彼の人の下

「パトリックさん! 久しぶりー!」
 イメルの陽気な声。先ほどまでの会話が聞こえていなかったはずはないだろうに、彼は何事もなかったかのよう笑っている。それがエルサリスには何よりありがたい、そんな気がした。
「おう、坊主ども。元気だったか」
 小さな家の中に入れば、老人がいた。椅子の背に手をついて立ち上がり、満面の笑みで魔術師たちを迎える。
「パトリックさんこそ。どう、腰は?」
「これ、新しい薬な。ちょっと強めにしたから、痛いときだけ使うように。まぁ、そんなにたくさんは要らないだろ?」
「当たり前だ!」
 それほど年寄りではないだろうと揶揄するエリナードにパトリックはからりと笑う。それをたしなめながらイメルもまた笑っていた。
「それでこちらは……?」
 珍しい人を連れているな、とでも言わんばかりの、少々不躾なほどの眼差し。エルサリスは恥ずかしげに視線を伏せる。
「お前、宗旨替えしたのか?」
「するわけねぇだろうが!?」
「って言うか、パトリックさん酷いよ、俺の彼女だとは思わないわけ!?」
 思わん、とばっさりと切り捨て、豪快にパトリックは笑う。二人に会えたことが嬉しくてどうしようもない、そんな笑みにエルサリスまで嬉しくなる。それが不思議だった。
「あら……」
 ちょうど帰ってきたところだったのだろう、家の中の騒ぎに気づいて慌てて走ってきたのは一家の主婦か。足下に小さな子供がまとわりついている。
「よう。邪魔してるぜ」
 片手を上げたエリナードに女は眩しそうな目をした。それから振り返れば、そこに似合いの年頃の男の姿。夫だろう、とエルサリスは思う。
「この人がパトリックさん。いまは引退してのんびりしてるんだけど」
 イメルが改めて、と紹介してくれた。パトリックは昔、この北の薬草園の庭師頭だったという。いまは退官し、若い庭師頭の相談役になっているそうだ。
「この子が、ミナ」
 イメルにとっては気に障るようなことを言った覚えはないだろう。が、エルサリスは身を固くする。気づいたエリナードが何気なく傍らに立ち肩に手を乗せる。
「ミナ、だ」
 姉であるエルサミアの愛称、ミアと聞き間違えたエルサリス。すくんでしまった体と知って彼は微笑む。ただ聞き取れなかったのだろう、と。それにエルサリスは目礼した。
「ミナちゃんはパトリックさんの養女なんだ。んでこっちが旦那さんのケインと息子のジョーイ。可愛い盛りだよなぁ!」
「悪戯っ子で嫌になっちゃいますけどね。ほら、言ってる側から。ジョーイ!」
 呆れた母親の声にエリナードは小さく笑う。エルサリスは親子と聞いただけでまたも体を固くしていた。
「ミナ、ジョーイとちょっと遊んでやるよ」
 ひょい、とエリナードが存外に優しい手で子供を抱き上げる。いままでエルサリスの足下にまとわりついていた子供だった。
「いやだ、エリナードおじちゃん。この人だぁれ。すっごく美人!」
「このませガキめ。そう言うのはまだ十年は早いわ!」
 からからと笑いながら抱いた子供をエリナードはなぜかイメルに預けた。わかっていたのだろう彼は気軽に受け取って、子供をあやしながら外へと出て行く。
「こいつはエルサリス。ミナ、お前が知ってる限りでいい。俺の昔の話、してやってくれるか」
「え……。いいけれど……」
「あ、だったら俺もジョーイと遊んでやりましょう。エリナードさんの話なら……」
 気を利かせたケインにエリナードは苦笑してケインの肩に手を置いては座らせてやる。そのままエルサリスまで、座らされてしまった。
「こいつ、これでも野郎だからよ。一応、旦那は側にいてやってくれ」
「……え!? 男!? あ、いや……すんません」
「いえ……。申し訳ないのは私こそ。気味が悪くお思いでしょうに」
 とんでもない、とぶんぶん顔の前でケインは手を振った。わずかに唖然としたらしいパトリックだったけれど、すぐさま彼は立ち直る。ミナなど驚きもしなかったらしい。笑顔で茶の支度をはじめていた。
「じゃあ、頼むわ。――あぁ、エルサリス。自分の話はしなくっていいからな。とりあえず聞くだけでいい。わかったか?」
 エルサリスがうなずくなり、手を上げてエリナードもまた外へと去った。その後ろ姿を目で追ったのはミナ。パトリックが低く笑った。
「エリナードも大人になったものだな」
 くつくつと笑うから、きっと彼は幼いころの彼を知っているのだろう。エルサリスの想像通り、パトリックは言う。
「エリナードとイメルと。よくフェリクス師に連れられて遊びに来たものだよ。北の薬草園はあの子たちの遊び場の一つだった」
 魔力のある子供として訓練をする傍ら、彼らは魔術師を目指し様々な学問を続けていたという。薬草学の参考のために訪れたのが最初だった、と。
 エルサリスはパトリックの話を聞きながら胸の奥が痛んでいた。イアンが一度は訪れてみたいと言っていた北の薬草園。彼と共にくることができたならば。そこまで考えて、やめた。
「ミナはな、ここの働き手の娘だったんだが」
「――母は、いい母親では、なかったですね。むしろ、人としても褒められた人ではありませんでした」
「え……?」
