彼の人の下

 自分の楽しみとしての街歩きなどほとんど彼はしたことがなかったのだろう。幾分疲れてはいる様子だったけれど、アイフェイオン館に到着したとき、エルサリスはほんのりと頬まで上気させて笑みを浮かべていた。
「ほれ、ここだぜ」
 大きな屋敷だった。新市街にあるというところからして、古色などつきようはずもない。だけれどなぜだろう、古い風格を感じないでもない。それでいて非常に現代的に洗練された建物でもあった。
「イメルー、いるか」
 まるで我が家のよう入っていくエリナードにエルサリスは笑ってしまう。これほど大きな屋敷に召使がぞろりと揃っていない、というのも不思議な気分。そして。
「あ……」
 呆然と、その場に立ち尽くすかと思った、エルサリスは。それなのに勝手に足のほうが動いている。駆けだす勢いで飛び込む。
「リジー!」
 お帰りなさいませ、微笑むつもりだったのだろうエルサリスの乳母は彼の勢いに押され、抱きとめた体によろめく。
「まぁまぁ、坊ちゃま。なんと……ご壮健そうで……」
 涙声にエルサリスは顔を上げた。すっぽりと腕の中に抱きしめた乳母の体。こんなにもリジーは小さかっただろうかと思ってしまう。
「リジー、なんて言ったらいいの……リジー」
 会いたかった。元気にしていたか。いくらでも問いたいことはあったのに、不意打ちで訪れた再会に言葉がない。ただただ彼女の体を抱きしめる。
 こんなにも会いたかったのだと、今更のよう理解した。星花宮で過ごす日々、自分は変わってしまったのだからなんとしても魔力を制御する術を掴まねば。リジーはきっと元気でやっている。フェリクスが保証してくれたのだから大丈夫。心の奥で呟き続け、見ないふりをして過ごしてきた。
「……会いたかった」
 口に出せば、それだけで涙が零れそうだった。リジーの頬ももう誰はばかることなく濡れている。手を取り合い、互いの顔を見つめ続ける二人をエリナードが微笑んで見ていた。
「お。おかえりー。早かったな」
 とんとん、と階段を踏む音も軽やかに下りてきたのはイメル。弾むような足取りに彼の性格を見るよう。
「リジーさんはな、ずっとここで働いてもらってたんだ」
 エリナードに言われ、ようやくエルサリスは涙を拭う。ほんのりと頬が熱かった。イメルが楽しげに笑いながら手巾を手渡してくれたのをありがたく借り、リジーの頬も押さえれば驚き、歓喜に染まった乳母の顔。
「フェリクス様のお指図で、こちらに。――坊ちゃまにお目にかかるのはまかりならんと……フェリクス様をお恨みしたことも。ですが……こんなにもお元気そうで……坊ちゃま……」
 ぎゅっと握られた手にリジーのぬくもり。懐かしくて、自分にも大事な思い出があったのだとエルサリスは痛感する。あの屋敷のことは日々遠くなっていく心地でいた。忘れたかったのだろうと思う。けれど忘れたくないものがここにある。
「さっきのお菓子、届いてるよー。お茶にしようよ!」
 イメルの朗らかな声にエリナードがちゃんと届いていたかと笑う。エルサリスは離したくない手をどうしたものか迷っていた。
「あぁ、リジーさんも一緒にな」
「いえ……ですが、私は……」
「いや、リジーさんにも聞いといてほしい話だから。まぁ、半年もここにいりゃわかるでしょ。ここはそんなに格式ばった屋敷でもねぇよ、気にしないで同席して」
 ちらりと笑ったエリナードは珍しく照れている様子。何を見たのだろう、と目を瞬くエルサリスにイメルがこっそりと耳打ちした。
「照れてるんだよ、こいつ。リジーさんの卵焼き大好きだったからね」
 要は子供時代に彼女に懐いていた、ということなのだろう。エリナードのそんな姿にエルサリスは小さく笑みをこぼす。それを見てはリジーがほっと息をついていた。
 イメルがさっさと用意した茶が居間に揃っていた。先ほど求めた菓子も綺麗に皿に盛られている。きちんと盛り付けられた菓子はずいぶんと偉そうに見えた。
「露店のお菓子だって? エリナード珍しいじゃん」
「発酵乳だって言うからよ、中のクリーム。お前好きだろ」
「え!? そうなの、すっごい嬉しい。最近、流行だよなー」
 ころころと笑いながらイメルはリジーにも菓子を取り分けていた。そのあたりが意外と気が利く、とエリナードは感心している。
「発酵乳、というのはなんなのでしょう。ついぞ聞いたことが……」
「あぁ、リジーさんだと知らないだろうな。最近になって流行り出したもんでな。要は乳を発酵させたもんなんだけど、北のほう……右腕山脈の麓とかな、あっちのほうでは昔からある食い物だよ」
「俺たちが最初に口にしたのってイーサウだっけ?」
「俺たち、じゃない。お前が、だ」
 ぴしりと指をつきつけエリナードが笑う。それなのに少し大きめの菓子を半分に割り、口にする姿は貴公子のよう。エルサリスも先ほど味見をした菓子の味を思い出してそっと手に取る。
「……おいしい」
 濃く淹れた茶がよくあった。一種独特の風味がする発酵乳だったけれど、エルサリスは好きな味だと思う。
