早いものだと思う。エルサリスが迎える四回目の秋も終わろうとしていた。正直に言えば最初の秋はまったく覚えていない。それでも時間が経ったのだけはどことない苦笑と共に思い出す。 「エルサリスお兄ちゃん!」 いまだ彼は姿形をさほど変えていない。オーランドがはじめに作ってくれたのと似たような形の長衣のままだ。髪も長いまま。時折結いあげ、別の時には解き流す。生来の骨の細さもあって、いまでも彼はうら若き乙女に見えなくもない。 「頑張って。私はここで見ているから、ね?」 子供たちが遊ぶ中庭だった。遊びに誘われているのだけれど、彼らに付き合っていると身が持たない、と理解したのも時間のなせる業。手を振るエルサリスに子供はぷん、と頬を膨らませ、それでも楽しげに駆け去って行く。 この三年で子供たちも見知った顔が少なくなっている。そのぶん同じほど新しい子供たちが増えてもいる。訓練を終え弟子になったもの、市井に帰ったもの。様々だった。最近ではリオンの親類、と紹介された少女もいた。不思議な笑みのその少女が奇妙なほどに慕わしくて、あちらも懐いてくれて。ほんのしばし時を共にしただけであったのに懐かしく思い出す。 中でも顕著な変化、とエルサリスが捉えたのはエリナードたち。エルサリスが星花宮に引き取られたときには彼の同期は十数人いた。今ではもう四人だけ。エリナードが仲のよい仲間、としてあげる四人だけ。他はみなアイフェイオンの名を得ず市井の魔術師として身を立てている。それでも同期が四人も残ったというのは魔術師の世代としては快挙と言ってもいいくらい多いことだ、とフェリクスは笑っていた。通常は一人か二人。否、二人残れば「この世代は多い」と言われるほどだと。 けれどその中にあって一人。エリナードただ一人。彼だけがいまだ弟子の身分のままだった。エルサリスにはそれも不思議なことのように思う。意を決してフェリクスに聞いたことがあった。 「なぜ、エリナードに名をお許しにならないのでしょう? 私には……もう彼は立派な魔術師のように思えてならないのです」 フェリクスとエリナードを丸々三年間見てきたエルサリスだった。誰かがフェリクスの溺愛ぶりを笑っていたけれど、フェリクスこそが一番にエリナードを買っているのは事実のよう、エルサリスは思う。まして彼はエリナードを我が子と呼ぶのに、と。 「あぁ、そんなこと? そうだね、本人が外で魔術師をしたいって言うならいつでも僕は名前を許すよ。でもあの子は星花宮の魔導師になりたいって言い続けてるからね。――本人がまだ、学ぶことがある、自分は弟子のまま勉強がしたいって言うんだよ」 だからだ、とフェリクスは言った。どことなく照れているようで、彼がそんな弟子を心底から愛しているのだとエルサリスにすらわかるほど。 師弟にして、血の繋がらない親子。エルサリスはその在り方こそを学んだ。自分にも親はいたけれど、いない。いまだドンカ神殿から許された、とは聞いていない。悔い改めるとはエルサリス自身、思えない。 本当は、悔い改めてほしくなかったのかもしれない。あの人たちはあのようにあり続けて、生涯罰を受け続ければいい、そう思っていないとは言い切れなかった。 けれどそうではない親子がいるのだ、とは学べた。この星花宮で、血など関係がないと言い切っては笑う人がいた。穏やかな暮らしを営む親子が北の薬草園にはいた。 それが三年の時を経て結実したのが、この夏だった。エルサリスは一人フェリクスに頼み事をした。生まれ育った家を処分したいと。 「いいよ? とりあえず――」 ドヴォーグ氏が営んでいた商売は遠い親類の一人が受け継いでいる、と彼は言った。エルサリスは商売など気にも留めていなかった自分を恥じる。使用人だとていたことだろうに。フェリクスが手を打ってくれなければ彼らも仕事を失ったことだろう。 「遠縁、ですか?」 「そうだよ。あなたの叔父さんとか伯母さんとかはいるけどね。でもその人たちは『エルサリス』がどう言う状態なのかを知ってて無視してた輩だよ? そんなのに信が置けるわけがないじゃない」 「あ……」 自分のことを知りつつドヴォーグのおこぼれに預かりたいがために見なかったことにしていた親戚。そんなものの存在すらエルサリスは知らなかった。親戚がいたのか、と漠然と思っただけ。顔も知らないのではそんなものだとフェリクスはただ肩をすくめた。 「その人からね、毎年少しあなたに支払わせる形にしてあるから。あなたが星花宮を出ても、食うに困ることはそれでないはずだよ。屋敷はあなた個人の資産としてあるから、処分したいならそれもあなたの財布に入る」 「……星花宮を出る日まで、フェリクス師にお任せしても、よろしいでしょうか」 「そのつもりだよ。まぁ、僕も専門家じゃないからね、僕が信頼する書記に任せることになるけど。あなたは大金を預かることに慣れてないだろうからね、ここを出たあとはリジーに誰かを紹介してもらってもいいし、僕が紹介してもいい。考えておきなね」 リジーと二人、ひっそりと暮らすとしか考えていなかったエルサリスだった。家屋敷を処分しただけでもずいぶんな大金になると言われてもぴんとは来ない。金銭の管理が書記の仕事だとも知らなかった自分なのにと。 「そりゃそうでしょ。