彼の人の下

 ――相変わらずの冴えだね。ほんと、いい腕してるよ。
 新市街。紋章もない馬車がのろのろと動き、あるいは停まる。この人出では相当に邪魔なはずだが、それを誰一人として気に留めていなかった。それが、フェリクスの技量。馬車そのものの存在を注視できなくなっている。ある、と気づいても気づけず、人はただ知らず避けて行く。そう言う魔法だ。
「あれは……。いったいどういう!?」
 馬車にはフェリクスともう一人が乗っていた。体を震わせて怒りをこらえるのはイアン・ジルクレスト。窓から覗く彼の視線の先にはエリナードとエルサリス。楽しく買い物をしていた。
 無論、エルサリスはまるで気づいていない。そちらはエリナードが対応している。馬車のある方向を注視しないようそれとなく意識を操っていた。さすがにエルサリスも魔力持ちだ、注意を払って見られればフェリクスがかけている弱い魔法程度ならば見抜けないとも限らない。
「なにが?」
 横柄に足を組んで座りつつ、フェリクスは正面に座しているイアンを見やる。エリナードはフェリクスを可愛いなどと言うけれど、そんなことを言うのは星花宮ですらほんの数人。その中にもちろんタイラントは含まれていない。いまの彼は誰が見ても星花宮の魔導師ここにあり、というべき姿。
「あれは、どう言うことなのか。ご説明いただけるのでしょうな!」
 狭い馬車の中だと言うのも忘れて腕を振りまわすイアンにフェリクスは溜息をつく。それに苛立ったのだろうイアンが凄まじい目つきをした。いまにも馬車を下りそうで、フェリクスは扉に鍵をかける羽目になる。彼が口の中で呟いただけでイアンにはどうすることもできなくなった。
「問題はあなただよ」
 イアンは善人だろう、たぶん。それをフェリクスは疑ってはいない。だが先走り過ぎだ。エルサリスが星花宮に預けられた時、イアンは言っている。養子を取ろうか、と。
 ――ほんと、冗談にしておいて欲しかったんだけどね。
 内心で呟いてしまう。路上で感知したのだろうエリナードがそっと笑った気配がした。
 イアンが一族の元をまわっている、という話が聞こえてきたのは最近のことだった。養子を迎えると直接に口にしてはいなかったものの、話を聞いていたフェリクスには察するものがあった。
「養子を取るつもりなんでしょ、あなた」
「それとこれと何が。そもそも私はあなたにそう告げているはずです」
「ほんとだね、言われていたのは僕も覚えてるけど。まさかこんなに早く動くとは思ってなかったんだよ。それは僕の失策」
 どう言う意味だ、いまだ睨んでいるイアンの視線。フェリクスは気にした風もない。一々突きかかるのも馬鹿らしい、ようやく冷静になったイアンが溜息をつく。それでもちらりと見やった先のエルサリスの表情。どこかがぎちりと鳴った。
「養子を取るなんてまだ早すぎるんだよ」
「ですが、フェリクス師。あれからすでに半年。私はここまで待ちました」
 早すぎるなどと言うことはない、とイアンは思う。いつエルサリスを迎えてもいいよう、できるだけ早いうちに家裡を整えておきたい。それが間違っているとでも言うつもりなのか、この魔術師は。
「ねぇ、ジルクレスト卿。あなた、魔法をなんだと思ってるわけ?」
 呆れたと言わんばかりのフェリクスの目。途端に少年に返ったような気がして落ち着かない。視線をさまよわせる彼を置き去りにしてフェリクスは溜息をつく。
「あなたは一応は思慮深い質だと思うしね、口も固いと思う」
 少なくとも一族にすら養子を取る、とはっきり言わなかったイアンだ。そこだけは評価している。一族のほうはドヴォーグ家との婚約が破談になり、醜聞に塗れることになったイアンだ、一族の内から妻を娶ることにしたのだろうとでも思っているらしい。
「だから、言うけど。もちろん他言無用だよ」
「……信用していただいてかまわないと思うのですが」
「そうだね。これでも信用はしてるんだよ、だからいきなり拘束して問い質したりしなかったんだしね」
 そんなことをされる理由があるのだろうか。腹を立てるより先に訝しくなるイアンだ。話題はエルサリスのことに違いはないはずなのだが。しかしフェリクスの唇から漏れたのは別の名。
「エリナードはね、端的に言えば天才だよ。不世出の天才って言ってもいいだろうね。いずれ僕の後を継ぐ魔術師になる。次世代の四魔導師の一人に彼はなる」
 驚いてイアンは窓の向こうを見やる。いまはエルサリスの笑みを一身に受けている彼を。鮮やかな金髪が風にそよいでいた。それすら妬ましくなるような美貌。
「ジルクレスト卿は転移魔法ってわかる?」
「名前だけは。一点から一点へと瞬時に移動する魔法、と聞いていますが」
「そのとおり。難しいのもわかってるみたいだね。――エリナードは、十一歳で転移魔法を発動させ、十三歳で大改革を達成した」
「……はい?」
「いま王都で魔術師がひょいひょい跳んで歩いてるのはエリナードの転移魔法のおかげだよ」
 転移点を用いた転移魔法は昔からある。それを改良したのが彼だった。転移点そのものを物質的にではなく魔法的に描くと言う想像の飛躍をもって。
「そのエリナードがね、三十歳を過ぎていまでもまだ弟子だって言う意味があなたにわかるかな」
