ちょっとじっとしていてね、イメルに微笑まれ、エリナードには苦笑をされ。エルサリスはけれど逆らうことなくおとなしくしていた。 それがエリナードとしては不満でも不安でもある。言い返していいのだ、少なくとも質問をしてもいいのだということがまだ彼にはわからないのだろう。 ――時間はかかるわな。 溜息を一つ。イメルの無言の同意が返ってきたときには魔法は発動している。一瞬だけ、エルサリスは目を丸くした。しかし、それだけ。 「うん、さすがの自制心って言うか、さすが魔力持ちって言うか」 「そう……なんですか?」 「魔力のない常人だとね、転移の衝撃でまず間違いなく吐き気に苦しむからね」 飄々としたイメルの言葉にこそエルサリスは驚いたらしい。自分の魔力と、その上転移と。辺りを改めて見回して、エルサリスは不思議そうな顔をしていた。 「ここは――」 「ラクルーサの、だいぶ北のほうだね。俺たちは北の薬草園って呼んでるけど」 正式名称は別にあるけれど、それで通じてしまうのだ、とイメルは微笑む。エルサリスは呆然としていた。 「北の、薬草園……」 夏の終わりだったはずの王都。ここはすでに秋の気配。うっすらとした涼しい風が吹いていた。何より、ここは。 「イアン様が――」 はっとして口をつぐむ。けれどエルサリスの脳裏にはあの日のイアンが。いつか共にまいりましょう、と言ってくれた優しい笑み。体の脇、知らずぎゅっと拳を握る。 「エルサリス」 何気なくイメルが先行していた。少し先に立って歩く彼の背中を見つつ、エリナードは前を向いたままエルサリスの隣に並んで歩きだす。 「ジルクレスト卿に、惚れてんだろ?」 あまりにも率直に突きつけられた言葉。エルサリスは言葉を失くすより早くうつむく。慌てて首を振る。エリナードが小さく笑っていた。 「別に隠すようなことでもないと思うんだけどな」 「ですが。私は、これでも男の身です。――イアン様、いえ、ジルクレスト卿には、さぞご迷惑なことであったと思います。何より私は卿を謀りましたもの」 「関係あるかねぇ?」 ぽりぽりと顎をかくエリナード。並んで歩けばずいぶんと彼は背が高い。イアン様よりも高いだろうと思ったエルサリスはやはり、うつむいた。 「エリナード、尋ねてもいいですか?」 ぽつりと呟くエルサリスにエリナードはただうなずくだけ。その方がいまは気が楽だろうと思う。案の定、ほっとした吐息が聞こえた。 「あなたは、最初に会った日に、ご自分を同性愛者だと、仰っていましたけれど……」 「おうよ。それが?」 「私には、それがどうしても……」 「認められない?」 エリナードの周囲にはたぶん、常人の世界より多い割合で同性愛者がいる。四魔導師がそれぞれ同性の伴侶を持っているせいだとエリナードは内心で笑う。だがそれが理由と言うわけではないだろう。星花宮にいるのは魔術師だ。何よりも平衡感覚を重んじる、と言ってしまってもいい魔術師たち。だからこそ、性指向がどうのなど言われた覚えがない。たとえ常人の世界では色々あると知っていたとしても。 「んー、ドンカ信仰の一派には確かに同性愛を認めない、とかいるからなぁ」 エルサリスがそういう考えであったとしてもそれはそれ、とエリナードは思う。呟くよう言えば、エルサリスの驚きの眼差し。 「それでも、いいのですか?」 「自分で自分の性指向を認めないってのはつらい生き方だとは思うけどよ。それでも自分がそう生きたいってんなら俺が口出しするようなことじゃねぇだろ?」 片目をつぶれば、気が抜けたよう微笑むエルサリス。いまもまだ彼は反射的な笑いを浮かべてしまう。こればかりはすぐには直らないだろう。なにしろエリナード自身、人見知りがいまだに直らない。似たようなものだと彼は思う。 「認めない、と言うわけではないのです。ただ――良いのかどうかが、わからなくて」 「いいかどうか?」 「えぇ……。私は、自分が男の身であるという自覚は、あるのです。けれど、姉の身代わりとしてだけ、存在していました。ですから――」 「あぁ、自分の気持ちって言うか、ジルクレスト卿に惚れてるってのが、女の気持ちなのか男の気持ちなのかわからないってところか」 「ち、違います!」 違いはしないだろうとエリナードは取り合わない。語弊のある言い方をしたのはわかっている。エルサリスがどう悩んでいようとも、最低限ジルクレストを慕っているのはエルサリス自身の思いであると彼が気づく日が来るのだろうか。 ――来るよ、僕だってそうだったし。 ――師匠ほど気が長くないですよ、普通は。四年も五年も喧嘩されてたんじゃ傍迷惑ですし。 ――うるさいな、ほっといてよ。 人の心に勝手に話しかけておいて、勝手に拗ねてフェリクスの気配は遠のく。もっとも遠出に当たって接触可能なように魔法具を持ち出してきたのはエリナード自身だったが。思わず笑うエリナードにエルサリスはわずかに怯えたような顔をした。 「いや、なんでもない。