僕は魔法の師匠であってあなたに財政管理を教えてるわけじゃないからね。教わってないのに知ってたらちょっと変じゃない。そう言う変な子もいるけど」 「そう、なのですか?」 「エリィだよ。あの子は僕が教える前にさっさと一人で本読んで自習して。何度それで痛い目にあっても止めない。怪我して体壊して寝込んでも先に先にと行きたがる。そう言う子だったからね」 どれほど口を酸っぱくして寝ろ食べろと言い続けたか。嘆かわしげに言うフェリクスにエルサリスは師の愛を見る。見ることができるようになったのも。彼ら師弟のおかげだと思いつつ。 「兄ちゃあーん!」 物思いから覚まされ、エルサリスは手を振ってやる。きらきらとした子供たちの眼差しにこちらまで心が温かくなる。いずれも生家ではつらい思いをしてきた子供たちばかり。それでもこの星花宮で大勢の先達の、師の愛情を受けた彼らはのびのびと育って行く。 「そう、なりたい……」 まだまだようやくよろよろと立ちあがったばかりの自分。三年もかかってこのざまかと自らを笑いたい。それでもいいと彼らはみな言ってくれるけれど。だからこそ。 「……本当は」 無様だと思う。馬鹿馬鹿しいと思う。立ち上がりたくとも、立ち止まりたい。星花宮を出たいのかも、わからない。王宮には、イアンがいる。 姿を見かけたことはない。噂話が時折聞こえてくるだけ。それも星花宮を出ればなくなるかと思えば怖い。イアンはいまだ妻帯していない。それが何かの証のようで、認めてしまうのが怖くて。 「イアン様にはただ、幸せになっていただきたいだけなのに」 自分など関係がないではないか。彼はれっきとした立派な貴族で、相応しい家柄から相応しい乙女を娶るべきだとエルサリスは信じている。それがイアンの幸せだと。 見ているだけでいい。見えなくともいい。噂が聞こえるだけでも。聞こえなくとも。イアンの幸せを祈っていられれば、それで充分。 こうしてこの胸に彼を思う。それでもうエルサリスは幸せだと思う。あの生家で過ごした日々の中、思い出して楽しいことなどほとんどない。姉の身代わりとしてイアンに出会えた、それだけが輝くような思い出だ。 「だから」 そんな眩しいぬくもりをくれたイアンにはどうしても幸せになって欲しかった。彼が幸福だ、と確認したら自分はもうどうでもいいような気がしている。 「あそぼ!」 不意に小さな女の子に手を引かれた。まだ星花宮に来たばかりの幼い子供の熱い手。エルサリスは溜息と共に内心での思いを押し込める。そして笑顔で子供たちに加わった。 それを見ている人間がいたなど、エルサリスは気づきもしない。星花宮の露台だった。中庭を見下ろすことができる露台にフェリクスは立っている。半ば覗き込むようにしているのは彼が小柄なせい。その後ろ姿を見かけたエリナードは黙って師の隣に立つ。フェリクスも無言でエリナードに体を預けた。 「……師匠」 地を這うような弟子の声にフェリクスはくすくすと笑う。仕方ないな、と少しばかり体を離してやり、けれど腕はしっかり組んで離さない。溜息が上から聞こえたけれどきっぱりと黙殺した。 「エルサリス、どう?」 「それを俺に聞きますか? 俺は一介の弟子なんですけど?」 「年が近いじゃない」 近くはないだろう、常人の感覚としては。十歳ほども違うのだから。呆れたエリナードにフェリクスは取り合わず、視線だけでエルサリスを追っていた。 「――訓練はほとんど終わってるようなもんだと思いますよ。魔力を垂れ流すこともなくなった」 「そっちは問題ないんだよね。それは僕もそう思う」 「ためらってる原因はあれですか?」 「そう。あの子の自分はどうなってもいいって考えてる、あの根性が僕は気に入らない」 「それは……まぁ……」 それこそ彼に染みついた気性にもなっている考え方だ、たかが三年で改まるとはエリナードは思っていない。 「それを言うなら、あっちもなんだけど。やいのやいのうるさくなってきたよ」 「あぁ、ジルクレスト卿?」 諦めなかったか、とエリナードとしては微笑ましい気分でいるのだが、フェリクスは気に入らないらしい。 「だってね、彼は一度もエルサリスの気持ちを聞かないんだよ。エルサリスが戻ってくるのは既定の事実みたいに思ってるのが、ちょっとね。エルサリスを愛してるのは、僕にもちゃんとわかってるけど」 「――自分はどうなってもってエルサリスは愛情を与えたがってて、卿は卿で相手の意志を聞くまでもないって愛情をもらいたがってて? そりゃ難儀ですね」 「そうだね、いいこと言うよ。そのとおり、与えたがりともらいたがり。――ねぇ、エリィ。この二人、一緒にしていいのかな。エルサリス、幸せになれると思う?」 「さて。本人が幸せなら他人が口出しする問題でもない気がしなくもないですが。――そうですね、あいつはちょっと既成概念にとらわれすぎなところもあるし。ちょいと荒療治と行きましょうか」 にやりとしたエリナードを振り仰ぎフェリクスはそっと微笑む。それは弟子もまた自分と同じ着想を得たかとの師の笑み。 「ん、その線で行こうか。じゃ、エリィ。お願いね」 やっぱりこうなるだろうな、とエリナードは半ば諦めの境地。もっとも相手はエルサリス。星花宮の中でも付き合いが深いのだからここは自分の出番でもある、と無理矢理に納得した彼だった。 |