彼の人の下

 しばらくの間、両者ともに無言だった。遠く新市街の活気ある喧騒が聞こえてくると錯覚するほど、静か。
「サリス様」
 口を開いたのはリジー。ぼんやりと物思いに沈んでいたエルサリスははっとして顔を上げる。照れくさそうに笑った彼にリジーが安堵の笑みを見せた。その表情がまた強張る。
「僭越とは心得ておりますが……サリス様は……」
 口ごもってしまったリジーにエルサリスは慌てる。言葉などなくとも長年この身を育ててくれた乳母だ。彼女が何を問いたいのかは察することができた。
「違うの、リジー。違うったら!」
「ですが、サリス様はいまだかつてなくおくつろぎになっていらしたご様子」
 エリナードのことだろう。イメルのことでもよいはずなのに、どうやらリジーは頭からエリナードを疑ってかかっているらしい。エルサリスにしては本当に珍しく慌て、顔の前で手を振りまでする。
「本当に違うの、リジー。エリナードは……なんて言ったらいいのかわからないけれど……彼はイメルを兄、私を弟、と笑うの」
 言った途端だった、リジーが顔を引き攣らせたのは。それにはたとエルサリスは気づく。自分はこんなことを笑って言えるようになっているのだと。
「サリス様……」
「気にしないで、リジー。私も、気にならなくなってたみたい。――エリナードは、同期のお弟子の中では一番年下なのだと言っていたけれど」
「えぇ、存じておりますとも。あれはまだ私が王宮勤めをしていたころでしたもの。十歳をそう出てはいなかったエリナードさんがお弟子様として認められた、とそれはそれは話題になりましたから」
 そんなことがあったのか、とエルサリスは驚く。思えば自分と同じような訓練をしている子供たちは年長では十五歳くらいまで。それ以上と言うことはあまりなく、だが十五歳以下で弟子となったものをエルサリスは知らない。それだけ彼は特異であった、ということなのだろう。
「だから、私を弟、と言うのだと思う。――はじめは驚く間もなかった、というのが正直なところだと思う。でも、嫌ではないの。だから、それだけ」
 エリナードに特別な感情は持っていないと。まだ混乱しているうちに自分は同性愛者だが、などと言ってのけた彼だからこそ、あまり興味を持つような真似をしなかったのか。
 違う、とエルサリスは思う。思い知る。自分の心の中のその場所にはすでに別人がいる。エリナードでは埋められない、埋めようとも思わない場所がある。
「リジーなら、知っているかな。さっきの二人と、他にもミスティとオーランド。いろんなことを教えて、そう……遊んでくれているのだと思う」
 知っている、とリジーは微笑む。彼女にとっても懐かしい思い出なのかもしれない。あの四人の子供時代を知る者として。ふと、どんな子供だったのだろうとエルサリスは思う。だからかもしれない。つい、と顔を上げたエルサリスの表情にリジーは息を飲む。
「ねぇ、リジー。聞いてもいい? お前は知っていると思うの。――お父様、お母様は、どうなったのかを」
 本当ならば、聞きたいとは思わない。けれど、今後思い出さないためにも、知る必要がある、エルサリスはそう感じた。知っていて思い出さないようにするのと、見ないふり、なかったふりは違うだろうと。
 それに目を開く思いでいた。だからいまだったのかと。半年というもの、星花宮と言う別世界に置かれ、そしてこの身に宿った汚れを何もかも洗い流された、そんな気がした。いまならばエルサリスは生家のことを受け入れることができる、彼らは、あるいはフェリクスはそう判断してくれたのか。ならばその心を励ましとして立ち向かいたい。
「サリス様……ほんに、ご立派になられて……」
 たった半年。けれどエルサリスにとっては人生を覆された半年。自分の意志で、やむを得ない魔力のせいで。どちらにしても変わってしまった世界。リジーには小さな男の子が青年になるほどの半年。ぐっと腹に力を入れて覚悟を決めた。
「――旦那様、奥方様は、ドンカ神殿に」
 そう、とエルサリスは呟いた。ただそれだけだった。何を思うこともできないのかもしれない。あるいはドンカ神殿がどんなところか知らないか。思ったリジーに彼は黙って首を振る。
「知っているけれど、あまり感慨がないと言うのが正直な感想。――ドンカ神は家庭の守護を司る、と星花宮で習ったの」
「そのとおりです。ですから、高司祭様がいたくお怒りになられた、と聞き及んでおります」
「お怒りに?」
 さすがに何を言っているかわからなかった。そんなエルサリスにリジーは伝聞だが、と言いおいて説明をした。
 ドヴォーグ夫妻の行状に、本当に高司祭は怒り狂ったと言う。その場で打ち殺さんばかりだった、とリジーは聞いた。そうしてくれていればエルサリスも気が晴れただろうか。そんなことをつい考えもした。結局、高司祭はなだめられ、夫妻を神聖呪文の呪縛下に置いた、とリジーは聞いた。
「亡きお嬢様、ましてや坊ちゃまをこのようになさったお二方は人の親たるものではない、と。心の底から悔い改めるまで神殿で罪を償うために働くように、とのことです」
 リジーに理解ができたのはそこまでだった。実際はもう少し厳しい罰だ。夫妻が少しでも我が子たちのことを悪しざまに考えようものならば酷い苦痛が身を襲う。他人の子でも同じこと。子供という存在を惨く扱ったのだから当然の呪文だ、とドンカの高司祭は言った。