「ミナはな、まだ当時ほんの六歳くらいだったか? わしが引き取ったときには、体中痣だらけだったさ。母親のせいでな」
「父さんが助けてくれなかったらきっと私、死んでいたわね」
 にこりと微笑む育ての子にパトリックもまた小さく微笑む。夫はそんな義理の親子を見ては嬉しそうだった。エルサリスはどこかが軋んだ音が聞こえた気がしたというのに。ここにも一人、似たような人が。
「引き取った切っ掛けと言うのがな、その母親さ」
 ちょうどエリナードとイメルが薬草園に遊びに来ていたところだったという。そのエリナードの姿を見るなり母親は叫んだそうだ。
「悪魔の子、と。――私、母が悪魔の子って言うのは聞いていたんです。私の他に、そう言う子がいたんだって。まだ子供でしたから、それが兄弟だとは、思わなかったんですけどね」
「きょう、だい……?」
「エリナードさん、私の兄なんです」
 困り顔をしたミナの手、パトリックがそっと握っていた。その手をわざとらしく夫が奪う。パトリックに向けて咳払いまでしていた。
「おっと、こりゃすまんの」
「ミナは俺の女房なんですからね、お父さん!」
「わしの娘だしなぁ」
 言い合う二人にミナは幸福そうな眼差しを向けていた。そしてエルサリスを見やる。ほんのりと痛ましげな色は、なにに向けられているのだろう。すぐにわかった。
「母が、悪魔の子に何をしたのか、聞かされてはいたんですよ。お前も悪魔の子になりたくなかったらって、さんざん言われましたからね」
 その頃はただ怖がらせているのだろうと思っていた、ミナは言う。エリナードと出会って、彼が受けた仕打ちだったと知った。
「エルサリスさん、地下の貯蔵庫ってわかるかしら?」
「地下は、えぇ。でも貯蔵庫と言うのは……」
「これよ」
 ひょい、と椅子をどけてミナは上げ蓋を上げて見せてくれた。真っ暗で、ここからこうして薄く光が入るだけのじめじめとした場所。普通は芋や保存食をしまっておく場所だと彼女は言う。
「こんな場所にね、兄はずっと閉じ込められていたんだそうよ。もちろんこの家じゃないわ。でも、似たような場所に」
 椅子も上げ蓋も戻された場所。エルサリスは真っ青になって見ていた。自分もまた地下で生きてきた。けれどここは。人が生きて行かれるような場所ではない、あまりに劣悪と言うもおろかな。
「私、兄がいたのを知らなかったの。私が小さなころに星花宮に引き取られたらしいから」
「エリナードに聞いている話じゃ、ミナが二歳くらいだったと言っていたかな。――本人も、妹を見たのは星花宮の魔術師に助け出されたときがはじめてだったと言っていた」
「はじめて、ですか。それは、閉じ込められていた、からなのですね?」
「そのとおり。ミナが生まれたのも育っていたのも知らない。つまりエリナードはな、最低でも三年はあんなところに放り込まれていた勘定になる」
 絶句する、とはこう言うことだろうか。エルサリスは言葉もなくパトリックを見つめる。真摯な老人の目。エルサリスは何を言っていいかもわからない。
「魔力のある子供は暴走さえしなければ頑丈だとは言うさ。それにしても、親のすることじゃあない。断じてない」
 パトリックの呟きに、ミナではなくケインがうなずく。我が子のことを思うのだろう。だからこそ、ミナはうなずくまでもないのだろう。不意に染み込むようにそれが理解できていた。
「だからね、私。エリナードさんが子供のころになんて呼ばれていたのか、知らないのよ。いまの名前は星花宮に引き取られてからつけてもらったって言うから」
 兄がいたとも知らなかったのだから、当然かもしれない。あるいはだから彼女は「エリナードさん」と呼ぶのかもしれない。
「兄の名前も知らない。当然、真の名なんてもっと知らない。だからエリナードさんはこうやってたまに会ってくれるの。魔術師の身内であっても、私は他人も同然。エリナードさんのことは何も知らないから」
「それでもちゃんと結婚式には来てくれただろ。ジョーイが生まれたときだって、あいつが熱病にかかったときだって、誰より心配してくれたのはエリナードさんだった」
「……そうね」
 他人などと言うな、たしなめる夫にミナは微笑む。だが彼女の気持ちとして、それが本当のところなのだろうとエルサリスは悟る。
 兄と妹。血は繋がっていても、他人も同然。エリナードも、ミナもきっと親しい知り合い以上のものではない、と断言するのだろう。
「だから……」
 自分に会わせたのか、とエルサリスは知る。姉の身代わりとして、その影として生きてきた彼だからこそ。どうかした、と首をかしげるミナにエルサリスは微笑む。
「私、兄弟のことがわからなくて。どうしていいのか、どう考えたらいいのか。だからきっと彼は私をあなたに会わせてくれたのだろうと思って」
「そんなに難しく考えることはないと思うわ。だって、エリナードさんと私は確かに血の繋がった兄妹かもしれないけど、別の人間であることは確かだし」
「そう、ですね」
 なんの気なしに言ったミナの言葉。エルサリスを貫く。兄弟でも、別の人間。そう考えていいのだと、ようやく理解した気がした。




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