「悪くないだろ?」
「えぇ、好きな味です」
 その言葉にエリナードがにやりとした。イメルまでにんまりとしているからエルサリスは驚く。リジーがふ、と緊張した気がした。
「リジーさんだったらこれ、どんな風に料理する?」
 けれど知らん顔でエリナードはリジーに話しかける。彼女も何か感じるものはあるのだろう。けれどここは彼の思惑に従おうというのかわずかに首をかしげて話に乗った。
「さて、どうしましょうか。甘い果物を和えてみたりしてもおいしいでしょうねぇ」
「リジーさん料理上手だからな。俺はほんとにあの卵焼き、好きだったのに」
「嬉しいことをおっしゃいますね。ほんに大きゅうなられて……」
 エルサリスは懐かしそうにエリナードとイメルを見やるリジーに内心で首をかしげる。今更のよう、気になることがあった。
「エリナード、お尋ねしても? あなたはお幾つなのでしょう」
 どうにも勘定が合わない気がしてならない。エリナードとイメルは三歳違いだと聞いている。そしてエリナードと自分、さほど年齢が違うとは思えない。けれど。そのエルサリスの問いにエリナードがこらえきれなかったよう大きく笑っていた。
「半年だ、エルサリス。ようやくその質問が出たな?」
「……え?」
「俺がどうのじゃねぇよ。お前はようやく他人に目を向けることを覚えたんだ。いままではあんまり気になってなかっただろうが?」
 あ、と口を押さえたエルサリスをぎゅっと唇を噛んだリジーが見ている。心配でならないのだろう。気持ちはわからなくはないエリナードだった。そんな眼差しを何度となく見知っているせい。
「俺は今年で三十二になるか。イメルは五だな」
 ぽかん、としてしまった、エルサリスは。何を聞いたのだろうと思う。まじまじとエリナードを見つめても彼は苦笑するばかり。
「俺たちは魔術師だからねー。外見年齢がけっこう早いうちに止まっちゃう」
「押し出しがきかなくって難儀するよな」
「だよねぇ」
 若造にしか見えないのではそれ相応の扱いしかされない、と嘆く二人の魔術師にエルサリスは何を言えばいいのかわからない。何を問えばいいのかも。
「なぁ、エルサリス」
 戸惑いを察知したのだろうエリナードの真摯な声。目だけはいつもどおりに淡く微笑んでいた。不意にフェリクスの眼差しと似ている、そんなことをエルサリスは思う。
「師匠はな、お前に自我らしい自我ってもんがないと思ってるみたいだ。でも一応はあると俺は思ってるぜ」
 貫かれたかとエルサリスは思った。そのとおりだと。フェリクスの言葉どおりだと自分でわかってしまった。黙って首を振るエルサリスの手をぽんぽん、とイメルが叩いている。
「あるだろうが。お前には惚れた相手がいるだろ、自我がなくって惚れられるか」
「それは……! エリナード、やめて……それは……」
「ほらな? 言われて恥ずかしいと思うのもちゃんと自我があるからだ。ただな――」
 からかわれているのか真面目なのかわからないエリナード。慰めるようイメルが傍らにいてくれる。リジーと両側で励ましてくれている。
「さっきお前は甘いもん食わせる茶店に入るかって聞いたとき、なんて言った?」
「……甘いものはさほど好まないから、と」
「だな。じゃあ、髪留め買ったときは? ――もうわかるかな。お前はいままでやったことないことだったら、自分の好き嫌いが言えるんだ。逆に姉さんの身代わりとして判断したことは、いまでもそれをついやっちまう」
「いままでずっとやってきたんだからね、それは無理もない。エリナードだって俺だって、好き嫌いが言えるようになったのってどれくらいかかったっけな。五年やそこらじゃきかなかったと思うよ?」
「そう言う意味じゃお前は優秀だぜ? 半年そこそこでちゃんと好き嫌いが少しは言えてる」
 考えたこともなかった、エルサリスは。姉の身代わりとして判断していたと考えたこともなかった。あるいはそれだけ身についてしまっていると言うことか。それが少し、哀しい。
「すぐにやれとは言わねぇし、できるもんでもない。それは俺たちだってよくよく知ってる。だから、いまはまだできてないってことだけ覚えときな」
「……はい」
「エルサリス、足は痛むか?」
 考え込みはじめたエルサリスに、突然のエリナードだった。なんのことだ、と思ってしまう。否、どう言う意味だと思ってしまう。それでもわからなくてただ、痛くはないと告げた。
 彼が迷う間に、とイメルがリジーに何があったのかを教えている。子供たちと遊んでいて足をくじいたのだ、と言ったときのリジーはなんとも言えない表情だった。嬉しいような、心配するような。それをイメルが微笑んで見ている。
「それ、魔力制御ができてないせいだぜ?」
 言われてはっとしてエルサリスは自分の足に視線を移す。無論、見えるようなものではない。それでもまじまじと見てしまった。




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