「そう……。確かに親、ではないと思う。――星花宮で、フェリクス師とエリナードを見ていると、あの在り方が親子かと私は思うの。フェリクス師はエリナードに無茶を言うけれど、それも彼のため。本当に、おためごかしではなくて、言葉の上だけでもなくて、彼が彼としてちゃんとした大人になれるよう、お心を砕いているのが私でもわかるの」
 そんなものを知らなかった自分にも。漠然と考えていたことがリジーとの再会で言葉になる。確かにあれが親子の在り方、なのだろう。不意にエリナードの以前の言葉が蘇る。北の薬草園でのこと。自分たちの在り方だけが親子と言うわけでもないと言った彼。彼の妹のミナ一家。あれもまた一つの在り方。千差万別だと笑っていたのはイメルだったか。
「だから、なのかな……。お父様お母様が私を子供と、別けても息子と思っていなくても……あまり気にならないの、いまは」
 彼らにとって自分は確かに息子ではなかった。「使える道具」である姉の身代わりでしかなかった。娘ですら、道具でしかなかった彼らなのだから。
 その思いに荒れ狂ったこともある。けれど同じだ、と思う。彼らが自分を我が子と思わないのならば自分はどうだろう。
「――私もお父様お母様を親だとは、思っていなかった気がする」
「そんな、サリス様!」
「違うの、リジー。私は確かにあのお二人の子だとはわかっているの。それでも、なんて言うのか……やっぱり『親』ではないな、と。そう言うことなの」
 うまく言えなくて、照れ笑いをするエルサリスにリジーは目を瞬く。半年でエルサリスはここまで変わったかと。ただただ流されて行くしかなかった彼が、ようやく自分の足で立とうとしている。知らず目許を押さえていた。
「泣かないで、リジー。私、そんなに変わっていないから」
「とんでもない。ずいぶんとお変わりになられましたとも。お口ぶり一つとっても」
「そう?」
「えぇ、すこぅし男らしゅうおなりあそばしました」
 どこがだろう、エルサリスは笑ってしまう。いまだに女言葉が抜けない。星花宮では誰も気にしていないせいもある。男だ、と紹介されていながら、それでもこんな姿でこんな言葉使いをする自分をただエルサリスと受け入れてくれている。
「あぁ……私は、ようやく私になるのかも、しれない……」
 エルサミアの身代わりの、名付けられもしなかった影ではなく、リジーがつけてくれたエルサリスという名の一人の人間として。
「坊ちゃま」
 だからこそ、リジーの言葉を微笑みで止めた。彼女が何を言いたいかわかっていたから。そしてリジーのほうもそんなことで止まるような乳母ではなかった。
「エリナードさんをお慕いになっているわけではないと仰せです。ならば、いまもまだ坊ちゃまのお心にはジルクレスト卿がおいでですか?」
 先ほど慕う相手がいる、とエリナードは断言していたではないか。リジーの目にエルサリスはほんの少しエリナードが恨めしい。そしてそんなことを思う自分にも驚く。これが自分の心、ということなのかと。好き嫌い、楽しい嬉しい、哀しい恨めしい。そんなことを考えたことがほとんどない。あるのはただ「姉ならばどう受け答えするか」だけ。
「サリス様」
 ぴしりと筋の通ったリジーの声にふと懐かしさを彼は覚えた。ずっと聞いていたこの声と離れて半年かと。この声に、彼女に育てられた、いまにして染み込むよう得心した。
「いるもいないもないでしょう? 思い出して、リジー。私は男だと言っているでしょう」
 笑いながら言ってみせたのは胸の奥がほんのりと痛んだせい。そんなもので乳母を誤魔化せるとは思えなかった。
「坊ちゃまがお慕いになるぶんはなんの問題もない、エリナードさんはそう仰せでしたよ」
「でもリジーはそういうことを言っているのではないでしょう?」
 言い返したエルサリスにリジーが笑う。彼女もまた懐かしかったのかもしれない。二人で過ごした地下での日々が。懐かしいと思えるだけ、遠くなっていく。
「イアン様は……もうご婚約が調ったかしら。ご婚儀まで済んでいても、不思議ではないわね」
 自然とかつての口調に戻ったのもいまのエルサリスは気づいていない。リジーの深い溜息に自失から立ち戻る。
「そのようなはずがありましょうや? ご婚儀どころかご婚約の話も聞こえてまいりません。ジルクレスト卿のお心はいまもまだ坊ちゃまに」
「待って、リジー。いいの、私はいいの。イアン様にはお幸せになっていただきたい。――私では、だめ。イアン様にお子を差し上げられない。だから、イアン様を遠くから……。それでいい」
 ぎゅっと唇を噛みしめたのに彼は気づいているのだろうか。リジーは何も言わない。こうなるとしばらくは聞き容れない、と乳母は知っていた。だから一言だけ。
「それは愛情とは申せませんよ、サリス様。与えるだけ、受け取るだけが愛情ではありません」
 意味がわからない、とエルサリスは無言で首を振る。寄る辺ない幼子の表情。リジーはただ側にいて励ますだけ。あとはきっとフェリクスが彼を立たせてくれる。それを信じて。
 三日の後、エルサリスは星花宮に帰還した。迎えにきたエリナードは意外と早かったな、と笑っていた。




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