 イアンは目を見張る。思わず外を見る。弟子だと言う意味より先に、彼がそのような年齢だとは思わなかった。それこそが彼が魔術師であると言う意味なのだと遅れて気づく。
「魔法の訓練、修行って言うのはそれだけ難しいものだよ。おいそれとできるものでもない」
「ならば――」
「最低でもあと二年は待って。エルサリスは魔力制御だけを望んでいるからね、魔法に手を出すつもりはない。だからその短期間で済む。でも二年はかかる。それを理解して」
 息を飲んでいた、イアンは。物を習うと言うことを軽視していたつもりはない。否、あるのだろうか。もっと早く、すぐにも彼が戻ってくるような気がしていた。小さく息を吐き、気づけば顔を覆う。
「だから……彼なのですか」
 天才とその師に言わしめたエリナードだから。エルサリスの教導は彼がしているのだろうか。あの屈託のない美貌がエルサリスを見やっては微笑む。隣で、すぐそこで。エルサリスもまた笑みを返す。ふと拳が痛んで、それまで握りしめていたことにイアンは気づいた。
「そうだけど、あなたが想像している意味ではないね。――エルサリスはね、わかるかな。自我と言える自我がほとんどないに等しい」
「そんなはずは。彼は彼の意志として私を救ってくれました。――私を慕ってくれていたもの、と思っています」
 いまもイアンは彼が刺繍した夏霜草の手巾を肌身離さず持っている。あれからずっと。離れ離れになってからも。
「そうだね、それだけがエルサリスの意志らしい意志、かな。彼は二十年、両親の下で殺されたみたいにして生きてた。でしょ? 彼は二十年、自我を育ててこなかったんだよ。そうだね、わかりやすく言うなら欲しいものを欲しいと彼は言えない。言うことすら思いつかない」
「そんなはずはないでしょう。私と共にあったころには――」
「それは姉の意志、だよ。身代わりだったんでしょ、エルサリスの気持ちじゃない。姉ならばどうするかだけを考えて生きてきたんだから」
 それには反論できないイアンだった。自分が鈍かったのだろうとは思う。それでも一度として違和感は覚えても別人だとは思いもしなかった。自我が希薄と言うのはそう言う意味でもあるのかもしれない。
「だから、エリナードが側にいる。あの子も、欲しいものが欲しいと言えない子だったからね。好きなものは好き、嫌なものは嫌、そう言えるようになるまであの子は十五年くらいかかったかな。今では傍若無人になってるけどね」
 肩をすくめたフェリクスにイアンは呆然としていた。十五年。エルサリスが自我というものを獲得するまで、それほどかかるのか。かかるとしたならば自分は待てるのか。
「……私では、いけないのですか」
「あなたはエルサリスの何?」
「私は」
 婚約者ではない。エルサリスの何かと言われれば何者でもない、としか言いようがない。ただ彼を愛しているとしか。
「その気持ちは貴いと思うよ。好きだから支えたい、それはいいことだと思う。――普通ならね」
 フェリクスの、氷帝と渾名される彼の口から出るにしてはずいぶんと甘い言葉だとイアンは思う。不意に思い出す。彼にはタイラントという伴侶がいるのだと。
「でもね、エルサリスの場合はだめだ」
「なぜです!」
「エルサリスは両親に呪縛されて生きてきた。いまあなたが側にいれば、彼はあなたを支えにするだろう。そうしたらどうなると思うの? 両親があなたに変わるだけだ。あなたは呪縛はしないだろうけど、彼が依存する。エルサリスが一人で立つことはできなくなる」
 両親と同じと言われて顔色の変わったイアンは、再び顔の色が変わるのを感じる。フェリクスの言葉に正当性を見てしまった。
「……エリナードは、あなたに依存していないと言うわけですか」
 それは負け惜しみというものだろう。冷静な部分が無様と嗤う。それでも言葉が止められない。エリナードの腕に軽く手を置いて共に歩むエルサリス。その姿を目で追った。
「依存はしてないね。僕はあの子が可愛いし、あの子も僕に対しては絶対の信頼を持ってる。それでも依存はしてないよ。あの子はちゃんといつか僕を越えて先に進む、そんな希望を持ってる。一人で先に歩いて行くつもりでいる」
 エルサリスにはそれができない、いまはまだ。自分の意志と言えるようなものは何一つとしてない彼だ。イアンから離れて暮らすいま、エルサリスはただ日々を過ごしていると言っても過言ではない。
「僕はね、エルサリスを預かった」
 偶然ではあった。あの日あの時ドヴォーグ邸に駆けつけられる場所にいたのは偶然だ。それでも届いた手。
「うちで預かったんだからね、僕も一応はエルサリスの師匠の一人ってわけだよ。――だからね、ジルクレスト卿。僕は子供たちはみんな幸せになって欲しいんだよ」
 だからこそ、待ってほしい。養子がどうのなど動かず、ただエルサリスを待ってほしい。それができるのか。いまここでイアンは問われていた。
 言葉はなかった、イアンは。楽しそうに歩いて行くエルサリスとエリナード。その姿を目に焼き付ける。ちりちりとした嫉妬。イアンは無言のまま大きくうなずいていた。




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