルサリスは決してイアンのほうを見ようとはしなかった。 「フェリクス師も。――至らない私をお導きくださいました。このことはどれほど」 「よしなよ、エルサリス。今生の別れってわけじゃないでしょ。あなたはここから巣立って行くだけ。――ねぇ、ちょっとかがんでくれる?」 あなたもエリィほどではないけれど届かない、フェリクスが拗ねた口調でそう言えばエルサリスも小さく笑う。そして彼の要請どおり身をかがめた。 「あ」 その額に軽く押し当てられたもの、フェリクスの唇。まるで神官の祝福だった。エルサリスは今になって泣きそうになる。 「たった三年ちょっとっていう短い間だったけどね、それでもあなたは星花宮の子。僕らの可愛い子供だよ。だからね、エルサリス。僕はあなたが幸せになれるよう、いつでも祈ってる。それは覚えておきなよ」 「はい……」 「泣かないでよ、僕がいじめたみたいじゃない」 「基本的にいじめてますけどね」 「エリィ? 何か言った?」 「いーえ、なんにも。――まぁ、なんだ、エルサリス。同じ屋根の下に暮らさなくなるってだけのことだ。だろ? 俺にとってもお前は弟だしな。なんかあったら呼べよ。呼び方は覚えてんだろ? 弟の愚痴の相手くらいいつでもしてやる」 ぽんぽん、とエルサリスの頭を撫でるよう叩けば涙ぐみながらもうなずく彼。隣でイアンが強張った顔をしていた。 「ジルクレスト卿。俺が言うのも妙なものですが、エルサリスを頼みます」 「……妙、ですか」 「妙ですよ」 エルサリスはやり取りがわからなかったらしい。それにエリナードは安堵する。イアンは言ったに等しい、エルサリスの恋人であったのではないかと。即座に否定したエリナードを彼が信じてくれたかは非常に疑わしかった。 「……困った子だよね」 去って行った二人の後ろ姿が消えてからフェリクスがぽつりと呟く。まったくだ、とエリナードもうなずいていた。探していた家がだめになったのならば星花宮で待ちたいと、最後までエルサリスは言わなかった。イアンに連れられて行く後ろ姿は、蹌踉としたものであったのに。 |