ちょっとした思い出し笑いだ。師匠と話したことを思い出してよ。それだけだ」 「それも、不思議なのです」 「うん?」 「あなたは、フェリクス師をお父上とお呼びになるでしょう?」 そんな丁重な呼び方をしたことは一度としてないがエルサリスの言いたいことはわかる。どことなく照れくさくて肩をすくめたのにも彼は気づかない様子だった。 「フェリクス師は、あなたをご子息と呼ぶ。――私にとって、両親とは……なんなのでしょう。恐ろしいもの、だったと思います」 ゆっくりと歩きつつ、エルサリスは自分の両手を見ていた。傷つけられた過去を見ていたのかもしれない。 「いまもまだ、怖いのです。あなたは……フェリクス師にいつも心を覗かれていると……。恐ろしくはないのでしょうか」 いまも見ていたぞ、と言えばエルサリスは蒼白になるのではないだろうか。エリナードはすでに彼に嫌ではないと言ってあるけれど、それでは納得できなかったのだろう。困り顔で天を仰げば秋の空。高く鳥が飛んでいた。 「お前、親に嫌だって言ったこと、あるか?」 「え……。ある、と思います。きっと幼いころに……。それでも」 「なるほどな。でもやっぱり嫌がろうが何だろうが、嫌なことはされたわけだろ?」 「……はい」 「俺は、その覚えがない。もちろん、師匠の話だぜ? 俺は呼びつけられようが心を覗かれようが、別に心底嫌じゃない。なんでかわかるか? 俺が本気で嫌がることを、師匠は絶対しないってわかってるからだ」 「……あ」 「俺は親父を信じてるよ。あの人は、俺が本気で嫌がることは絶対しない。むしろ、俺がそう言う目に合いそうになったら体張って守ってくれる。どこにいても飛んできてくれる。――だから普段は何されても気にならない。しょうがねぇ親父だなって笑ってられる」 言いきって、またもエリナードは頬をかく。ほんのりと赤くなった頬。ついで顔を覆ったから、エルサリスにも理解ができた。いまもまた、フェリクスが彼の心にいたのだろう。聞かれたか、と身悶えするエリナードをエルサリスは微笑んで見つめる。 「あぁ、その顔の方がいいな。自然に笑うってことがお前にもちゃんとできてるぜ?」 ぱっと赤くなるエルサリスにエリナードはからからと笑う。口説いているとでも思われただろうか。横目で窺えばただ照れただけらしいことに安堵する。 「そこまで親御を慕うということが、私にはできません。――できないからこそ、なのでしょうか。お伽噺のように憧れます。もし、そんなにも慕うことができる父や母がいたならば、その人のために血を残したいと思うものではないのですか」 それこそ本で読んだだけだけれど、エルサリスは続ける。確かにお伽噺は「そしてみんな幸せに暮らしました」で終わるものだろう。挿絵は決まって孫子に囲まれた家族の姿。 「うーん、俺は……そうだな。十五ん時にはもう自分が同性愛者だってわかってたわけだし。そもそも魔術師だしな。俺たちは血を繋ぐより魔道を繋ぐことを選ぶもの。いずれ一人前んなって、師匠を越えて、俺が到達できた場所まで弟子を引きずって行って、あとに続いてもらえりゃそれでよしって感じか」 「それが、あなたの子、ということなのでしょうか」 「まぁ、たぶん」 「フェリクス師もまた、それを望むのでしょうか。――ごめんなさい、わからないことばかりで」 「いや、気にすんな。わかんないから聞くってのはいいことだと思うぜ。知らないまんまにしとくよりはな。――師匠の望みは、そうだな。とりあえず俺が幸せであること、かな」 「え?」 「たとえばな、お前が思ってるような『普通の家族』ってのを俺が目指したとするぜ。でも俺は男にしか恋愛感情が持てない。結局無理矢理女と家庭を持つわけだ。そんでガキこさえて。さて、エルサリス。これで誰が幸せだ?」 誰も幸福などではない。自分も、妻になった人も、子供も。エリナードは彼の返答を待たず畳みかける。幸福、などという観点で考えたことなどないのだろうエルサリスはただただ呼吸を繰り返していた。 「惚れてもいねぇ女とガキだけ作って俺の子ですって見せてもな、そんなの親父は全然嬉しくないだろうよ」 「嬉しく……ない……」 「俺が幸せじゃねぇからな。師匠はただひたすらに俺が幸せに生きて行くことだけを祈ってる。師匠だけじゃねぇよ。タイラント師はやっぱりイメルの幸福を願ってるしな。星花宮の四魔導師はそれぞれが弟子の幸福を考えてる。親代わりとしてな」 親代わり。その言葉にリジーが思い浮かんだ。乳母の彼女こそ、エルサリスにとってはまさに親代わり。 「リジーは……。私がつらい思いをする、と泣いていました……」 イアンにすべてを話すと決めた日。リジーはそう言って涙を浮かべた。エルサリスは間違っていたとは思えない。いまでもやはり、それしかなかったと思う。 「それで、よかったの。……イアン様が、無事なら、それで」 知らず呟くエルサリスの声。遠い響きにエリナードは聞かなかったふりをした。 |