家を出れば、夕焼けが綺麗だった。まだ若い秋の果実が夕陽に染まって熟れて行く、そんな気すらするほど。立ち尽くすエルサリスに気づいたエリナードがジョーイを抱き上げた。 「ほら、おふくろさんの手伝いして来いよ」 「やだよ! もっと遊びたい!」 「隙間を見つけて遊ぶから遊びってのは楽しいんだ。お前もそのうちわかる。働けよ、ガキ」 ふふん、と笑ったエリナードに促されて渋々とジョーイが家の中に戻っていく。イメルがそれを笑って見ていた。 「ほんと、エリナードってさ。妙に子供の扱いがうまくて笑えるよね」 「言うんじゃねぇよ。だいたいガキは苦手だってーの」 「とか言って結構優しいし」 「お前……」 「ときめいてないから!? 俺が万が一男に恋することがあってもお前だけは死んでもないから!」 「そりゃよかった、安心したぜ」 あからさまに胸を撫でおろして見せるエリナード。くつくつと笑うイメル。エルサリスは側に寄りながら、どうしていいかわからない。 「ごめんなさい、エリナード」 詫びるしかないと、思った。こんな言葉一つで許されるとは思えない。けれどそれしか方法がなく。だがそんな彼にエリナードは驚いたらしかった。 「なんだよ急に?」 「いえ……だって。私が聞いていいような、話ではなかったのだと思います。それなのに……」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。聞かせようと思ったから連れてきたんだろうが」 息を飲むエルサリスに、ミナを紹介したのは誰だと思っている、言ってエリナードは笑った。イメルは棒立ちになったエルサリスの手を引き、パトリックの家の庭で三人は車座になる。少々秋風が冷たいけれど、寒すぎると言うほどではないだろう。 「私……」 何を言っていいのか、まだわからないのだろうエルサリス。言いたいことはたくさんあるのかもしれない。それでも言葉にならない彼。エリナードは小さく微笑む。 「――普通の魔術師ってのはな、ほとんど過去を語りたがらねぇもんだ。ただ、俺は平気でよ。べらべら言ってまわるわけじゃねぇけど、必要があれば話してもかまわねぇ」 「俺はだめだねー。やっぱり生家のことは思い出したくないって言うか」 「な、それぞれだ」 「ですが、話したくはないから、ミナさんからお話になるよう、言ったのでは?」 果敢に顔を上げたエルサリスの頬、夕陽が照っていた。赤々と燃える陽が彼の青白い顔色を少しよく見せている。 「それも違うな。俺自身、ミナを妹とは思ってねぇよ。ミナもだろ? だけどな、立場上、俺は兄貴であいつは妹だ。だったらミナの話の方がお前はわかりやすい、そう思っただけのことだぜ?」 「あ――」 「お前も弟だからよ。下から見た兄貴の話のほうが身に染みやすいだろうが」 「……ミナさんもあなたを兄とは思っていないと……でも」 「そりゃお互い様だ。お前が気にするようなことじゃない。ちょっと仲のいい知り合い程度だな。むしろミナのことで燃えるのはイメルのほうだぜ?」 あいつがケインを連れてきたときには大騒ぎだった、エリナードが言えばイメルが真っ赤になって怒る。こんなに仲がよく見える。それでも兄ではないと言い、妹ではないと言う。 「あのな、エルサリス。難しく考えるな。お前が生きてきた家が一つ。俺の経験が一つ。どっちもとりあえずこの世の実例ってだけだ。お前は自分の世界しか知らなかったから参考程度にミナに聞かせてやってくれって言っただけだぜ」 それでいいのだとエリナードは言う。なにか考える、あるいは選ぶ、その切っ掛けの一つにいつかなるかもしれない。そのために見せただけだと。 「……少し、寂しく思いました」 「あぁ、ミナちゃん、優しい子だしな。そんな子がお兄ちゃんだなんて思ってない、とか言うとけっこう来るものがあるって言うか……」 「お前な……。ミナを幾つだと思ってる。あれはもう六歳のガキの母親だぞ!?」 茶化して見せたのだろうイメルにエリナードがたぶん、付き合ったのだろう。エルサリスは小さく笑った自分に気づいては驚く。それでいい、とイメルの目が笑っていた。 「いえ、そうではなくて。――彼女は、兄の本名も真の名も知らないから、あなたがこうして親しくしてくれるのだ、と言っていましたから。それがなぜとなしに、切なく聞こえて」 エルサリスのその呼び名は、本名と言えば本名ではある。が、親が名付けたものではない。「育ての親」のリジーがつけてくれた呼び名に過ぎない。あれほどリジーに愛され大事にされていたというのに、それでも親に名付けられもしなかった自分、というのが傷になっているのかとエルサリスは今にして気づく。 「なんだ、あいつ。そんこと考えてたのか。そりゃ勘違いなんだがな……」 「え……?」 「俺の本名は、エリナードだ。真の名も、仮にミナが知ってたとしても、それとは別の名がもうついてる」 「俺たちはね、魔術師だから。星花宮でいま君も訓練をしてるだろ? で、俺たちはそこから、弟子になった」 イメルがわかるか、と覗き込んでくる。エルサリスは違いがよくはわからない。それを見とったのだろうイメルが話を続けてくれた。 「訓練をするって言うのは、君の目的通り、魔力の制御にある。普通に生きて行くだけだったらそれで充分なんだよ。でも俺たちは魔術師になりたかった」 「本格的に魔術を学ぶ。それが星花宮の弟子になるってことでな。そうなるとな、真の名を誰かに握られてるってのは致命的だ」 最悪の場合、呪殺の対象にもなり得る。無論、どんな魔法でもかかりやすくなるし、操り人形と化すこともある。 「だから弟子になるとき、儀式があるんだよ」 「象徴的にいっぺん死ぬわけだな。で、師匠に名前をもらう」 それがいまの真の名だ、とエリナードは言った。だからこそ、ミナが知るも知らないもないのだと。 「そう言う意味でな、ミナの兄貴ってのはもう死んでるって言っても間違いでもねぇわけだ」 ここにいるのはエリナード。星花宮のエリナードだ。顔を上げて真っ直ぐにどこかを見た彼のその姿。強烈な自負が、けれど嫌味ではなかった。羨ましいとすらエルサリスは思う。自らの芯がない彼にとっては。 「俺は割り切りが早いんだろうな。ガキのころの俺は死んでるわけだからよ。俺であって俺じゃない、他人の話みたいなもんだ」 だから昔を話しても一向に気にならない、エリナードは言う。それを恨めしげに見ているイメルは気にしがちな自分というものを思うのかもしれない。 エルサリスはそんな二人を注視していた。こうして支え導こうとしてくれる彼ら。その二人にしてこれほどまでに差異がある。そして「差異」でしかないのだと彼らは無言のうちに言う。生きているのだから、違って当たり前と。 「――真っ暗な、地下をいまでも覚えてるぜ? じとじとびちゃびちゃ。投げ渡されるパンの黴た味。壁に滴った水をすすった情けなさ。一歩も動かないのに、村中の話し声を聞いて、見て、知ってた気分。全部覚えてるぜ」 「動かないのに……。私にも、経験があります。あれは、魔力の……」 「そうだねー。魔力のある子供は制御していないぶん、そう言う経験がありがちだからね」 言葉を濁したけれどイメルにもきっとある。エルサリスはあれが自分にあった魔法の片鱗か、と今更ながら呆然としていた。人より勘がよいのだとばかり、思っていたものを。 「でもな、覚えてるからって俺はそれに左右されない。所詮、記憶は記憶だ。それに囚われて生きるのは、俺は嫌だからな」 「でも、自分の記憶でしょう?」 「だからなんだ? それに捕まってるんだか縋ってるんだかわからねぇ生き方は俺は、したくない。俺は師匠にエリナードって呼ばれた日から、あの人の魔法の先だけを見てる」 だからもう、昔の名は覚えてもいない。エリナードはからりと笑った。そこまで詳細な記憶があって名を覚えていないと言うのはあり得ない気がした。だからきっとそれはエリナードの覚悟。エルサリスはじっとうつむく。 「お前にそうなれってんじゃねぇぞ? 俺は俺、お前はお前。どうやって生きたいか決められるのはお前だけ」 「ほんっとさー、昔っからお前変わってないよなぁ。俺もそうやってよく説教されたわ」 「え……イメルのほうが、年上なのでしょう? 兄は、弟を……」 「うん、いじめたり可愛がったりするものだよね、普通は兄貴の方が弟を。でもこいつ、子供のころからこんなやつだし。俺はよく庇われたし説教された」 お前がそんな態度だからだ、エリナードの呆れたと言わんばかりの声。エルサリスは別の言葉に呆然とする。 兄は、姉は、下の兄弟を可愛がるものなのだろうか。本の中では読んでいた。本当に、そんなことがあるのだとは、知らなかった。 ふとエリナードを見上げる。先ほどミナの夫は言っていたではないか。どれほど彼がミナを案じていたのかを。口ではなんとでも言える。いまとなっては血の繋がりしかないのかもしれない。それでも、エリナードは「妹」であるミナを案じている。胸を押されたような衝撃を感じていた。 「ま、色々世の中はあるわな」 ちらりとエルサリスを見やったエリナードが笑う。もっともらしくうなずくイメルがいる。だからエルサリスはうなずく。いまはそれだけでいい。ふっとエリナードの目許が和らいだ。 「エリナードさん、イメルさん! 晩御飯できたわよー」 家の扉から顔を出したミナ。明るく手を振っていた。見ればもう陽は落ち、星が瞬いている。はじめてどちらかが灯したのだろう魔法灯火に気づいてエルサリスは目を丸くしていた。 「おうよ、いま行く!」 エルサリスの手を取って立たせてやり、エリナードは彼の目を覗き込む。詰め込みすぎたか、と思わなくもないが鉄は熱いうちに、とも言う。ならば、と。 「ほれ、行くぜ。せっかくだ、まともに幸せな家族の姿ってのも見て行けよ」 ミナがいて、ケインがいる。二人の間には生意気盛りの男の子。養父のパトリックもそこにはいる。平凡な家族、けれどこの場の誰もが持たなかった家族。 はい、とエルサリスはうなずいていた。真っ直ぐとエリナードを見て。その眼差しは意外なほどに男の目だった。 |